『コドモノセカイ』岸本佐知子編訳(河出書房新社)★★★★☆

「まじない」リッキー・デュコーネイ(Abracadabra,Rikki Ducornet,1994)★★★★☆
 ――頭の中でブーンとハチみたいな音がする。彼は気づいてしまった。宇宙人が盗み聞きしている! 鏡の中の敵を攪乱するために、まじないとして顔をしかめ屁をひった。

 子どもが自分の頭のなかだけにある想像の世界に行って戻って来られなくなる話ですが、その想像の世界が独創的。決して美化された「あのころ」ではなく、くだらないという意味ではリアルです。
 

「王様ネズミ」カレン・ジョイ・ファウラー(King Rat,Karen Joy Fowler,2010)★★★★★
 ――父の職場の動物実験室に、初めて見る男の人がいた。ネズミが一匹、胸ポケットから顔をのぞかせた。「ほら、王様ネズミ、ごあいさつして」 その人はノルウェーの心理学者だった。そのヴィドクンさんはわたしに本をくれた。けれど『ハーメルンの笛吹き男』だけはつらくて読めなかった。

 終わりのない物語に結末をつけることで、つらい現実を忘れようとする作品もありましたが、これはその逆、現実を決して風化させようとはしません。その一方で、それとは別の物語で、現実に挑もうとします。その潔い姿勢が胸を打ちます。
 

「子供」アリ・スミス(The Child,Ali Smith,2008)★★★☆☆
 ――買い物に行き、商品をカートに入れようとすると、子供が一人乗っていた。「マンマアアア」。私が抱くと、ぴたりと泣きやんだ。子供を捨てたと思われるのも嫌で、仕方なく車に乗せて走り出した。「まったく下手くそな運転だね」背後から声がした。

 子どもが可愛いなんて言っているのは誰だ? 「子どもだから」許されるなんて思うなよ。こんな子どもがいたら、そりゃ捨てますとも。こんな可愛くない子どもという生き物を、ちゃんと育てている親は偉いなあ……。
 

「ブタを割る」エトガル・ケレット(Breaking the Pig,Etgar Keret,1994)★★★★☆
 ――どんなに頼んでも、父さんはバート・シンプソン人形を買ってくれなかった。お前はお金のありがたみがわかってない、と言って、背中に穴のあいた陶器の豚の貯金箱をくれた。毎朝、大きらいなココアを全部飲めば一シェケル

 大人はわかってない? 子どもはめんどくさい? いずれにしても、父親の意図した方向とは違いましたが、この子がなにがしかの成長を遂げたのは間違いありません。
 

「ポノたち」ピーター・マインキー(The Pones,Peter Meinke,1986)★★★★★
 ――十歳のころの私は夜眠れなかった。夢にポノたちがやって来てくすぐりにかかるからだ。たくましい父は私が暴力を恐れることに失望していた。だが根っからのヒーロー好きだった私がマーフィー兄弟に憧れたのは、その暴力のゆえだった。

 見ようによっては微笑ましいとさえ言えるような夢の話から、一転して理不尽な暴力の世界へと話は変わります。映画やドラマを見ているかぎりでは、アメリカの学校のヒエラルキーというのは日本からは想像もつかないほどに強者と弱者がはっきりしているように感じます。その腰巾着(のつもり)だった少年が語る、ガキ大将との交流とポノたちとの訣別。嫌な通過儀礼です。
 

「弟」ステイシー・レヴィーン(The Twin,Stacy Levine,1993)★★★☆☆
 ――弟は彼女の腰から生えていて、だから砂の上にあおむけに横たわれば弟を穴に押しこむことができた。弟はいつも泣いていた。口はちいさくて、目は開いたことがなかった。いつも彼女から栄養を取って生きていた。

 弟というからにはシャム双生児の話であるはずなのに、まるで人面疽の話のようで、物悲しいような不気味なような変な話で、だけど弟ぎらいという思春期の兄弟そのままの話でもあるという、本当に変な話です。
 

「最終果実」レイ・ヴクサヴィッチ(Finally Fruit,Ray Vukcevich,1997)★★★★★
 ――餌の時間に広場に集まってみると、怪物は一夜のうちに実をつけていた。“彼女”は相撲取りを上から押しつぶして、頭から南国の巨木を生やしたような姿をしていた。「クレイグ、頼まれてくれないか」サムが言った。「餌を飛ばしたあと、あのバナナのところまで俺を飛ばしてほしい」放り投げられたサムは、木にしがみつき、実を口にした。すると子供時代めがけて落ちていった。

