『落葉 他12篇』ガブリエル・ガルシア=マルケス/高見英一他訳(新潮社ガルシア=マルケス全小説)★★★★☆

 『百年の孤独』以前のガルシア=マルケス若き日の短篇集。堂々たるマジック・リアリズムとユーモアにあふれた諸作品と比べると、すごく繊細な作品群。福武で出ていた『青い犬の目』+『落葉』+「土曜日の次の日」という構成。

 『La hojarasca y ortos 12 cuentos』Gabriel Garcia Márquez,1947-1955。

「三度目の諦め」井上義一訳(La tercera resignación,1947)★★★☆☆
 ――またあの音がなりだした。《以前》にも同じような音を聞いたことがあった。それは彼が初めて死んだ日のことであり、死体を目の前にしてそれが自分の死体だと気づいたときのことだった。

 植物状態の男の視点(のようなもの)によって、肉体の死と魂の死が語られる。母親にとっては息子の肉体的成長こそが生きている証、ってのは鉄腕アトムを思い出した。ゆっくりと死ぬ者の一人称など不気味このうえない。
 

エバは猫の中に」井上義一訳(Eva está dentro de su gato,1947)★★★★☆
 ――まるで腫瘍か癌のようにうずいていた彼女の美貌は、気がつくとすっかり消え失せていた。家に近すぎるので《あの子》をオレンジの木の下に埋めるのは反対だった。不眠に苦しむ夜など、《あの子》はきっとそれを見抜いてしまう。

 これもまた魂の一人称。結末を読むと連想せざるを得ない日本の某作品と比べると、スケールのばかでかさが目立つ。〈腫瘍のような美貌〉とか埋められた〈あの子〉とか、そしてもちろん〈オレンジ〉とか、記憶のなかの執着の描かれ方がいちいちうまい。
 

「死の向こう側」井上義一訳(La otra costilla de la muerte,1948)

「三人の夢遊病者の苦しみ」井上義一訳(Amargura para tres sonámbulos,1949)

「鏡の対話」井上義一訳(Diálogo del espejo,1949)

「青い犬の目」井上義一訳(Ojos de perro azul,1951)★★★☆☆
 ――その時、彼女はぼくを見た。光に照らされた彼女のまぶたは見なれたもののようにも思えた。その瞬間、言葉がぼくの口をついて出た。「青い犬の目」。すると彼女は「その言葉よ。もう忘れないようにしましょうね」と言った。

 夢でも前世でも何でもいいのだが、とにかく目覚めると二人の約束を忘れてしまう男の物語。「ここではないどこか」ものの変形と言えなくもない。自分には思い出すべき何かがあるという妄想。生きるとは、その妄想の答えを見つける旅なのだ?
 

「六時に来た女」井上義一訳(La mujer que llegaba a las seis,1951)★★★★☆
 ――女が、六時の鐘が鳴り終わらないうちに入ってきた。「今日は何にするね。金なんかなくてもいい」「今日はちがうのよ」「同じことさ。毎日六時になるとあんたはこの店にやってくる」彼女は時計を見た。六時三分だった。「今日はちがうの。今日、わたしは六時に来なかったわ」男は時計を見た。

 著者自身も話す通りの、ヘミングウェイ風作品。思わせぶりというにはあまりにあからさまな会話に、かえっていろいろと勘ぐりたくなる。
 

「天使を待たせた黒人、ナボ」井上義一訳(Nabo, el negro que hizo esperar a los ángeles,1951)★★★★☆
 ――ナボは干草の上でうつ伏せになっていた。額を馬に蹄で蹴られて、気を失ったまま倒れていたようだ。その時、背中の上の方で誰かの声が聞こえた。『さあ、ナボ、起きるんだ。たっぷりと眠ったろう』頭がよく回らなかった。『馬はどこにいるのだい?』『ここにはいない。お前さんのような声の持ち主を、コーラス隊に加えたいんだ』

