『修道師と死』メシャ・セリモヴィッチ/三谷惠子訳(松籟社 東欧の想像力10)★★★★☆

 『Derviš i smrt』Meša Selimović,1966年。

 弟のハルンが逮捕された修道師アフメド・ヌルディンは、後援者の老人を訪れた。老人の娘が語るには、卑しい結婚をした弟ハサンのことを父親は勘当したがっているから、ハサンのほうから縁を切るように説得してほしいという。アフメドは、弟のことを交換条件にできないかと考える。ある夜、警備兵に追われた人間が敷地内に入ってきたのを目撃したアフメドは、助けることも匿うこともできないが、庭の奥に小屋があるとだけ逃亡者に伝えて、翌日、村人に事情を説明する。村人は警備兵に密告したが、アフメドは自分には責任はないと考える。その後、アフメドはハサンから弟ハルンが逮捕された理由を聞く。判事の書記だったハルンは、見てはならない調書を見てしまったのだ。ハルンをさらって匿うのなら協力すると言いだすハサンに対し、しかしアフメドは「正義」や「神」を理由に、尻込みする。アフメドは宗務局長に会いに行くが、興味を持ってはもらえなかった。やがて知らされる弟の死。アフメドは見知らぬ男たちに幽閉され、釈放される。

 アフメドはことあるごとに自分の行動に際して正義や神を引き合いに出していますが、実のところはただの言い訳に過ぎず、アフメドが臆病な小心者であり事なかれ主義者なのは、作品の端々から読み取ることができます。逃亡者を見て見ぬふりするのも然り、道で兵士と遭遇してしまったとき然り。宗務局長との会話も、好意的に見れば正面からぶつかるのではなく計画的に誘導しようとしているようにも受け取れますが、結局のところは問題を先送りにしているだけというのが本当のところでしょう。

 要するに、アフメドにとっては、神や宗教という格好の言い訳が用意されているのですね。卑俗な例にしてしまえば、妻が――、上司が――、政治が――、というようなものでしょう。ということは、実は本書は、事なかれ主義の日本人にこそぴったりの作品(?)かもしれません。

 戦争中、敵と味方双方に食事を与えたために母親を殺された少年ムラ=ユーフスをアフメドは引き取っていた。コーラン書写の才能がある少年を、ハサンは可愛いがり、三人の関係は良好に見えたが――ハルンを密告したのがムラ=ユーフスだったことが判明する。ムラ=ユーフスは自殺を図り、アフメドは憎しみに燃える。金細工師ハジ=シナヌーディンの息子が帝都で出世したという報せを聞いたアフメドは、なぜかそれを父親には知らせなかった。翌日、アフメドはムラ=ユーフスを脅迫する。ハジ=シナヌーディンを脱獄の共犯のかどで密告せよ。連行されるハジ=シナヌーディンらに向かって、何くわぬ顔で感動的な演説をおこなうアフメド。さらにはハサンの姉に接触し、夫である判事の心証を悪くしようと企む。

 弟ハルンの墓(と思われる辺り)から遺骨を持ち帰り、改めて自分の憎しみの感情を確認したアフメドが感じる一言、「私にとって、血にまみれた記憶になった。生きている間は、ただの弟だったのに。」が強烈です。

 しかしアフメドが変わったかといえばそんなこともなく、相変わらずハジ=シナヌーディンの息子の出世を知らせるか知らせないか優柔不断で言い訳ばかり。結果的にはその決断(優柔不断)が、翌日のハジ=シナヌーディン密告につながるわけですが、それを無意識裡にも考えての行動だったかどうかは怪しいところです。

 やがて暴動が起こり、ハジ=シナヌーディンは救出され、判事は殺され、ことの発端がアフメドだと知られることもなく、アフメドは次の判事の任をまかされる。ところがハサンが使っていた外国人にスパイ疑惑が浮かび上がり、アフメドは友人を取るか自分のみの安全を取るかの二者択一を迫られる。

 復讐に燃えた事なかれ主義者の、何と俗物な着地点でしょう。まさに俗物以外の何ものでもありません。悩んでいるふりごっこ、もここまで徹底できれば立派なものでしょう。信仰や民族や復讐という言い訳が用意されている分、アフメドのような人間には生きやすかったのかもしれませんね。自分の死ぬ日の朝が明けたことを告げる雄鶏に怯えるラストシーンが印象的でした。
 

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