『石川淳短篇小説選』石川淳/菅野昭正編(ちくま文庫)★★★★★

 やっぱ石川淳はすごいよなあ。上手い上手くない、面白い面白くない以前に、パワーがある。圧倒的な意思と尽きせぬパワー。かっこいい。

 活字がほかの文庫と違うんだけど、どうしたんだろう。慣れるまで読みづらかった。昔風?

マルスの歌」★★★★★
 ――「わーっ」と泣き出したのを、わたしは手をつけられないかたちで、「どうしたんだ、オビイ」。「ねえさん、死んだんです」「え、冬子が」。翌日、冬子の夫の相生三治が話したのはつぎのごとくである。本を読んでいた冬子が、突然「ねえ『聾の真似をするのもいいが、度を越すといのちにかかわる』ってどういうこと」「え」次のことばを待っていたが、それきりだまってしまったので、三治は「冬子」と呼んだ。沈黙。「冬子……おい、どうしたんだ」冬子は耳に指をつっこんで笑って見せた。「そうか、冬子、聾になったのか。おまえ、聾か」。その後、冬子は、いろいろな真似をした。「自殺の真似してみようかしら」

 作品そのものよりもまず、昭和十三年にこの作品を発表してしまうところに衝撃を受ける。もちろん作中の葬式場面でのてんでばらばらな野次馬的議論なんかは、そのまま現代にも通じるし、赤紙の代わりにリストラ通知とかでも話は成立する。小説が書けない、まずは事実から……という書き出しで始めながら、自称事実はそのまま小説として突き進む。こういうところがいっそう力強さを増すんだよなあ。ほんとうは書けないはずはないのだ。“書かなければいけないこと”なのだから。書けない小説と起こった事実という外枠をまとうことで、書かなくてはならないことがいっそう揺るぎないものになっている。
 

「黄金伝説」★★★★★
 ――八月十五日の前後三四ヶ月のあいだ、わたしは狂った時計をふところにしながらあちこち走りまわった。なにゆえにこうして寄辺なく走りまわったかというに、わたしはひと知れず三の願をいだいていた。その一は右の時計のことである。その二は帽子のことである。戦闘帽ではない真人間のかぶる帽子を見つけたいとおもった。その三は、はずかしながら、わたしのひそかに懸想している女人のことである。

 おっ、三つの願いだ。時計と鳥打帽というアイテムが効果的に用いられ、言葉よりも雄弁に物語る。かぎかっこが一つもない。タイトルからすると、これもまた一つの聖女の物語であるらしい。
 

「無尽燈」★★★★★
 ――棚の上に立てかけた不動尊の札の一枚には、「心願成就」とあって、弓子みずからの名が記してあり、もう一枚には「商売繁盛」とあってわたしの名が記されてある。では、その弓子の心願とはなにか。わたしは正確には知らなかった。心願の正体を突きとめにかかるとすれば、弓子の心情曲線を微分して行くことになるだろう。そしてわたしが持っている思考の方法は散文よりほかに無いのだから、しぜん小説の形に出来上がってしまう。作者の生活に還元されてしまう作品というものは、わたしの小説観に照らしてぞっとしない。

 近代小説にわりとよくある、男の頭の埒外にいる女の魅力を描いた名作。そんなふうに弓子の魅力を楽しむこともできるけど、何より印象的なのは、語り手の観察者としての禁欲ぶりだろう。

 自分には女人を照らせない、好きな女を導いてやれるだけの甲斐性がない、というのは、諦念にも似て、また導いてやるなんてこと自体が驕りでもあり。定期的に浮気の発作が起きる女、という発想はほかの小説か漫画でも読んだことがあった。よほど作家心をくすぐるのだろう。
 

「焼跡のイエス★★★★☆
 ――昭和二十一年七月の晦日、明くる日から市場閉鎖というふれが出ている瀬戸ぎわで、殺気立つほどすさまじいけしきであった。「白米のおむすびだよ」とどなっているが、白米という沸きあがる豊饒な感触は、むしろ売手の女のうえにあった。そのとき、一箇の少年……ボロの土まみれに腐ったのが立ち上がったような、悪臭を放ったのが飛び出してきた。ものおじししそうにない兵隊靴の男でさえ、および腰であった。

