「容疑者不明」ナギーブ・マフフーズ/今本渉訳(Didd Majhul,Naguib Mahfouz,1962)★★★★★
――異常は特になく、捜査の糸口になりそうなものも見当たらなかった。被害者の男性は縊られたとみて間違いない。担当刑事は隅々まで物色したが得るものはなかった。直面しているのは明らかに犯罪である。だが、どうやって証拠も残さず立ち去ったのか。
エジプトのノーベル賞作家。“容疑者不明の殺人事件”という謎を狂言回しに据えながら、そこから浮かび上がる不条理喜劇のような感覚がユニーク。確かなものを追いながら、最後にはふっと消えてしまうような都会の寂寥感が哀しい。
「奇妙な考古学」ヨゼフ・シュクヴォレツキー/石川達夫訳(Divná archeologie,Josef Škvorecký,1975)★★★★☆
――それは彼の最初の事件だった。その娘の失踪は、成功した違法な国外脱出として処理され、一件落着になった。当時はありふれた事件だった。ボルーフカはその功績から殺人事件をまかされた。十一年後――協同組合団地の建設工事中に、壁職人が人間の頭蓋骨を見つけたのだ。
チェコの作家。“ただの家出”が共産主義政権下では警察捜査の対象になるという事実に虚を突かれた。国外脱出分子というわけですな。ほとんど異世界ミステリだった。シュールだ。「容疑者不明」は英語からの重訳でちょっとがっかりだったのだけれど、チェコ語から訳した本篇はときどき何だか堅苦しい。
「トリニティ・カレッジに逃げた猫」ロバートソン・デイヴィス/今本渉訳(The Cat That Went to Trinity,Robertson Davies,1982)★★★★☆
――このカレッジには飼い猫が居つかないという話をしました。そんなことを話していると、フランクが「わかりました」と言います。「先生はこのカレッジ専属にプログラムされた猫をご所望なんですね」私は彼の目を覗き込んで、悪寒をもよおしました。
カナダの作家。なんだこのおバカな話は(^_^)。フランケンシュタインとゴシックをネタにした、(一見)ゴシック小説なのだが、さてそんなゴシックな語り口で語られる内容はといえば……。好きですねえ、こういう手間暇かけた豪華な悪ふざけって。
「オレンジ・ブランデーをつくる男たち」オラシオ・キローガ/松本健二訳(Los destiladores de naranja,Horacio Quiroga,1923)★★★★☆
――輝かしい経歴のエルセ博士といえども、熱帯の国においては酒による凋落に歯止めが利かなかった。この博士の出現こそ、片腕の男がオレンジ・ブランデーの蒸留を実現しようとするきっかけになったのである。
ウルグアイの作家。いかにも南米的な民話風すっとぼけたホラ話から始まって、なぜかシリアスなところに着地します。日本の昔話や落語にも登場するような“憎めないおバカさん”がえっちらおっちら働く×繰り返しが、なごみます。でもこのバカさんは飽くまでホラ話の中の登場人物とでもいうか、現実と折り合いをつけて別世界で平和に暮らしていける人なのですね。ところが現実を引きずる人もいる。エルセ博士。現実の人間がホラ話の世界で生きようとすると、きっとこうなってしまうのだ。
「トロイの馬」レイモン・クノー/塩塚秀一郎訳(Le cheval troyen,Raymond Queneau,1948)★★★☆☆
――酒場に一人の男が入ってきた。「水をもらおう」女が入ってきて隣に腰かけた。「それでどうなの?」「何もないよ」「つまらないわ」音楽がやんだ。バーに居合わせた一頭の馬が女に話しかけた。「一杯つきあっていただけませんか」
あー。わたしはこういう、スノッブ・ジョークとでもいうべきユーモアは苦手なのだよな。さりげなく地の文に「駄馬」って書かれてるのが可笑しかった(^_^)。ご本人も述べるとおり「空気を読むこと」が足りない馬のお話です。馬が「わたしはトロイの出身なんですよ」というほどウザくてサムいことはないわけで……。
「死んだバイオリン弾き」アイザック・バシェヴィス・シンガー/大崎ふみ子訳(The Dead Fiddler,Isaac Bachevis Singer,1966)★★★★☆
――婚約者が病死してしまったあと、リーベは悲しみのあまり病気になった。ある夜、娘の部屋から苦しげな息が聞こえてきて、ジセ・フェイゲは台所から水を持ってきた。しかしこの瞬間に男の声がリーベの唇から飛び出した。「おれの息を吹き返らせる必要はないぞ。酒を持ってくる方がいいぜ」
