『吸血鬼と精神分析』(上・下)笠井潔(光文社文庫)★★★☆☆

 矢吹駆シリーズ第6作、文庫化。

 前作の事件の後遺症から鏡を見ることができなくなったナディアは、旧友の薦めで精神分析に通うことにしました。

 一方、モガール警視とジャン=ポールは、ルーマニアからの亡命軍人殺人事件と、全身の血を抜き取られた連続女性殺人事件に遭遇することになります。明らかに政治的な裏がありそうな前者と、探偵小説的な猟奇臭ふんぷんたる後者ですが、ナディアと警視がそれぞれ独自に捜査してゆく過程で、共通する関係者とミッシング・リンクが見え始めます。

 といってもナディアは前作事件の影響もあり、これまでほど積極的に事件に首を突っ込もうとはしないので、探偵小説的にはモガール警視パートの方が楽しめました。それでも各々にしかわからない事実があり、お互いが情報を共有していないのが焦れったい。

 本書にもニコライ・イリイチの影ははっきりと差しているものの、思想的対決といった要素は薄くなってしまいました。本書におけるイリイチの役割は雇われ殺し屋であり、操りのきっかけを作っただけであとは偶然の産物でした。そもそもその操りにしてからが「竜=神の奇跡」って、いくら聖書の説明をされてもよくわかりません。

 見立てと殺人の動機がいずれも狂人の論理だというのも物足りません。殺人の動機が作中で為された精神分析の議論をかろうじて踏まえてはいたものの。最後に明らかになるのが古典的な脱血の理由でありそれがいちばん驚きだったというのもシリーズらしからぬ俗っぽさです。

 飾られているのは「動物」なのか「屍体」なのか。脱血屍体の本質は「肉から失われた血」なのか「血が失われた肉」なのか。この二点をもとに事件の真相を推理してゆく場面は圧巻であり、さすがでした。一連の見立てのなかで異物である「ムーミントロール」と「白鳥」を梃子にして、事件が切り分けられてゆく過程は、スリリングです。

 なかでも白眉は、夢遊病者と分身をめぐる議論でしょう。「双子の存在で残らず謎は解けるという、探偵小説読者の臆断《ドクサ》に名探偵は依存しているにすぎない。双子の存在さえ経験的にでなく、あくまでも分身現象の本質から導かれなければならない」。これほど推理小説らしい推理場面もそうないのではないでしょうか。

 パリ市内のアパルトマンでルーマニアからの亡命将校が射殺され、床には“DRAC”の血文字が残されていた。その一週間後、今度は被害者の女性たちが全身の血を抜かれる連続猟奇殺人が発生、通称〈吸血鬼《ヴァンピール》〉事件がパリを震撼させる。旅先から戻った矢吹駆は、一連の事件の犯人が遺体に動物の「徴《シーニュ》」を添えていることを指摘するが……。名探偵矢吹駆シリーズ、待望の第6作!(上巻カバーあらすじ)

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