 何よりも信仰とはこういうものだという真実を言い当てている。現実のキリスト教だってこんなもの。神を見ざるを得ない状況で、人は何かに神を見るのだ。
 

「かよい小町」★★★☆☆
 ――襖がほそめにあいて、すっとはいって来たのが、こちらをうかがうように見た。染香である。「しばらく」「あら。どちらだったかしら」「ばか正直、かんしんだ。さっき電車の中でお見かけしたばかりだからね。ふらふらと……」「なに」「一目で惚れたってことだ」「あら、御親切ね」。按ずるに、末世の今日あるいは明日に至るまで、世界中の女人の名はことごとくマリヤ、しばらく本朝の便法にしがたえば、みな小町である。

 冒頭から途中までは文体がほかと違う気がする。樋口一葉泉鏡花かと思わせるのは、何も作品の舞台だけが原因ではないと思う。しかし半ばからやや強引に女論というか人間論というか「マリヤ」論に発展する。ここらへんの強引ともいえる力強さが石川淳の魅力ではあるのだが。
 

「雪のイヴ」★★★★☆
 ――ガード下を、二人づれの若い女が、いそぎ足で行きすぎようとするうしろから、これも女ばかり五六人、追いかけるようにして、「ねえさん、ちょっとお待ちよ。あんたたち、どっから来たのさ」「よけいなお世話だよ」「このへんにまぎれこんでへんなまねされちゃ、ラク町の顔にかかわら」靴みがきまでが手をとめて眺めていたが、そのとき疳高いさけびがあがった。「のしちゃえ。のしちゃえ」。たしかに靴みがきにはちがいない。しかし立ちあがったのを見ると、若い女のしなやかさであった。

 イヴの罪を背負い込むのは男であるという気の滅入るようなキリスト教解釈から、大地母神信仰にも似たプリミティブでアクティブな結末へといたる。この女の子の力強さ、活きのよさなんて、初めっからわかっているはずなのに、それが見えないところに迷いがあるんだね。
 

「影ふたつ」★★★★☆
 ――「おい……おまえ、ちかごろ船形と逢っているのか」。船形は賀名子の先夫の苗字である。すると、ぽつりと、「逢うわ」「何のために」「お金よ」「今でもまだ関係があるのか」「まあね」。あっけにとられた。邪推が露骨に的中していた。「あなたの力がたりないからよ」「何の力」「あたしを愛する力」

 嫉妬すらできない甲斐性なしの男は、みんな死に絶えてしまう妄想を抱くことしかできない。妄想のなかの「影」に何を見出すかは人次第。どん底の焼跡にイエスを見た目も、どん底から抜け出した途端に光ではなく闇しか見えなくなる。ここから三篇、文字どおりに自分と向き合う話が続く。
 

「灰色のマント」★★★★☆
 ――灰色の将校マントの男が立っていた。「十三年前の日曜日をわすれたか」十三年前。又一のほうが茫としなくてはならなかった。「なんだと」。敵はだまっている。十三年前。又一は海を越えてかなたの戦場にいた。日曜日。そういえば。又一はかくれていた若い娘の口をふさぎ、のどを締めつけた……。「おまえはひとを殺したことを忘れたか」

 おそらくは当時実際にいたのであろう押売。横溝正史『獄門島』の復員詐欺とかもそうだけど、それが発想の源かな。いやそれこそ、押売が元で過去の罪が暴かれて……という展開にすれば、そのままミステリにもなり得るし。
 

まぼろし車」★★★☆☆
 ――家出してなにをするかといえば、じつは恋をもとめていたと、千世はみずから知った。「あそびましょう」青年は立ち上がった。車を乗りつけた先は、ナイトクラブであった。そこに、アパートを世話してくれた友だちの顔を見た。その一枝の顔が憎悪にみちて迫ってきた。「たっしゃね、この子。なまいき」

 戦時下・終戦直後から戦後に時を移しての愛憎劇かと思いきや、うーむ、これは女の業の話ですかな。死神だって手に入れるなら活きのいい魂の方がいいってことっす。女ハンターに鉄火女。女ハンターは死んだけど、女はしぶとい。
 

「裸婦変相」★★★★★
 ――「あなたは堤のほうに行くのですか」「ええ」「ぼくも同じ方向です」しぜんいっしょにあるき出すと、女はこういった。「わたくし、写生に行きます」「ぼくも写生に行くところですよ」「あ。画かきさんでしたの」あたらしい女弟子とその「先生」とは芸術上の意見が完全に一致して、えがたい出逢のよろこびを行動にあらわすために、バーからバーへのコースをとった。日がのぼったときにはすでに一組の恋人がそこにいた。そして、この女弟子の身柄をモデルにして、友助は五十号の裸婦を仕上げることに成功した。

