『幻想と怪奇』14【ロンドン怪奇小説傑作選】

『幻想と怪奇』14【ロンドン怪奇小説傑作選】

「ロンドン怪奇小説地図」

「アッシュ氏の画室」H・R・ウェイクフィールド/渦巻栗訳(Mr. Ash's Studio,H. R. Wakefield,1932)★★★☆☆
 ――道路工事が終わるまで、別の仕事場を借りなければ長篇小説を完成させられないと、ホロックス氏は悟った。不動産屋に紹介されたアッシュ氏のアトリエ。木箱に美しい色の蛾の群れが貼りついていたが、いますぐ作業場所がほしかった。画架に近づいてみると、若い女肖像画だった。ひと月借りることにして、重大な一章を書きあげたあと、ふと画架の絵を見つめていた。やはり謎めいた顔だ。となりの部屋の蛾をよく見ると、みな同じ模様をしていて、人間の顔にそっくりだった。放っておこう。外で過ごしてからアトリエに戻り、画架に乗った若い女の顔を見て、ぎくりとした。加筆されているように見えたのだ。週に四日アトリエで過ごすうち、白昼夢を見るようになっていた。あの絵のほかに、男が歩き回っていた。

 何者かが走ってゆくシーンは「ゴースト・ハント」や「赤い館」でも印象的に用いられていて、ウェイクフィールドの手癖なのでしょうが、これが怖いんですよね。改めて考えてみると、人が走るのは急いでいるなり逃げるなり何らかの理由があるわけで、いわば普通じゃない状態ということなのだと思います。話自体はイギリス名産の幽霊屋敷(幽霊部屋)ものに過ぎないのですが、ここぞというところで怖がらせるのはさすがでした。
 

「失踪したモデル」レティスガルブレイス夏来健次(The Missing Model,Lettice Galbraith,1893)★★★☆☆
 ――最近になってゴードン・メインはしばらく使われていなかったアトリエを借りて仕事をするようになった。そのアトリエでは以前モデルが行方不明になっていたことがあった。デビュー以来伸び悩んでいたメインだったが、久しぶりにいい構図が決まった。あとはふさわしいモデルだけだ。そのときドアがノックされた。訪ねて来たその女性こそ理想的なモデルだった。友人に頼んでいたモデルがやって来たのだろう。絵は順調に仕上がっていった。海外から帰って来た友人がその絵を見て声をあげた。「きみはどうやってヴァイオレット・ルーカスと出会ったんだ? 失踪したモデルじゃないか」

 怪談としてはありきたりな要素の組み合わせなのに、そもそも怪異や怪談として書いていないような不思議な持ち味がありました。幽霊(らしきもの)を目撃しても、友人の弁護士ばかり熱くなっていて、当の画家の方はピンと来ずにボケボケした反応をしているくらいです。そして「失踪したモデル」だけに焦点を絞った、唐突とも取れる幕切れが印象的でした。10年くらい前に原文で読んでいたらしい()のですが、すっかり忘れていました。
 

「ヴォクソール・ウォークの古い家」シャーロット・リデル/岩田佳代子訳(The Old House in Vauxhall Walk,Charlotte Riddell,1882)★★★☆☆
 ――グレアムは父親と喧嘩してあてもなくさまよい歩いていた。「グレアム坊ちゃま。お忘れですか、ウィリアムですよ。どうなさったんですか」。グレアムが事情を話すと、引っ越しの準備が終わった古い家に泊めてもらえることになった。家主から借りてくれと頼まれて暮らしていたのだが、ウィリアムの女房がここに住むのは嫌だと言って引っ越すことになったのだという。ウィリアムは夜警の仕事に出かけるため、グレアムは一人で残された。闇の中でグレアム・コールトン奇妙な夢を見た。皺だらけの老婆が金貨の山から何枚か持ち上げては撒き散らしていた。「ああ、あたしゃ死んじまった」。翌日、グレアムはウィリアムに事情をたずねた。かつて家主の姉が殺されたが、持っていたはずの大金はいまだ見つかっていないという。

 『ゴースト・ストーリー傑作選 英米女性作家8短篇』に、川本静子訳「ヴォクスホール通りの古家」が収録されています。オーソドックスな幽霊譚でありつつ、勇気のある若者が幸運を摑み取るという昔話の定型も取り入れることで、勇者が悪漢を倒して事態が明らかになるという幽霊譚としては意外性のある展開になっていました。
 

