『アンドロギュノスの裔 渡辺温全集』渡辺温(創元推理文庫)

 文庫で全集でお馴染みの東京創元社が、入手困難だった渡辺温の作品集を装幀にもこだわって文庫化。ぶ厚いのでひとまず「影」〜「ああ華族様」まで。

◆小説

「影 Ein Märchen」
 ――その繁華な都会の町外れに、青木珊作と呼ぶ画工が住んでいた。冬の話である。展覧会へ出品する作品が完成しかけていた。だが、この時突然モデルの春子は解約を申し出た。

 映画のストーリーを考える懸賞に応募して一等を射とめたデビュー作。ちょっと唐突などんでん返しも、映画の画面を意識した絵的な意外性重視だと思えばしっくり来ました。文字通りどんでん返しというべきか戸板返しというべきか、そんなショッキングな驚きですね。

 

「少女」
 ――井深君と云う青年は恰度恋愛をしていた。井深君は三十近い大人であったが、どう云う事のはずみか友だちの妹でやっと十八位にしかならない少女に、恋愛の情を覚えそめていたのである。ところが散歩の最中、料理店で泣いている少女に、自分の恋渡っている少女と瓜二つの顔を見出したのである。

 日常のなかの非日常。無のなかに怪を見出す空想力。あるいはホラーの方向で描けば、乱歩の「白昼夢」のようになるでしょうか。三十近くて恋愛耐性がなく女性に幻想を見ているという主人公の特性にも拠るところがありますが。

 

象牙の牌」
 ――「西村さん、僕は今日殺されなければならなかったのです。映画の撮影中でした。丁度女優が、カメラに向ってピストルを射つところだったです。ドオン! 可哀想に――撮影技師は僕の身代わりに立ったのです。七年前の上海――僕はある恐ろしい秘密倶楽部の部員になってしまったのです」

 規則を破った者には恐ろしい罰と復讐が待っている秘密結社に、誤解から命を狙われることになる俳優――戦争を肯定するわけではありませんが、ホームズ譚に描かれるアメリカや植民地時代の犯罪・回想のように、戦前〜戦後にかけての大陸にはそういう伝奇的なロマンを掻き立てるような雰囲気がありますね――と思いきや、語りの信頼があっさり覆される掟破りの意外性が待ち受けていました。

 

「嘘」
 ――雪降りで退屈で古風な晩であった。井深君の邸で嘘吐き話の話しくらべをした……。井深君が四辻に差しかかった時である。若い女が飛び出して来たのであった。それがジロリと井深君を見上げ見下ろすと、さて身を転じて歩いて行ったのである。そこで井深君はどういうわけか後をつけてみたい誘惑に囚えられたのである。「今晩は――」「あたし、寒くて、お腹が空いて……」

 最後に明らかになるのが同じ嘘でも、嘘がテーマの嘘をつく――という本篇の方が、「象牙の牌」より手が込んだ作りになっていました。あるいは語り手が「少女」に出たきたのと同じ井深君という名前であることも、作者の企みなのかもしれません。あの井深君ならいかにも騙されそうですから。それにしても渡辺温は薄倖そうな人を描くのが上手くて、本篇の詐欺師の少女も実に魅力的です。

 

「赤い煙突」
 ――あたしの赤い煙突。なぜ煙を吐かないのかしら? ほかの二つの煙突からは、あんなに煙が出ているのに……彼女は七つの秋、扁桃腺炎を病って二階に寝かされた時、はじめてその不思議を発見した。十六になった時、その隣の邸から唄の声が聞こえて来た。若い男の声であった。――今日は、お嬢さん。お病気はよろしいんですか?

 病弱な少女、長じての不幸な家庭生活、そんな絵に描いたような悲劇のヒロインの唯一の拠り所であるロマンチックな思い出すらも、破れ去ってしまう悲劇。――というロマンチシズム。下世話な不幸とロマン。本篇以前のショート・ショート風の作風とは違い、後の作品にも通ずる作風が最後まで貫徹されているという点で、著者にとってエポック・メイキングな作品であると言えるでしょう。

 

「父を失う話」

 

「恋」
 ――海岸のホテルでの話です。彼女は女優でした。ホテルのヴェランダで、一人の青年を見初めてしまいました。彼女は、なんとかして青年と近づきになれるようなきっかけを作ろうと思いました。「――失礼ですが、お嬢さん……」到頭、或晩のこと青年の方から、こう彼女へ声をかけました。

 女優の少女趣味な空想に、ロマンチストの青年という組み合わせは、実にお似合いの二人でした。素直じゃないにもほどがある、むしろひねくれたと表現したいような遠回りな純情です。

 

「可哀相な姉」

 

「イワンとイワンの兄」
 ――父親は賢い兄に財産のすべてを譲り、馬鹿なイワンの面倒を見るように頼んで、天国に去りました。イワンには小箱を渡して、「万一兄さんと別れたりしてどうにもならなくない時には、この蓋を開けるがいい」と言い残して……。

 典型的な「賢い兄と馬鹿な弟」渡辺温版。

 

「シルクハット」
 ――私はかぶり古した山高帽子を中村に譲って、シルクハットを買った。それから、行きつけの港へ女を買いに出かけた。彼女は一月の中に見違うばかり蒼くやつれてしまっていた。「苦しそうだね。」「もうよろしいの。――でも、死ぬかも知れませんわ。」

 「ああ華族様だよ……」のプロトタイプ。中村の慰め方がとんちんかんすぎて可笑しい。そこでシルクハットですか。。。

 

「風船美人」
 ――私は幼い頃の経験がもとで、軽気球に憧れていた。だからお天気の日ならば必らず博覧会の門をくぐった。すると決まって、背の高い西洋人と乗り合わせるのであった。西洋人は双眼鏡で。

 恐ろしく探偵小説的なタイトルのうえに、語り手が気球に対して乱歩チックな偏愛も覗かせるので、おどろおどろしいものを想像しましたが、そんなことはありません。あ、でも真相も乱歩的といえるかも。

 

「勝敗」
 ――兄を晃一、弟を旻と云う。旻は学生だった頃に恋に落ちて、兄の許嫁だった幸子と駆け落ち迄したことがあった。結局引き離されておさまり、晃一と幸子の結婚式の日には、肺病で療養中の旻もわざわざ出て来て席に連った。病勢のすすんだ旻の看護のために、幸子は別荘に逗留することとなった。

 何だか途中から本人そっちのけで優越感に浸りたい勝負になってます。「嘘」で人の心を突くのは渡辺温の十八番とも言えますが、まあ確かに嘘を嘘と証言してしまう人が生きて存在していては、勝負も何もあったものではないのでしょう。女も命も兄に取られて負けた男の、精一杯の、けれどあまりにも儚すぎる抵抗でした。

 

「ああ華族様だよと私は嘘を吐くのであった」
 ――その晩、私はアレキサンダー君に案内されて、始めて横浜へ遊びに出かけた。私共は二人分として二十五円払った。勘定が済むと、それぞれの寝室へ入った。『あなた、偉い方?』『ああ、華族様さ。』と、私は嘘を吐くのであった。

 見るからにコント風だった「シルクハット」から一転、かなりの部分が風俗的な描写に費やされていて、この点でこれまでのどの作品とも違うものになっています。

  


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