交流のあった「柳」田國男と泉鏡「花」の作品から、互いに「所縁深き作品群」を収録したアンソロジーです。
『山海評判記』泉鏡花(1929)★★★★☆
――能登の旅館に泊まった小説家の矢野誓は、按摩から「長太居るか」の昔話を聞く。山に住む若者・長太が、化け狸を返り討ちにしたために狸の嫁から敵討ちに遭うが、観音様の掛け軸のおかげで難を逃れたという話だった。按摩が帰ると騒ぎが持ち上がった。湯治に来ている軍人は神経をやられているらしい。その夜、矢野は井戸を覗く三人の女を見たような気がした。明くる日、女の生首があると運転手が怖がっていたが、それはオシラ様という神様の形代だと矢野は説明する。軍人父娘の行方が知れない。一方、花柳の女師匠である数枝の娘・お李枝のところでは、町内の連中が紙芝居をおこなっていた。井戸を見つめる三人の女の頭が鳥に変わった。お李枝は矢野夫妻が黙って能登に行ったことを知って不満げだった。「おじさんはあたしが好きなんだもの」。お李枝は一人汽車に乗って能登を目指す。やがて能登に到着したお李枝と矢野が自動車に乗っていると、渋滞する馬車の馬士《まご》たちに絡まれて……。
数枝がお李枝に話す、友人が幽霊の紙人形に黒豆をくわえさせて不意に突き出すので、驚きもせずに口移しで食べた――という昔のエピソードが、下手な怪談よりもぞっとさせられます。
そして矢野の体験と紙芝居の暗合にも、二つの世界が次元を越えてつながっているような、何だかもやもやする不気味さがありました。これは結局なんだったのでしょうか、暗合は暗合に過ぎないということなのでしょうか。
よくわからないといえば軍人さんは何だったんでしょうね。
最後には『天守物語』を思わせるデウス・エクス・マキナが――かと思いましたが、本書の場合、オシラ様のエピソードや、矢野の学生時代のエピソードといったこれまでの物語から一応つながっているのですね。
「巫女考」柳田國男(1913)
巫女(いわゆる巫女さんとイタコの両方)についての長篇論考です。オシラサマについては「オシラ神」の項でさらっと触れられているほか、「を筬を持てる女」にも記述があります。個人的にはやはり「蛇神・犬神の類」の項に惹かれてしまいます。
イタコの組合みたいな集まりの会長に来てもらったという雑誌の記事でした。
研究対象……というよりは、柳田自身がオシラ神に入れ込んでいるようで面白い。オシラ神の概要、オシラ信仰の風俗、オシラ神の霊験などが紹介されています。
シャクジンが「もと石神の音訛であるという通説に疑いを挿んだことがある」ことから始まる章は、推理小説を読んでいるようでスリリングでした。もう少し突っ込んでくれたらいいのに。現在の通説ではどうなっているのでしょう?
「おしら様と執り物」柳田國男(1947)
だいぶ時代が下って昭和22年の文章なので、ずいぶんと整理されています。
「長太狢」(1923)
付録として『石川県鳳至郡誌』より、『山海評判記』に登場する「長太居るか」の民話が集録されています。
「「山海評判記」のこと」小村雪岱(1940)
挿絵を描いた小村雪岱による『山海評判記』思い出話。『泉鏡花全集』月報。
「鴻仙館・長太居るか・井戸覗き」田中励義
舞台となった旅館の実際の見取り図が掲載されているほか、実質的な解説です。
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