 この作品集ではお馴染みの、半死半生の人間による彼岸と此岸の長いさまよい。タイトルまんまの話ではある。わりと無時代無国籍な作品が多い本書短篇群のなかでは、比較的地域っぽさが感じられる。この作品以降「誰かが薔薇を」を挟んで「イシチドリ」、そしてマコンドものへと続くのを見ると、この作品が現実と地続きの幻想へのターニング・ポイントなのかもしれない。
 

「誰かが薔薇を荒らす」井上義一訳(Alguien desordena estas rosas,1953)★★★★☆
 ――日曜日で、雨も上がったので、ぼくはお墓に花束を供えに行こうと思う。彼女が、祭壇を飾ったり、花の冠を作ったりするために、育てている赤や白の薔薇を持って行こう。彼女は聖人の像の前でひざまついていた。ぼくは祭壇に近づき、薔薇を取ろうとして失敗した。『また風がでてきたわ』と彼女は思ったにちがいない。

 死者の目を通して語られる、母親を見守る子どもの、ほんのり感傷的なスケッチ。死者から生者へ、子どもが母を。二重に逆転された構図が説得力を増す。
 

「イシチドリの夜」井上義一訳(La noche de los alcaravanes,1953)★★★★☆
 ――おれたち三人はテーブルを囲んで座っていた。「行こうか」仲間の一人がカウンターに手を這わせた。女の酸っぱい匂いが鼻をついた。「そこをどいてよ。これを運んでいくんだから」「どうしても出られないんだ。イシチドリに目をえぐられたんだよ」

 異なる時間と空間と世界が接してしまう瞬間が、きっとこの世のどこかにはあるものなのだ。よくわからない存在と平気で会話をする家族というのがいかにもガルシア=マルケス的。
 

「土曜日の次の日」桑名一博訳(Un día despues del sábado,1954)★★★★☆
 ――レベッカ夫人は村役場に出かけていった。「近所の子供が網戸をこわしたのです」「子供じゃあ、ありません、奥さん、鳥です」村が出来て以来こんなに暑かったことはなく、人々は鳥の大量死亡事件に心を奪われていた。悪魔を三度見たことがあるというイサベル神父だけはこの事件にふりまわされていなかったが、三番目の鳥の死骸を見つけた瞬間から、神父は村で起きていることがわかり始めた。

 イメージに近いガルシア=マルケスが出てきた。偉大なるホラ吹き。鳥が落ちるという不思議な現象から始まって、人々を取り巻く様々なエピソードの羅列。終始、終末感ただよう雰囲気に覆われている。
 

「落葉」高見英一訳(La hojarasca,1955)★★★★☆
 ――生まれてはじめて、ぼくは死んだ人を見ました。どうして誰も葬式に来ていないのかぼくにはわかりません。/子供を連れて来るのではなかった。今、わたしたちはマコンドの人々から、彼らが長いあいだ待ち望んでいた楽しみを奪い取ろうとしているのです。/今、わしは町長が町民と恨みを共にしているのに気がついた。あの夜、怪我人を戸口まで運んで来た人々は、博士から「どこかよそへ運んでくださらんか」という答えを聞いた。

 マコンドを舞台にした、マジック・リアリズムというよりはお伽噺のような物語。棺に入れられた死体を軸に、過去がどばっと押し寄せる。「土曜日の次の日」に引き続いて、後の作品群を思わせる手法・構成が見られる。でも一つ一つのエピソードが淡く、印象としては本書収録の他作品に近い。
 

「マコンドに降る雨を見たイサベルの独白」井上義一訳(Monólogo de Isabel viendo llover en Macondo,1955)★★★☆☆
 ――日曜日にミサが終わって表に出ると、急に冬が訪れていました。水曜日の正午になっても空は明るくなりません。病気で寝ていた女性が行方不明になり、その後庭にぷかぷか浮かんでいるのが見つけられたという知らせも伝わりました。

 これまた尋常じゃない大雨のスケールのでかさが印象に残る作品。
 ---------------

 
  オンライン書店bk1で詳細を見る。
 amazon.co.jp amazon.co.jp で詳細を見る。


防犯カメラ