『チェスタトン著作集4 棒大なる針小』より

『作家論ノート』より「シャーロック・ホームズ」「マーク・トウェイン」「ヴィクトル・ユゴー」「イプセン」G・K・チェスタトン安西徹雄

 『A Handful of Authors』1953年。

 作品を超えて普通名詞になったのは、ホームズと、ディケンズの登場人物だけ、という指摘に深く首肯。大衆は探偵小説が好きであるが、だからといって出来の悪い探偵小説が好きだというわけではない(大意)……とか、トウェインはシニシストではなく、何かを笑い飛ばしたときには、そんなことあるはずがないと本気で信じていたのである(大意)……とか、チェスタトンらしい言い回しも随所で味わえる。チェスタトンというとレトリックの人という印象があったのだけれど、トウェインの項では、莫大な負債を抱え込まされたトウェインが破産宣告もしないで猛烈に働いて全額返した生真面目な人だったんだという傍証も挙げられていて、ちょっと意外。

 イプセンは思想はよいが劇としてはイマイチという世評に対し、それどころか正反対である!とぶちまけるのが「イプセン」です。イプセンのペシミズムなど、「精確な思考の能力のない連中が、本来得られるはずのない自由を求めて失敗したからといって、心の中にわだかまる失望を称してペシミズムと言う類の」「混乱し混濁したオプティミズムにすぎぬ」そうです。劇作家としてはどうかというと、事務員の日常を劇にしようと思う劇作家がいないように、完全なリアリズム芸術など不可能であるし、もしできたとしたらそれはほとんど完全なロマンティシズムになってしまっている――というような話にまで発展します。

  

「夏の夜の夢」G・K・チェスタトン安西徹雄

 『平凡人』(The Common Man)1950年。

 これは「三文小説弁護」や「ドタバタ喜劇弁護」を著したチェスタトンらしい、「『夏の夜の夢』は『ハムレット』より上」論です。描かれているどたばたの追いかけっことは、まさに夢でよく体験する雰囲気である――舞台はアテネということになっているが、描かれているのはイギリス紳士そのものである、等々。

  

ハムレット精神分析」G・K・チェスタトン安西徹雄訳訳

 『空想・対・流行』(Fancies versus Fads)1923年。

 これはチェスタトン節が炸裂していて非常に面白い。

 近ごろ流行の精神分析にしたがうならば、人間は夢のなかで昼間は抑圧していた衝動を実現させるということだが、「私は物心ついてからこのかたというもの、ジャンブルを食べたいという衝動をついぞ抑圧したこともなければ、心霊術師と議論したい衝動を抑圧したことも一度としてない。アルバート記念館の地下をうろつくに到っては、そもそもそんな衝動を覚えた人間はかつてこの世に一人としてありえないはずである。」とばっさり。

 文学作品についても、「マクベス夫人が夢遊病に悩むのは、別にダンカン殺しの衝動を抑圧したからではない。むしろ逆に、(中略)その衝動に屈してしまったからである」。精神分析にしたがうなら、地獄というのは罪を犯した者が行くところではなく、犯罪を冒す機会を逸した無念の悔悟の謂でなければならぬ――等々。

 道徳という問題を古くさいものとして退けて、シェイクスピアの時代には存在もしなかった精神分析と無意識でハムレットを批評しようとする現代の評論家を批判しながら、〈ハムレット=義務を先延ばしにする男〉と捉え、このハムレットの性格は現代のイギリス経済にも当てはまる――と結びます。

  

『棒大なる針小』G・K・チェスタトン/別宮貞徳訳

 『Tremendous Trifles』1909年。

 「一本のチョーク」における、「白は単に色がないことではない。光り輝く肯定的なもの、赤と同じように峻烈、黒と同じように明確なものなのだ。」「美徳とは悪徳がないこと、あるいは、道徳的な危険を避けることではない。美徳は、痛みや何かの香りと同じく、生き生きとしたもので、独自に存在できる。」「貞節とは性的な非行を慎むことを意味するのではない。何か、ジャンヌ・ダルクのように焔と燃えるものを意味する。」という宣言。

 「へんな馭者」における、確信への不安。「緑というものを一度も経験したことがなければ、私は、自分の鼻が緑でないと言うことすらできない。」――。馭者のたった一言で著者の確信が揺らぐ場面は、現実にひそむファンタジーそのものでした。
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