「白い塀の緑の扉」H・G・ウェルズ野村芳夫(The Door in the Wall,H. G. Wells,1906)★★★☆☆
 ――まだ三ヵ月にもならない。ある夕暮れどき、ライオネル・ウォレスはこの〈塀を抜ける扉〉の話をわたしに打ち明けた。「幽霊とか幻影とはちがう――しかし――なにかに憑りつかれているんだ。それは五歳のときだった。どうやって家を抜け出したかも、どの道をたどったのかも思い出せない。しかし、白い塀と緑色の扉だけは鮮明に覚えていた。扉の向こうの庭園には、二匹のヒョウがいた。ヒョウたちと遊んでいると、背が高く美しい娘が現れて、微笑みながらキスをした。たくさんの人々がいた。遊び友だちもできた。やがて暗い地味な女性が、読んでいる本を見せた。それはわたし自身の物語だった。『このあとは?』彼女が無言でキスをすると、わたしはウェスト・ケンジントンの通りに惨めに立っていた。それからは庭園のことはすっかり忘れていた。九歳になって緑色の扉と再会したときも、学校に間に合うことばかり考えていた。そのときは、いつでも扉がそこにあるわけではない、ということを知らなかったんだ……」

 美化された過去、何度も訪れるチャンスで選ばなかったものへの後悔、まるで人生そのもののようです。邦題は《バベルの図書館》版「白壁の緑の扉」を踏襲していると思しく、確かに白い塀に浮かび上がる緑の扉の取り合わせは印象的ですし、その色の組み合わせこそウォレスの最期が事故かもしれないことへの理由付けにもなっているのだから、なかなか本質を突いた邦題だと思います。そうは言っても、ウォレスにとっては理屈ではなく直感だったのだろうとも感じました。
 

「館内は無人グレアム・グリーン/植草昌実訳(All But Empty,Graham Greene,1947)★★★★☆
 ――客が一人もいない映画館などめったにないから、一九三〇年の初め頃、私はよくこのエッジウェア・ストリートの映画館に通ったものだった。陰鬱な午後に限ってのことだが。小さいだけに、かかるのは無声映画ばかりだった。ある午後、年嵩の男が入ってきて、空席しかないというのに隣に座り、しばらくすると嗚咽を洩らし始めた。「どうかなさいましたか」「話が聞こえないんだ」。私は無声映画であることを説明してみたが、「何も見えないんだ」と続けるだけだった。男が盲人だと思ったので、帰りは送ると申し出た。男は動かなかった。少し間を置いて、彼は急にこちらを向いて、小声で言った。「俺に見えてたなんて、気づくやつはいないだろう。でも、見たんだ。耳から耳まで裂けていたんだ。今日の話さ。夜中に、階段を下りると、やつがいたんだ」「耳から耳まで大口開けて、ですか」「それはあとの話だ」

 「エッジウェア通り」(1939)の改稿版。これまでの作品と比べて時代が下っているだけあって、格段にモダンな作品でした。老人の存在は語り手の孤独を映す鏡のようではありますが、不条理な怪談としても完璧に成立していて、この現実が歪むような感じがたまりません。
 

「名高き詩人の家」ミュリエル・スパーク/圷香織訳(The House of the Famous Poet,Muriel Spark,1966)★★★★☆
 ――一九四四年、ロンドンへの夜行に、先祖返りを起こしたような原始的な顔立ちの男がいた。ところがこれがじつに親切で紳士的な男で、わたしの煙草が切れると。わたしだけでなく隣の女性にもひと箱ずつくれたのだ。煙草が縁で隣の女性と仲良くなり、エリーズというその娘が家政婦をしている家に一緒に来ないかと誘って来た。大学に勤めている家の主人は妻と子どもを連れて留守にしているからと。わたしは同意した。教養ある家政婦に出会うことなど珍しいから。列車を降りたとたんに後悔した。プラットホームに立ったエリーズは限界まで疲労しているように見えた。列車の中で彼女に感じた力は失われていた。屋敷を見ても苦々しいものを覚えた。だが机の上にある未開封の手紙の山に屋敷の主人の名前を見つけた。「この家の持ち主は、有名な詩人なの?」「そうよ」夜になると、彼女の恋人たちがパーティを始めた。朝になって扉を開けると、煙草をくれたあの兵士がいた。「実は運賃の持ち合わせがなくて。借りるつもりはない。売りたいものがある」「なんなの?」「葬式だ」

 はじめ「抽象的な葬式」が出て来たときには煙草なり麻薬なりの譬喩なのかと頭を捻ったのですが、本当に「抽象的な葬式」であってそれ以上でもそれ以下でもないことに驚きました。時は戦争の真っ直中、誰もが現実の死を身近に感じて死という概念につきまとわれている状況下で、実際には見ることの出来なかった者たちの「葬式という概念」だけが舞っているようです。
 

