『かくして殺人へ』カーター・ディクスン/白須清美訳(創元推理文庫)★★★☆☆

 『And So to Murder』Carter Dickson,1940年。

 ロマンス小説でデビューした牧師の娘モニカは、その過激な作品内容から家族の顰蹙を買ってしまいます。そして伯母から言われたのは、「せめて探偵小説だったなら」という台詞。そのせいでモニカは、探偵小説が、そして伯母が引き合いに出した知り合いの探偵小説家が大嫌いになりました。それでも自作が映画化され、脚本家として映画スタジオに招待されたモニカの前に、自作をこき下ろす別の脚本家が現れます。その脚本家こそ、あろうことかモニカの不倶戴天の探偵小説家カートライトでした……。

 初対面で最悪の印象を持つという、何ともベタなラブコメでスタートする本書は、カーの代表作のような大物理トリックこそ用いられていませんが、たった一つの勘違いからすべての事件の謎が始まるという、構図のきれいな作品でした。その勘違いがH・Mによって明らかにされた途端に、ほとんどの謎からきれいに霧が晴れるのは、読んでいてとても気持のいいものでした。

 本書のタイトル『かくして殺人へ』とは、犯人が殺人に踏み切る表現(p.274)であると同時に、カートライト原作の映画タイトルでもありますが、映画スタジオでヒロインが見えない殺人犯に怯え犯人を捜すというサスペンス・ストーリーはそのまま映画にもできそうです。

 牧師の娘モニカ・スタントンは、初めて書いた小説でいきなり大当たり。しかし伯母にやいやい言われ、生まれ育った村を飛び出してロンドン近郊の映画撮影所にやってきた。さあ仕事だと意気込むが、何度も死と隣り合わせの目に遭う。犯人も動機も雲を掴むばかり。見かねた探偵作家がヘンリ・メリヴェール卿に助力を求めて……。灯火管制下の英国を舞台に描かれた、H・M卿活躍譚。(カバーあらすじ)

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 かくして殺人へ
 

『アヒルと鴨のコインロッカー』伊坂幸太郎(創元推理文庫)★★★★☆

 アパートの隣人に誘われて、本屋から広辞苑を盗むはめになってしまう。

 この冒頭の設定だけで、どんな話なのかと読みたくなってしまいました。

 本書は二つのパートからなり、「現在」パートでは大学生の椎名が河崎という風変わりな隣人に振り回され、「二年前」パートではペットショップ店員の琴美という河崎の元カノが連続するペット殺しに巻き込まれます。

 二つのパートは最後にはリンクするのですが、それよりも感心したのは椎名の部屋から教科書が消えた謎で、ミステリ好きとしてはこういう逆転のロジックには惹かれてしまいます。

 引っ越してきたアパートで出会ったのは、悪魔めいた印象の長身の青年。初対面だというのに、彼はいきなり「一緒に本屋を襲わないか」と持ちかけてきた。彼の標的は――たった1冊の広辞苑!? そんなおかしな話に乗る気などなかったのに、なぜか僕は決行の夜、モデルガンを手に書店の裏口に立ってしまったのだ! 清冽な余韻を残す傑作ミステリ。第25回吉川英治文学新人賞受賞。(カバーあらすじ)

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 アヒルと鴨のコインロッカー
 

『ぼくのアッコ』大海赫(復刊ドットコム)★★★★☆

 一時期復刊ドットコムからの刊行が続いていた、『ビビを見た!』の大海赫の新作絵本です。

 デ・ラ・メア「なぞ」のように、ひげの紳士や猫や蛇が次々とカバンのなかに消えてゆきます。

 そんなストーリーもさることながら、「ぼくのアッコ」というのが、語り手の少年が一方的に気に入って名前をつけて置き引きしようとした鞄の名前だというところがすでに異様です。

 鞄とともに重くなってゆく「ぼくの心」とは、おそらくは罪の意識なのでしょう。

 であれば、鞄から出てきた本とナイフと鍵というのも、何かの象徴なのでしょうか。ナイフと鍵というのは物騒ですが、本というのは知識でしょうか。あるいは、蛇はイヴの誘惑者で鍵は宝石箱と考えると女性の象徴……と、フロイトなど普段は馬鹿にしているのに、つい考えてしまいます。

