『The Burning Court』John Dickson Carr,1969年。
新訳を機に再読。カーにしては驚くほど端正。有名なエピローグにしても、悪く言えば予定調和、よく言えば端正にして隙がない作品でした。同趣向のヘレン・マクロイ『暗い鏡の中に』のラディカルさと比べると大分おとなしい。
評論家の人たちは、多用な解釈のできる作品はそれだけで褒めちゃうところがあるので措いておくにしても。
メイン・トリックもカーにしてはおとなしいと言っていいでしょう。壁を抜ける古風な衣装の貴婦人の謎は、カー・ファンならそれだけで見当がついてしまいますし、衆人環視のなかで納棺堂に入れられた棺から死体が消えている謎の真相も、HMものみたいな派手な作風ならともかく、本書のなかでは「何やってんだか……^^;」という印象を禁じ得ませんでした。
けれどそれ以外のところが素晴らしい。さまざまな出来事が次々に起こり、どう見ても過去の毒殺魔が主人公の妻として甦ったとしか思えない状況が明らかになるのですが、その「さまざまな出来事」の一つ一つが、単なる偶然(写真の消失)・犯行時の偶然(犯人Aの消失)・犯人Bの作為(死体の消失)・偽の証言(死者の遺言)・Aの犯行に対するBの行動(死体消失の動機)・怯えた証人の妄想?犯人Bの偽の証言?(犯人の首がぴったりくっついていない)・犯人Aの狙いのずれ(生贄がルーシーからマリーに)・妄想ではなく現実(怪しい視線の正体は見張りの警官)・偶然と犯人Bの作為(死者の復活)・偶然を利用した犯行(薬品窃盗と窃盗防止の施錠)・窃盗の二つの意味(マリーへの容疑と犯人Bの犯行)……と、ざっと書くだけでも、偶然と計画と複数の人々の思惑が見事にからみあっていて、カーのオカルト魂を見た思いです。特に共犯者同士が裏を掻き合うことで複雑な様相を呈してくるところは、愛情に端を発するどちらの動機も自然なものである点も含めて、見事に現実に着地したというカタルシスが味わえました。
ゴードン・クロスという探偵役が、いいだけえばってるわりには最後はあっけなかったのですが、エピローグを思い合わせると、だから「人間」を見下しているということなのでしょうね。
広大な敷地を所有するデスパード家の当主が急死。その夜、当主の寝室で目撃されたのは古風な衣装をまとった婦人の姿だった。その婦人は壁を通り抜けて消えてしまう……伯父の死に毒殺の疑いを持ったマークは、友人の手を借りて埋葬された遺体の発掘を試みる。だが、密閉された地下の霊廟から遺体は跡形もなく消え失せていたのだ! 無気味な雰囲気を孕んで展開するミステリの一級品(カバー裏あらすじ)