 どうやったらこんなことを考えつくのだろうと感心するやら呆れるやらするほどの奇想に満ちていました。子ども時代のことを忘れてしまう大人や、“血肉”を口にしたら頭のなかに過去が甦ってくる描写や、できものや呪いなどで怪物に変化してしまう成り行きくらいなら、まだ何とか理解も追いつくのですが……。
 

「トンネル」ベン・ルーリー(The Tunnel,Ben Loory,2011)★★★★★
 ――少年が二人、学校から帰る途中、森の奥に配水管が口を開けているのを見つける。少年は中に入ってゆくが、もう一人の少年は回れ右をして走っていってしまう。少年は何も見えないまま先へ進んでゆく。これはただの配水管だ――だが少年は気づく。このトンネルには終わりがない。

 真っ暗ななかを進んでいるだけのはずだったのに、自分ではないものに変わってしまい、行き着くところは信じたくない行動。トンネルの入口で何かを間違えても、それに気づくことも引き返すこともできないとは、あまりに残酷すぎます。
 

「追跡」ジョイス・キャロル・オーツ(The Stalking,Joyce Carol Oates,1974)★★★★☆
 ――〈見えない敵〉が原っぱを逃げていく。グレッチェンはわざとゆっくり歩きながら、鋭く見すえる。〈敵〉は細長い脚を動かして行き交う車の前を大胆にかすめ、空き地を突っ走っていく。クソが、とグレッチェンは思う。〈敵〉の足跡を追う。待ってな、ちゃんと捕まえてやるから。

 子どもに特有の〈空想の友だち〉〈見えない友だち〉のようなのですが、実は相手は現実にいるのではないか、「見えない」設定にしているだけなのではないか、と勘繰りたくなります。
 

「靴」エトガル・ケレット(Shoes,Etgar Keret,1994)★★★★☆
 ――サラ先生の引率でユダヤ記念館に行った。ぼくはスターになった気分だった。クラスの子はみんなイラク系で、ホロコーストで死んだお祖父さんがいるのはぼくだけだった。映画のなかの老人は言った。ドイツ製品は殺されたユダヤ人の骨と皮と肉でできていると思え。

 スター気取りなところからは「橋の下で拾われた」願望の変形のようにも思えますし、復讐の連鎖を子どもに受け継がせようとする愚かな試みを描いているようにも思えますし、譬喩表現を言葉どおりに受け取ってしまう子どもらしさのようにも思えます。
 

「薬の用法」ジョー・メノ(The Use of the Medicine,Joe Meno,2005)★★★★☆
 ――それは僕らが心の底から麻酔医になろうと決意した夏だった。僕と双子の姉で小さな生き物を捕まえ、ガラス瓶に閉じこめていった。母は絶対安静なので、家の中では物音を立ててはいけなかった。その年の夏の最初の日、母の誕生日に、父が地下室で首を吊った。僕らは父の往診鞄を見つけてからそれを使いはじめた。

 小動物を自分たちの自由にするのは、通常であれば子どもの残酷さを表すエピソードでしょう。けれどこの作品に登場する双子たちは、かなり真剣で科学的で、実験の結果は微笑ましくさえあります。なぜ真剣なのか、なぜ用法を正確に守らなくてはならないのか、なぜ動物に微笑ましい恰好をさせるのか――その理由はとても痛ましいものですが、それを最後に心の声として台詞にしてしまうのは説明的でもったいなかったです。
 

「七人の司書の館」エレン・クレイジャズ(In the House of Seven Libraryans,Ellen Klages,2006)★★★☆☆
 ――森に囲まれたカーネギー図書館で、七人の司書たちは満ち足りて暮らしていた。赤ん坊を見つけるまでは。返却期限を過ぎた本と一緒に、延滞料金代わりに赤ん坊が置かれていた。その女の子はあっと言う間にアルファベットを覚え、カードを並べて自分を指さした。「ディンジー」。

 本書のなかではいちばん長い作品で、訳し下ろしです。ある意味ではもっとも普通の成長小説でした。

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