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 ぼくのアッコ
 

『文豪ノ怪談ジュニア・セレクション 獣』東雅夫編/中川学絵(汐文社)★★★☆☆

 挿絵は泉鏡花の絵本でおなじみ中川学です。
 

山月記中島敦(1942)★★★★☆
 ――隴西の李徴は博学才穎であったが、賤吏に甘んずることを潔しとせず、ひたすら詩作に耽った。しかし文名は容易にはあがらず、ついに発狂したまま二度と戻ってはこなかった。翌年、陳郡の袁傪という者が勅命による使の最中、一匹の猛虎が叢から躍り出た。

 どちらかというと内容よりも文体の印象が強い著者ですが、編者は典拠である「人虎記」と比較することでその構成力についても評価していました。
 

「牛女」小川未明(1919)★★★☆☆
 ――その大きな女はおしで、くびを垂れてあるくので牛女と呼ばれていた。子供と二人ぎりでしたが、やさしく力の強い牛女も病気になりました。子供は、死んだ母親が恋しくなると、かなたの山を見ました。すると天気のいい日には、牛女の黒い姿を見ることができたのです。

 牛女とは呼び名であって、実は牛の怪ではなくただの人間です(あるいはこうもりです)。けれど彼方の山に姿が見えたり、町に現れたりといった不思議な出来事が起こり、それが「牛女」という名前で呼ばれると、実態が不明となり名前だけが残り、そうして妖怪が生まれるのかも……といろいろと考えてしまいました。
 

「馬の脚」芥川龍之介(1925)★★★☆☆
 ――脳溢血で頓死した忍野半三郎は支那人のいる事務室に来ていた。「人違いですね。だが三日前に死んでいて、すでに脚が腐っている」。現世に戻そうにも、代わりの脚がないため、仕方なく馬の脚をつけることにした。半三郎は他人にばれないように常に長靴を履くようになった。

 わりとユーモラスな再話もので、馬の性質に乗っ取られてしまったがための騒動が描かれます。
 

「お化うさぎ」与謝野晶子(1908)★★★☆☆
 ――太郎さんがお座敷にいますと、築山のかげに白いものが見えます。「坊ちゃん、兎のようです」「だけれど少し変だね、梅」「尻尾が長いじゃありませんか」「お腹も大きいね」「顔も狸のようです」「狸が兎に化けているのだ、きっと」太郎さんはこの化兎に「私は狸」だといわせようと思いました。

 魔人を挑発して勝利を収める民話のようなパターンですが、狸は退治されることなく、どうやら仲良くなれたようです。編者の註釈に「一見ユーモラスだが、リアルな映像を思い浮かべてみると、なんともグロテスクな描写である」とありますが、その場面よりも、たぬきうさぎを描いた中川学氏の挿絵がすでに怖いです。
 

「閑山」坂口安吾(1938)★★★★☆
 ――いっぴきの狸いたずらした和尚にたしなめられ、いつしかその高風に感じいって小坊主になった。この狸は団九郎といい、眷属では名の知れた狸だった。やがて和尚が死ぬと怠惰な後継者をこらしめ、和尚となった団九郎は人呼んで呑火和尚といった。村のしれものが食事に砥粉をふりかけたために、呑火和尚は放屁の誘惑が止まらなくなった。

 再話ふうに始まりながら、中盤には安吾流のユーモアもといスラップスティックがが炸裂し、そのままの勢いで悟りの境地に突き進むという凄い作品です。これが人間の名僧の話ではなく狸の話であることを途中から忘れていました。
 

「尼」太宰治(1936)★★★☆☆
 ――昼のうちたくさん眠った罰で夜に眠れずにいると、襖がことことと鳴った。あけてみたら若い尼が立っていた。僕は、ああ妹だなと思ったので、おはいりといった。だしぬけに恐怖が襲った。「あなたは妹じゃないのですね」「うちを間違えたようです。寝なければなりません。私の顔を見ていてください。如来様がおいでになります」