ポーランドのノーベル賞作家。陽気な『エクソシスト』。どこか憎めない死霊たちの宴には、『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス』のビジュアルが浮かびました。被害者たちを過度に可哀相だと読者に思わせないさじ加減が上手です。英語からの重訳。
「ジョヴァンニとその妻」トンマーゾ・ランドルフィ/橋本勝雄訳(Giovanni e usa moguli,Tommaso Landolfi,1951)★★★☆☆
――ある男がいた。周囲の話では、オペラにすべてを捧げており、非常に甘美で力強い声の持ち主だと言われていた。わたしの度重なる頼みに折れて、自宅で声を聞かせてくれることになった。ジョヴァンニが歌い始めると、わたしは身が凍りつき、耳を疑った。
ホラ話を大まじめを装って書く、という点では「トリニティ・カレッジに逃げた猫」にも通ずるのですが、「トロイの馬」同様どうにもインテリくさい。これが例えばイギリスの作品であれば、大まじめの向こうにお澄まし顔(あるにはニヤリとシタリ顔)をしてみせる作者のお茶目な表情が見えるところなのだが、フランスやイタリアの場合、気取って“どうです。面白いでしょう?”と得意げに澄ましている作者の顔が見えるような気がしてしまうのだ。サルコジ顔とでもゆーか……。
「セクシードール」リー・アン/藤井省三訳(有曲線的娃娃,李昴,1970)★★★☆☆
――まだ子供だった頃、彼女は人形が欲しくてたまらなかった。だがお母さんは早くに亡くなり、お父さんは構ってくれず家も貧しかったので、古着をグルグルと縛ってみた。こうして彼女にとっての最初の人形ができた。夫はその話を聞き終わると、大声で笑い出した。「君の布人形かい!」あの夜以来、夫に背を向けるようになった。
台湾の作家。人形と母のない子ども時代の喪失感からの、成長(しきれない)小説。願望が間違った方向に行ってしまう、というところからは悲劇でもあるしサイコものでもあるしユーモラスでもある。例えば「スレドニ・ヴァシュタール」などとは違い、自らが唱える呪文すらも信じ切れないのが(中途半端に成長した)大人の辛いところか。
「金歯」ジャン・レイ/平岡敦訳(Gouden tanden,Jean Ray,1950)★★★☆☆
――まずは新聞の死亡記事を点検する。あるいはもうすぐあの世行きになりそうな病人を聞き出したりもした。何のためにかって? わたしは死体から、金歯を抜き取っているのだ。一財産作ったわたしは、家政婦を雇い、華にも出会った。華というのはルースのことだ。姉のミス・エリザと住んでいた。
ベルギーの作家。不思議な作風だなあ。何かが起こっているはずなのに(そしてそれに語り手も気づいているはずなのに)、何事もないかのようにとんとんと話が進む。内容は普通の犯罪小説であるだけに、“真相”に重きを置かない作者の筆さばきだけが妙に不気味。
「誕生祝い」エリック・マコーマック/若島正訳(Birthday Present,Eric McCormack,1993)★★★★☆
――十三号室で、彼は取っ手をまわしてドアを開けた。そのモーテルの部屋は少し古風だ。女以外は。女は彼をベッドに横たわらせた。オイルを手のひらに注ぎ、彼の身体に塗りひろげた。「さあ」と女が言った。「始めましょう」
カナダの(スコットランドの?)作家。『隠し部屋を査察して』の人です。その名の通り「誕生」のフィルムを逆回ししたような作品なのですが、それだけで一篇の幻想小説(怪奇小説?)になるのだから面白い。マコーマックらしく、空想というよりもむしろ妄想に近い発想力が、落ち着いた文体で語られます。
「エソルド座の怪人」G・カブレラ=インファンテ/若島正訳(The Phantom of the Essoldo,G. Cabrera Infante,1983)★★★☆☆
――そこがエソルド座だ。切符を二枚というか同じ切符を二回買って入場する。「また遅れた!」「始まったばかりじゃない」「私にとってはクレジットはメインコースだ」ポーランド人の名前を覚えるなんて無理な話。天文学者のようなもので、スタアにたよるしか手がない。ところが今回は、スタアが一人も出ていないのだ。
キューバの作家。最後に来てポストモダンみたいなわけわからん作品が出てきてしまったなあ。映画と小説とその他諸々に関する情報が、駄洒落を軸に次から次へとめまぐるしく移り変わる。うん? 観に行った映画が退屈だったから、脱線して空想してみました、みたいな話だと思えばわかりやすいかな? 最低限の註だけはあるが、その気になれば註釈だらけになってしまいますね。お気に入りの駄洒落は「ジョイスの上行く」(^_^)。
--------
『エソルド座の怪人 異色作家短篇集20』
オンライン書店bk1で詳細を見る。
amazon.co.jp で詳細を見る。