 どれだけの傑作であっても、あからさまに戦争とか聖人聖女の話ばかりが続くとさすがに食傷気味。その後、幻想的なのをいくつか挟んで、これ。それだけにいっそう輝いて見えます。何かの中に何かを見るというのが、石川淳作品の一つのスタイルなのですが、これはそれが幾重にも入れ子された傑作。迷い男と不思議系いい女のカップリングという定番の、一つの頂点。見えない煙突、首を絞めて殺す未来、裸婦像を描くことで女を愛する男……思わせぶりな数々のエピソードが極めて印象深い。
 

喜寿童女★★★★★
 ――神かくし。江戸ではよくあったことだが、こどもならばともかく、老妓の例はめずらしい。古ぼけた写本に、その神かくし後の成行が記されていた。家斉もとより荒淫、尋常のたのしみに倦み、閨中に珍奇をもとめたのだろう。そのしきりに欲したのは、年いまだ破瓜に至らない童女であった。それも童女にして閨房に通じたものである。大名、将軍の欲するところのものをえようとして、秘法を修めた一栄に謀った。「七十七歳の老女をあづけたまはらば、玄妙の術をほどこして、衰残の老媼を多淫の童女と化しまひらすべし」これが一栄の答申であった。

 タイトルがかっこいいからと何気なく手に取った「紫苑物語」でひょえ〜とやられた身としては、やはり時代ものが収録されていてくれるとうれしい。不老の玄術譚としてもきれいにまとまっているのだが、それを最後でばっさり切り捨てるのに愕然とする。もっともらしい嘘のはずの物語が、人生の真実に変容する。
 

「金鶏」★★★★★
 ――蒋山の竹林の中に生ける黄金の鶏が棲むと聞いて、呂生はそいつを手捕りにしようとおもい立った。千年前にたった一度これをちらと見かけたものがいたそうだが、そのひとは総身氷となって息絶えたという。これを見ずしてはかりごとをもってすれば、かの霊鳥は手中のものとなりうるだろう。ただ形容を見るだけならば、なにもいのちを賭けるまでもなく、一幅の金鶏図で間にあう。

 こういうのを読むと、石川淳に新たな日本の歴史・神話を創作してほしかったな、と思う。思ったところで『新釈古事記』という作品があったことを思い出す。いやほんとうに天の発想、神の発想だと思う。こういうのを軽々と(ではないのかもしれないがそう思わせてしまう)書いてしまうところに天才がある。読み終えたあとしばらく茫然としていたなんて久しぶり(初めて?)の経験だった。
 

「ゆう女始末」★★★★☆
 ――ゆうにとって教理は法律であった。もとをただせば、出どころは西洋。中でも強大なもの、ロシヤと聞いては、どきりとこころにこたえる。ロシヤの皇太子ニコラスが日本にくるといううわさははやく巷にひろまった。ニコラスさま。突然ニコラスはゆうの信仰に決定的なかたちをあたえた。

 タイトルだけ見てこれまでずっと「遊女始末」だと思っていた。「ゆう」さんの話なのですね。大津事件を信仰から読み解く。いや大津事件そのものについては、「尋常なこと」「類型的」と切り捨てる。いとも簡単に。日本的“ハラキリ”とも取られかねない行為を聖女伝説と重ね合わせているのが新鮮。
 

「鸚鵡石」★★★★☆
 ――伏見の町はずれに住みついた道鶴という茶湯者がいた。あるじのほかには八歳ばかりのこども一人。この三十郎という小わっぱ、手のつけられぬ異相であった。こどものあつまるところには、他のこどももまた寄って来る。名を問えば「わかぎみ」と答えた。

 もっとふくらませれば大伝奇小説になりそうな題材を、いとも簡潔にまとめてしまった。元ネタがあるのかどうかは不明。武辺雑談の記述から、道鶴にそうまで言わせるどんな出来事があったのだろうと逆算してこういうものができたのだとしたら、今さらながらたいしたものです。
 

「鏡の中」★★★☆☆
 ――ここは小さな床屋だから、客はあらかた近所の顔なじみだが、それでもたまにはあたらしい顔が見えないこともない。かみそりがすんで、蒸タオルの段になると、こいつ、口をひらいて、おい、ノブくんだったな……。いかにもおれはノブだが知らないやつに呼びかけられるおぼえはない。だれだったか。コカコラの欠びん、火炎びん、キョーサセンドー。なんといったっけね、名まえは。伊田伊田だ。

 これも「影ふたつ」や「灰色のマント」と同じく、自己投影・ドッペルゲンガーとしての鏡像が描かれる。昭和25年発表の「影ふたつ」から早くも戦後の迷いが現れていたのだけれど、昭和41年発表の本篇ではますます迷いが強くなる。人生を迷走している。
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