 妹じゃないとわかったくだりのシュールなやり取りは「ネジ式」を連想するような心地よい居心地の悪さを感じましたが、蟹の話になるとトーンダウンしてしまいます。『御伽草子』もそうですが太宰はほんとうに諷刺が下手です。それでも最後にはこれも太宰らしいといえるような底の抜けた笑いが待っていました。ひとつの作品のなかにさまざまな作風が籠められています。
 

「交尾」梶井基次郎(1931)★★★☆☆
 ――どの家も寝静まっている。魚屋が咳いている。先程から露地の上には盛んに白いものが往来している。不意に二匹の城猫が寝転んで組打ちをはじめた。私は猫の交尾を見たことがあるがこんなものではない。仔猫がふざけているのでもない。

 梶井基次郎の文章は写実的なようでいて出来上がった作品は超現実的です。人によってはそれを繊細と呼び、人によっては病的と呼ぶでしょう。
 

注文の多い料理店宮沢賢治(1924)
 

「蛇くひ」泉鏡花(1898)★★★★☆
 ――假に(應)といへる一種異様の乞食ありて、郷屋敷田圃を徘徊す。軒毎に食を求め、與へざれば敢て去らず。渠等は拒みたる店前に集り、餓ゑて食ふものの何なるかを見よ、と叫びて、袂より畝々と這出づる蛇を掴みて、引斷りては舌鼓して咀嚼し、舐る態は、嘔吐を催し、心弱き婦女子は病を得ざるは寡なし。

 幻妖チャレンジ!のコーナー。鏡花の原文と編者による口語訳付き。中川学による乞食の挿絵が完全に妖怪ですが、鏡花作品そのものも蛇ではなく乞食が主役ですね。

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 文豪ノ怪談ジュニア・セレクション 獣
 

『J・G・バラード短編全集2 歌う彫刻』柳下毅一郎監修(東京創元社)★★★★☆

 『The Complete Short Stories: J. G. Ballard』
 

「重荷を負いすぎた男」増田まもる(The Overloaded Man,1961)★★★★☆
 ――フォークナーはゆっくりと狂いかけていた。妻にはまだ言っていないが、ビジネススクールの講師を二か月前に辞めていた。妻のキスは短く機械的だった。フォークナーは家々を眺めていたが、いまやキュビストの風景を見つめていた。

 あらゆるものを幾何学的形態として捉え直す〈能力〉を身につけた者であれば、実際に逃避してしまえるというのは、現代社会に生きる者であればどことなく羨ましい気がしないでもありません。
 

「ミスターFはミスターF」山田和子(Mr. F. Is Mr. F.,1961)★★★☆☆
 ――妻のエリザベスが妊娠してから、フリーマンの体重は徐々に減り始めた。医者にはかからずベッドに寝ていたフリーマンは、妻に気づかれないようにベッドに潜り込んでいたが、身長もどんどん減っていた。

 縮んでゆく話ならよくありますが、この作品はとことんまで遡ります。さすがにそうなってしまうと、記憶や知識も維持することはできなかったようです。
 

「至福一兆」中村融(Billenium,1961)★★★★☆
 ――爆発的な人口増加により、人々は限られたスペースでの生活を余儀なくされていた。政府は人口の増加率をひた隠し、一人当たりの床面積(天井面積)の割り当てはどんどん狭くなる。

 社会問題を極限にまで推し進めたディストピアに圧倒されますが、それだけに広い場所を求めて思い出の家具を売ろうとする主人公がちょっとだけ心を痛めるラストシーンが印象的でした。
 

「優しい暗殺者」山田和子(The Gentle Assassin,1961)★★★★☆
 ――戴冠式の日、ジェイミソン博士はロンドンに到着した。ジェイミソンがいくら説明しても、ジューンは「タイムトラベル」という言葉を使った。ジェイミソンは若い男女が話をしているのを眺めた。何としても阻止しなければ。

