『イワン・イリイチの死/クロイツェル・ソナタ』トルストイ/望月哲男訳(光文社古典新訳文庫)★★★★☆

イワン・イリイチの死(Смерть Ивана Ильича,1886)★★★★☆

 こまった。なんだこの回りくどい文章は。。。と最初は思いましたよ、はい。「妻が、イワン・イリイチからすると何の理由もなく、つまり彼のいわゆるただの気まぐれから、生活の楽しみと品位を壊し始めたのだった。」とか「この場合、イワン・イリイチが花嫁を愛し、相手の心のうちに自分の人生観に共鳴するものを見つけて結婚したのだというのも、あるいは彼は自分の周りの社交界人士がこの縁組を支持したから結婚したのだというのも、〜」とかいうまどろっこしい文章の嵐である。

 翻訳が下手なのかな……と思いながら「クロイツェル・ソナタ」を読むと、これはうってかわってたいへん読みやすい文章だった。ほかの訳者による「イワン〜」を読んでももってまわったような文章だったのを鑑みると、おそらくトルストイの原文がこういう文章なんだろうと思う。で、この作品にはこういうねちっこい文章が必要なのだね。

 自分じゃなくてよかった、と思う同僚たちと、何で自分だけが、と思うイワン・イリイチ。この感覚がすごく共感を呼ぶ。自分が目撃したことを誰も信じてくれないミステリとかSFとか、あるいは逆に妄想を現実だと信じ込むあまり周囲の人間を拒否するホラーとかサスペンスとか、卑近な例ならいろいろあるけど、本篇で扱われるのは「死」。

 それこそ半分くらいは(被害)妄想なのかもしれないけど、「痛み」というやつだけは完全に個人的なことだから(レヴィナスだっけ?忘れた)、理解しあいたくてもできないのが当然なのだ。いや実は台所番ゲローシムと心が通い合うのだって妄想にすぎないんだよね。普段は気づきもしなかったことに、死に直面して初めて気づく。あらゆる人とすれ違っていたんだ、って。そこからの悪あがきがすごい。人を恨んで運命を恨んで死を恨んで(同時に怯えて)。

 しかし嫌らしい小説だね。すでに定められている死に向かって、もったいぶった文章がねちねちと続く。これはつらい。なんて嫌らしい小説なんだろうか。

 死ねば楽になる(かもしれない)。けれど著者は簡単には楽にしてくれない。イワン・イリイチの葛藤、なぜ自分だけがと思う整理できない心の濁流を、事務的でありながら嫌というほど事細かに、それももったいぶった言い回しで書き連ねているので、読者もイワン・イリイチの精神状態に付き合わざるを得ない。

 死の絶望とか憎悪とか、言葉にするのは簡単だけれど、実際にどんな気持なのかは生きている人間には誰にもわからない。わからないはずのことを、「イワン・イリイチの死」は追体験させてくれる。予想だにできなかった真っ暗な気持。うんざり。吐き気。混沌。

 最後はショックというかなんというか。「死は終わった/もはや死はない」。単純にかっこいいし。意識があるからこその「死」なんですね。終われば、痛みも苦しみも恐怖もなくなる。

 読者レベルで見れば、このラストは救いにほかならない。でも主人公レベルで見るとどうなんだろう。死後の世界を前提にしているのなら、救いにはなるだろう。でも死後の世界がないとすれば、終わった途端に「死」と同時に「救い」すらなくなってしまう。

 なぜかカフカの「変身」を思い浮かべてしまった。あっちは全然あがいてはいないんだが。隔絶した主人公と、主人公を意に介さない周囲という構図が一緒なだけかな。
 

「クロイツェル・ソナタ(Крейцерова Соната,1889)★★★★☆

 狂信です。自分の思想こそが絶対の真理だと思い込み、そこからずれるものはすべて否定・排除する。あるいは、実は嫉妬で殺しただけなのに、あとから屁理屈をこねて理論武装する。典型的な狂信者。「家族の名誉」とか「ブーツを脱いだままじゃみっともない。せめてスリッパでも履かせてもらいます」とかいう台詞が象徴的。

 でもサイコとかニューロティック・スリラーとかいうのとはちょっと違うんだよね。

 小説そのものも、小説というよりほとんど思想の垂れ流しみないな一人語り(しかも汽車で偶然乗り合わせただけの人に!)だし、頭でっかちなだけなんだろうな。

 だいたい“男なんて”、と言ったかと思うと“女というものは”、だとか言い始めるし、“人間がこうだから”“教会がこうだから”とか言ったかと思えば“自分がこうだから”と言ったりして、一貫してない。揺れ動いてる。とにかく勢いに任せてほとばしるように書ききったというのがわかる。

 だから思想小説としては、脆い。

 イントロにあたる乗客の会話がせっかく婦人の問いかけから始まっているのに、本篇になると男視点だけというのもものたりない。女の側から描いたと解説で紹介されていた、トルストイ夫人『誰の罪? ある女の物語(トルストイ『クロイツェル・ソナタ』によせて)』も読んでみたいものです。

 Лев Николаевич Толстой。

 19世紀ロシアの一裁判官が、「死」と向かい合う過程で味わう心理的葛藤を鋭く描いた「イワン・イリイチの死」。社会的地位のある地主貴族の主人公が、嫉妬がもとで妻を刺し殺す――。作者の性と愛をめぐる長い葛藤が反映された「クロイツェル・ソナタ」。トルストイの後期中編2作品。(裏表紙あらすじより)
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