原民喜というと原爆文学というイメージしかありません。編者の大江健三郎も一作家一テーマという持論によって戦後作品だけを採用しています。わたしの持っている『新潮文庫20世紀の100冊』というシリーズはカバーに「この年、『○○』刊行」と書かれているのですが、本書だけは刊行書籍ではなく「この年、原民喜被爆」と書かれています。(著者の場合は、原爆づくしにされるのは不本意ではなく本望だったろうとは思いますが)。
その点、文豪怪談という観点から昭和11年の「行列」、昭和13年の「夢の器」、戦後の「夢と人生」「鎮魂歌」を採用した『文豪怪談傑作選・昭和篇 女霊は誘う』はやはり画期的なのだと思います。
「I」
「苦しく美しき夏」(1950)
「秋日記」(1947)
「冬日記」(1946)
「美しき死の岸に」(1950)
「死のなかの風景」(1951)
第一部は原爆以前、病床の妻との交流が描かれた作品が集められています。
「II 『夏の花』」(1949)★★☆☆☆
「壊滅の序曲」(1949)
「夏の花」(1947)
「廃墟から」(1947)
第二部には『夏の花』三部作がすべて収録されています。発表順ではなく時系列順です。「壊滅の序曲」と「廃墟から」の二篇はタイトル通りの内容と言っていいでしょう。「夏の花」をわたしは事前知識から原爆文学として読むわけです。しかも本書を第一部からではなくこの第二部から読みました。だから冒頭の「私は街に出て花を買うと、妻の墓を訪れようと思った」とあるのを、てっきり原爆によって死んだ妻の墓参りかと思ってしまいました。だからそのページの最後に、「原子爆弾に襲われたのは、その翌々日のことであった」と書かれてあるのを読んで、推理小説のトリックが解明されたときのような驚きを受けてしまいました。
原爆が投下されたあとは、小説というよりもただの記録が羅列されているようにも見えます。それで充分に小説たりえる、とも言えるのでしょうが、最後にNとNの妻をめぐるエピソードが唐突に挿入されます。それこそ取って付けたように。厳しい言い方をすればただの身辺雑記とも言えるそれまでの文章が、語り手と繋がりのない第三者のエピソードによって客観性を獲得している、小説になった、のでしょうか。
「III」
「火の唇」(1949)
「鎮魂歌」(1949)
「永遠のみどり」(1951)
「心願の国」(1951)
このうち「鎮魂歌」と「心願の国」は既読。
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