 典型的なタイムパラドックスを扱った作品で、意外性のある展開のその意外さすらも型通りですが、それだけにコンパクトにまとまっています。
 

「正常ならざる人々」山田和子(The Insane Ones,1962)★★★☆☆
 ――精神自由法ができて精神医療を含めた他人への干渉が罪となる世界。そのために収監されたチャールズ・グレゴリー博士は3年の懲役から出て来たばかりで、一人の少女をヒッチハイクで拾った。少女は博士の正体を知り助けを求めたが、痛い目を見ていた博士は救いの手を差し伸べようとはしなかった。

 これまた極端な世界を描いたディストピア小説です。舞台は極端ではありますが、たとえ心から口にしているわけでも矯正されているわけでもなくとも、グレゴリーに「お前は正常ではない」と叫ばせてしまえるほどに、社会的・心理的な圧迫が力を持ち得てしまっているという点に、現実にも通ずる恐ろしさがあります。
 

「時間の庭」増田まもる(The Garden of Time,1962)★★★★☆
 ――数えきれない人間の大群が地平線をこえてくるのが見えた。伯爵が時間の花を摘んでテラスに戻ると、花はきらめきながら結晶が溶解し、夕日めざして飛び去った。すると平原まで広がっていた大群衆は地平線まで後退し、そのまま静止したかのようだった。

 時間の花というアイデアから、壮大ともいえる滅びや頽廃を美しく描いていて、地味ながら実にバラードらしいと思います。
 

「ステラヴィスタの千の夢」永井淳(The Thousand Dreams of Stellavista,1962)★★★★☆
 ――わたしが購入しフェイと暮らすことにした精神に感応するその家は、かつて映画スターのグロリア・トレメインが夫を殺した疑いを持たれた家だった。すぐにフェイはその家に影響され始め、とうとう家に殺されそうになった。

 ヴァーミリオン・サンズもの。ヴァーミリオン・サンズではいろいろなものが「生きて」いますが、今回も、死者の記憶を持つ生きた家というユニークなものが登場します。
 

「アルファ・ケンタウリへの十三人」永井淳(Thirteen to Centaurus,1962)★★★★★
 ――エイベルは知っていた。十六回目の誕生日を迎えた直後に推測したことは当たっていた。ドクター・フランシスによれば、ステーションよりも大きな惑星というものは実在するという。そしてエイベルたちは惑星からアルファ・ケンタウリへと向かうステーションで生きる、条件付けをされた何世代目かの子どもなのだ。

 バラードには珍しく、宇宙空間で暮らす人々の人間模様を描いたブラッドベリのような作品かと……思ってしまいましたが、そんなことはまったくありませんでした。皮肉どころか悪意さえ感じさせる現実でした。
 

「永遠へのパスポート」中村融(Passport to Eternity,1962)★★★☆☆
 ――「今年はきみに休暇旅行の手配をしてもらいたい」夫のクリフォードのひとことに、妻のマーゴットはうれしそうに身を乗りだした。目先を変えるために旅行代理店を残らずまわってお勧めを聞いてきてもらうことにした。

 時代や世界が違っても、夫婦のやることは変わらないな、という感じです。
 

「砂の檻」中村融(The Cage of Sand,1962)★★★★★
 ――いまだに地球を周回している遺棄された七つの衛星カプセルが一堂に会して空を渡る時期がきた。火星の砂に埋もれた街も、かつてはリゾート地だった。今は疎開命令が出され立入禁止になっている。夫が遭難した衛星を見つめているルイーズ・ウッドワードを、ブリッジマンは見つめていた。

 火星の砂に埋もれた街――『沈んだ世界』や『結晶世界』でおなじみのバラード世界そのものが舞台となっています。すでに終わりが決定的な世界で、滅びをともにする人々。
 

「監視塔」柳下毅一郎(The Watch-Towers,1962)★★★★☆
 ――その翌日、どういうわけか監視塔の活動が活発になった。レンサルはいつも監視塔を無視しようと努めているのだが、通りの端まで行ってからこっそりと首をまわした。レンサルが会いに行くと、オズモンド夫人は監視の強化されたことを気にしていた。「あいつらの行動の意味なんてわからない。それにあいつらだって壁は見通せないさ」

