「Night Land Gallery 椎木かなえ 不穏な悪夢に漂う甘美さ」
「魔の図像学(9)フュースリ」樋口ヒロユキ
「夢魔」「悪夢」で知られる画家です。
「鏡明インタビュー 「剣と魔法」の夢を追って」
「物語の落とし穴」三辺律子
シヴォーン・ダウド原案/パトリック・ネス『怪物はささやく』とその映画化について。
「藤原ヨウコウ・ブンガク幻視録(1)久生十蘭「予言」」
新訳シリーズが終わり、本文なしの藤原ヨウコウによるイメージ画のみになりました。
「アーミナ」エドワード・ルーカス・ホワイト/遠藤裕子(Amina,Edward Lucas White,1907)★★★★☆
――灼熱のペルシアで道に迷ったウォルドは、英語の話せる女性に出会い、案内を乞う。
異国での過酷な体験はそれだけで悪夢たりえます。ましてや千一夜物語の世界であれば。怪物の肉体が未知のものではなく既存のパーツで描かれているだけに生々しく醜悪です。
「STRANGE STORIES――奇妙な味の古典を求めて(6) 怪物から白昼夢へ、ホワイトの金縛り」安田均
怪物作家と認識されているE・L・ホワイトの、白昼夢作家としての側面。
「クローゼットの夢」リサ・タトル/小椋姿子訳(Closet Dreams,Lisa Tuttle,2007)★★★★★
――小さい頃、恐ろしい思いをした。わたしが受けた監禁や虐待もすべて話したが、わたしが話したようなやりかたで逃げ出してきたことだけは信じてもらえなかった。
幻想的なフィルターを通された暴力の記憶は、まさに悪夢というに相応しい顛末を迎えます。この物語が幻想的に描かれなくてはならないのには理由がありました。
「すべての肉体の道」アンジェラ・スラッター/友成純一訳(The Way of All Fresh,Angela Slatter,2014)★★★☆☆
――ボビーは新鮮な方が好きだった。母をきれいに食べてしまったのを、誇りに思ってくれるだろう。……アナベルは“死”という言葉が好きではなかった。誰もが確実に“すべての肉体の道”をたどる。
終末が舞台なのにあまり終末という感じはせず、散見される「ウォーカー」などの単語以外はクラシックです。
「青白い猿」M・P・シール/植草昌実訳(The Pale Ape,M. P. Shiel,1911)★★★★☆
――わたしはサー・フィリップ・リスターのお屋敷にご奉公に参りました。教え子のエズミが猿の幽霊の話を聞かせてくれました。洞窟に行くと、猿の笑い声のような声が聞こえてきたのです。
シールにしてはかなり読みやすいです。呪われた場所に一人放り込まれた家庭教師。助けてくれるはずのヒーローも、雇い主の貴族も、忠実な執事も、すべてを取り込んでしまう笑い声だけの呪いが作品を覆っています。
「ブックガイド 文字で書かれた十二の夢」牧原勝志
「夢の行き先」澤村伊智(2017)★★★★★
――「ババア」から逃げなくてはならない。ババアは薙刀を持っている。そんな夢を続けて見た。前の席の後藤匡が眠そうにしていた。聞けば匡もババアの夢を見たのだという。
作中作の悪夢が秀逸です。姿を見たわけではないのに怖いことはわかっていたり、逃げ場所にお化け屋敷を選んでしまったりするような、夢特有の不条理がリアルでした。そこに学校の怪談ふうのある特徴が加えられることで、時間制限もののサスペンスのような、子どもの頃のわくわく感のような、そんな感覚も味わえました。
「黄衣の病室」ウィリアム・ミークル/甲斐呈二訳(Bedlam in Yellow,William Meikle,2014)
カーナッキものなのでパス。
「ヴィーナス」モーリス・ベアリング/渡辺健一郎訳(Venus,Maurice Varing,1909)★★★★☆
――下級官吏のフレッチャーは帰宅後に電話に出た。役所からかかってくるはずだった。受話器を握り締めているうちに、足許の床が消え、まっさかさまに墜落していく感覚を覚えた。足許には緑色の苔が生えており、二マイルばかり先に生えた巨大なマッシュルームの根元には、巨大な芋虫めいた生き物がうごめいていた。
夢の世界の描写がねちっこくていやらしく、さしずめ悪夢の国のアリスです。それでいながら直接的な恐怖が襲ってくるわけではなく、じわじわと見えない圧力をかけられてゆくのが悪夢の悪夢たる所以でした。そしてちょっとした油断が……。
「二階の映画館」マンリー・ウェイド・ウェルマン/植草昌実訳(The Theatre Upstairs,Manly Wade Wellman,1936)★★★★☆
――ルーサーがわたしの腕に手をかけて引き留めた。「こんなところに映画館がある」。出演者はかつてルーサーに見限られて自殺をはかったという女優だった。わたしは気が進まなかったが、ルーサーに付いて中に入った。今は亡き女優二人とルドルフ・ヴァレンティノがスクリーンの向こうからわたしたちを見ていた。
死者が演じている映画。それだけなら単なる昔の名画でもあり得ますが、無声映画時代のスターが声を出してしゃべるというような、ちょっとしたズレが違和感を増幅させます。中心となるアイデアは、ヴァレンティノのファンによる「スクリーンから見つめられる」エピソードに引っかけたものでしょうか。
「ミドル・パーク」マイクル・チスレット/牧原勝志訳(The Middle Park,MichaelChislett,2013)★★★★★
――引っ越してからまだ二、三日のトムとミナは、近所の公園に出かけた。道の両側は高い壁が続くばかりだ。わかりづらい案内表示は、地面を示すように下を向いていた。さっきまではなかったのに。
紹介文ではアーサー・マッケンやフリオ・コルタサルの名が挙げられていました。日常の続きから悪夢の裂け目に落ち込んでしまうのはなるほどコルタサルの短篇を髣髴とさせます。いったい何が起こっているのか、夢なのか異界なのかドッペルゲンガーなのか、何もわからないまま喪失感だけが残ります。
「ヴェネツィアを訪れるなかれ」ロバート・エイクマン/植草昌実訳(Never Visit Venice,Robert Aickman,1968)★★★★☆
――フェーンはヴェネツィアの何度も夢を見た。現実では行ったことのないヴェネツィアにいる。女と抱き合ってゴンドラで運河を下っていく。それから何年かして、夢を見なくなった頃、フェーンは初めてヴェネツィアを訪れた。
手垢にまみれた怪異が、エイクマンの手にかかるとかくも恐ろしく哀切になるのかとうならされました。しかもその怪異のあとに待っていたのが怪異以上に恐ろしい恐怖であるというのがまた衝撃的です。
「E・L・ホワイト「セイレーンの歌」と、『オデュッセイア』の「内なる自然」」岡和田晃
「はるこん2017でケン・リュウに会ったのだ」立原透耶
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