「乱反射するイメージ――日本におけるロンドン怪奇幻想文学の系譜」朝宮運河

「街外れの奇跡」トマス・バーク/伊東晶子訳(Miracle in Suburbia,Thomas Burke,1935)★★★★☆
 ――古い家の中で、老人と若者がテーブルを挟んで互いの顔を見ていた。若者は理屈ではなく、無意識ですらない深いところから、ここには長居するなと警告されているのを感じた。「君に声をかけたのは、適任だと思えたからだ。報酬ははずむ」「良くないことに決まってる」「盗んだ者から取り返すだけだ。厄介事に巻き込まれることはない。私が関与している博物館から重要な遺物が持ち去られた。海外流出やスキャンダルは避けたい」「でも相手が刃向かってきたら――」「今、私の力が君を覆っていて、君は危険から守られている」老人はそう言って新月刀を振り下ろした。

 依頼された磁器の実態や老人の目的や正体は不明のまま、ただただ若者の身に理不尽な出来事が起こる様は、怖いはずなのにどこか不思議な読み心地をもたらします。どうやら老人は最初から騙す気満々だったようです。
 

「哀れなる友」ロバート・エイクマン/植草昌実訳(My Poor Friend,Robert Aickman,1966)★★★☆☆
 ――発電のための地域河川活用を目的とする協会の計画を実施すれば、大英帝国はよりよい国になるだろう。だが先駆者は行政の幹部ほどには理解されないものだ。私が協会に雇用されたのは、評議会が〈議会内委員会〉の設立に手を着けた頃だった。私が友と呼べる議員はウォルター・エンライトだけだった。エンライトは妻と別居していて、子ども二人には暴力的な傾向があるらしい。このことを妻のヴァージニアに話すと、エンライト夫人が既に死んでいる可能性を示唆された。地域発電に向けての取り組みが始まったが、そこで知り合った議員から、エンライトとは距離を置くように仄めかされた。別の議員と待ち合わせているとき、国会議事堂で黒衣の女を見かけ、なぜかエンライトの妻だと直感して後を追った。

 単純に考えれば、殺された妻が鳥になって(鳥を利用して)復讐した話のようではあるのですが、子どもの暴力性など、それではうまく説明しきれない要素も残ります。
 

「霧の無人駅」J・D・ベレスフォード/植草昌実訳(Lost in the Fog,J. D. Beresford,1916)★★★★☆
 ――たぶん間違った電車に乗ってしまったのだろう。どこかの駅について目が覚めたが、霧の向こうには灰色の影が見えるばかりで、どこにいるのか皆目見当もつかない。何も見えないが、足音に続いて侘しげな咳が聞こえ、車掌が姿を現した。「ここは?」「バーデンです」次の列車が来るまで一時間あるという。待合室に入ると男が火に当たっていた。「列車を待っているのですか?」「まさか。ちょっと休んでいるだけさ。早く戻らなくては――体力が戻り次第ね。バーデンでどんな厄介事が起きているかあんたは知らないだろう」「バーデンでは何が?」「始まってもう二年になる。あいつらはベイツ家の庭に踏み込んで、一人残らず追い出した。だがタートン家の目的はフランク家だった。そのときにベイツ家の子供二人を殺したがな。それから……」

 ベリズフォード表記あり。「のど斬り農場」の作者です。この作者の作品を読むのは三作目ですが、怖いというよりエグかったり不気味だったりと発想が異様だと感じています。この作品にしても、殺し合う二つの一族の様子が掘り下げられるでもなく、語り手に累が及ぶわけでもなく、ただただ事実だけを伝えているのが却って気持ち悪さを誘っていました。
 

「怪奇幻想映画レビュー
現代の幻想怪奇譚『ファイブ・デビルズ』の「魔術」を見よ」斜線堂有紀

 隔巻だった映画コラムの毎号連載化、第一回。フランスのダークファンタジー映画。
 

「「怪物」は実体を伴わず リチャード・マシスン「二万フィートの悪夢」」木犀あこ

「「カーミラ」再考――連作ミステリ小説としての In a Glass Darkly」日向空海
 『In a Glass Darkly』収録の「ドラゴン・ヴォランの部屋」と「カーミラ」を比較しながら、「カーミラ」をミステリとして読む可能性を論じたもの。
 

「書評」
『黄金蝶を追って』相川英輔(竹書房文庫)は、「本書を読み終えたとき思い浮かんだのは、「異色作家」という言葉だった」という評が魅力的な作品集。
『猫の木のある庭』大濱普美子(河出文庫は、当時話題になっていた『たけこのぞう』の改題文庫化。

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