 (たぶん)監視している存在がいるらしいのですが、疑心暗鬼ですらなく、監視している“ということになっている”というのがしっくりきます。そしてこの“ということになっている”というだけのことを、伝統とか常識だとか思い込んでいるひとが現実には存在するから困り者です。
 

「歌う彫刻」村上博基(The Singing Statues,1962)★★★★☆
 ――ルノーラ・ゴールンは顔に怪我をしてから売れ出したが、やがて女優をやめて美術界のパトロンになった。そのルノーラがネフェルスのギャラリーに入ってきて、ぼくが内部にひそんでいるとも知らず〈ゼロ軌道〉に目を留めた。このチャンスに、ぼくは思わず自分で歌っていた。

 歌う彫刻というアイデアはもちろん、どこか退廃的で病んでいるような女優の存在にいたるまで、ヴァーミリオン・サンズらしい道具立てが揃っています。この道具立てあってこそ、芸術家気取りのパトロンに対する諷刺などというつまらないものではなくなっています。
 

「九十九階の男」永井淳(The Man on the 99th Floor,1962)★★★☆☆
 ――フォービスは百階に到達しようとして終日がんばった。だが九十九階まで来るとそこから先に進めなくなった。フォービスが自殺しようとしていたと考えた大学教員のヴァンシタートは、フォービスが催眠術をかけられていると考えた。

 百階を目指す男と催眠術の犯罪というサスペンスこそ引き込まれるものの、終盤はさしてひねりもなく黒幕が出て来ておしまい、という内容でした。
 

「無意識の人間」柳下毅一郎(The Subliminal Man,1963)★★★☆☆
 ――「また看板だ」とハサウェイが言った。禁止されているサブリミナルによって購買意欲を植えつけられているのだとハサウェイは信じ込んでいた。

 当時としてはかなりの諷刺だったのかもしれませんが、今となっては当たり前すぎて却って面白味がありません。
 

「爬虫類園」浅倉久志(The Reptile Enclosure,1963)★★★☆☆
 ――「あの人たちを見ているとガダラの豚を思い出すわ」テラスの下には、砂浜から砂丘の上まで、寝そべった人々の体で埋めつくされていた。

 レミング集団自殺という俗説でおなじみの行動が、ガダラの豚になぞらえられていて、終末世界の得意な(?)バラードらしい幻想感に溢れていました。
 

「地球帰還の問題」永井淳(A Question of Re-Entry,1963)★★★★★
 ――軌道からはずれて行方不明になったスペンダー大佐のスペース・カプセルをさがしに、コノリー中尉は南米のジャングルに足を踏み入れた。現地ではライカーという白人がインディオたちと過ごしていた。

 目的こそ宇宙船の乗組員をさがすことでありながら、問題とされているのは宇宙のことではなく文明と価値観のことで、それが宇宙のこと以上に読む者の心を揺さぶります。
 

「時間の墓標」増田まもる(The Time-Tombs,1963)★★★★☆
 ――いつか復活できることを信じて、三次元データを埋葬した王朝の「時間の墓」。盗掘人のシェプリーが見つけたのは、絶世の美女の墓所だった。

 謎めいた美女に囚われてしまうというところからはヴァーミリオン・サンズものにも通じるところがあります。美女そのものが幻だったという儚い話です。
 

「いまめざめる海」増田まもる(Now Wakes the Sea,1963)★★★★☆
 ――夜になるとまたしても、メイスンは近づいてくる波の音を耳にした。「ゆうべもまた海を見たよ」と妻に話しても、「いちばん近い海だって千マイルは離れているわ」と言われてしまった。

 この時期のバラードはアイデアSFみたいな話だったり幻想小説としか言いようのない作品だったり振れ幅が大きいようですが、本書収録作のなかではこれは「砂の檻」と併せて幻想系の代表作だと思います。

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