『ベスト・ストーリーズI ぴょんぴょんウサギ球』若島正編(早川書房)★★★★☆

 年代順の『ニューヨーカー』傑作集全3巻の第一巻になります。
 

「ぴょんぴょんウサギ球」リング・ラードナー/森慎一郎訳(Br'er Rabbit Ball,Ring Lardner,1930)★★☆☆☆
 ――最近は孫たちを野球場に連れ出しても、ただ黙々とお色気小説を読んでいる。試合に使われている公式球とやらには、昔と同じ成分が同じ割合で入っているという。昔ならナイルズ高校二軍チームのバットボーイにさえなれないようなやつらが、「強打者」連中と呼ばれているのだ。

 一応は野球についてのエッセイですが、もはや内容はどうでもよく、悪口のセンスと語り口を楽しむべき作品ですが、言い回しがくどくどしくて好きになれませんでした。
 

「深夜考」ドロシー・パーカー岸本佐知子(The Little Hours,Dorothy Parker,1933)★★★★★
 ――はて。私を囲んでいるこの黒い物質は何? まさか生きたまま埋葬されたとか? いや、そうじゃない。真夜中に目が覚めたのだ。ゆうべは宵のうちに本を読んで、それから寝床についたのだ。読書――そう、世に名高きこの悪習。それについてラ・ロシュフコーが上手いことを言っている……。

 岸本佐知子の名訳に乗せて、のっけから笑わせてくれます。夜中に目が覚めて、眠れなくなったらどうするか――。こんなに山ほど考えてたんじゃそりゃ眠れないだろうと思いますが、誰もが納得する(?)機知に富んだ解決策が用意されていました。
 

ウルグアイの世界制覇」E・B・ホワイト/柴田元幸(The Supremacy of Uruguay,E. B. White,1933)★★★★☆
 ――街頭集会で歌っていたラブソング歌手のとてつもなく大きい声の轟きが、カサブランカ氏の体に鋭く突き刺さった。あんなにソフトな甘い声を少し増幅しただけでたがが外れてしまうのなら、もっとずっと大きな音をもっとずっと増幅したら、何だってできるのではないか?

 プロパガンダを扱ったパロディ。世界征服はしたけれど……。
 

「破風荘の怪事件(手に汗握る懐かしの連載小説、一話完結)」ジョン・コリア/若島正(The Gables Mystery,John Collier,1934)★★★★☆
 ――「ハーバート、これ、あなたのボタン?」「どこで見つけた?」「メイドのベッド脇の敷物の上よ」「だとすると、珍しいことがあるものだな。カササギが拾って――」「しらばっくれないで、ハーバート」

 扶桑社文庫から出ているコリア短篇集『予期せぬ結末1 ミッドナイト・ブルー』に「ボタンの謎」(植草昌実訳)の邦題で収録。
 

「人はなぜ笑うのか――そもそもほんとに笑うのか?(結論出しましょう、ミスタ・イーストマン)」ロバート・ベンチリー柴田元幸(Why We Laugh? - Or De We? (Let's Get This Thing Settled, Mr. Eastman,Robert Benchley,1937)★★☆☆☆
 ――笑いとはすべて、くしゃみの代用としての反射運動にすぎない。私たちが本当にやりたいのはくしゃみなのだが、それがつねに可能とは限らないので、代わりに笑うのである。

 まじめ(ふう)に笑いを考察したエッセイ。
 

「いかにもいかめしく」ジョン・オハラ/片岡義男(Graven Image,John O'Hara,1943)★★★★☆
 ――次官はハーヴァードで同期だったチャールズ・ブラウニングとホテルのレストラン席に座った。「チャールズ、きみから手紙をもらって驚いたよ。職のことなんだよね。なぜ私のところへ来たのかな」「わかってるはずじゃないか。こんな単純な話もわからない人が、いまの地位にいるわけない」

 編集部の解説によれば、「出自の差、そしてそれに対する二人の意識」ということですが、そういうのは抜きにしても、腹の探り合いと見栄の張り合いが生み出す緊張感とユーモアが恐ろしくも楽しい一篇です。
 

「雑草」メアリー・マッカーシー谷崎由依(The Weeds,Mary McCarthy,1944)★★★★☆
 ――ペチュニアが咲いたら離婚しよう。そう思ったら、喜びの感情が込みあげた。いびつな長方形の土地に植えた花の種はゆがんでいる。来年こそは、きっと。そう思ってから、愕然とする。来年こそは、もちろん、わたしはここにはいない。

 普遍的な女と男の(あるいは妻と夫の)わかりあえなさを、妻が心の拠り所としている花壇に託した作品。
 

「世界が闇に包まれたとき」シャーリイ・ジャクスン/谷崎由依(When Things Get Dark,Shirley Jackson,1944)★★★★☆
 ――「あなたには現在、友人の助けを必要とされていますね」。ミセス・ガーデンは手紙を読み返し、差出人のミセス・ホープに会いに行った。ミセス・ホープには偶然バスで会い、親切にしてもらったのだ。「ご相談があるんです。結婚してまだ間もないのに、赤ちゃんが生まれるんです。まだ夫と一緒に愉しんだりしていたいのに……」

 ジャクスン短篇集『なんでもない一日』に「おつらいときには」(市田泉訳)の邦題で収録。
 

「ホームズさん、あれは巨大な犬の足跡でした!」エドマンド・ウィルソン/佐々木徹訳("Mr. Holmes, They Were the Footprints of Giantic Hound!",Edmund Wilson,1945)★★★★☆
 ――実は推理小説について考えるようになって以来、時々シャーロック・ホームズを読んでいる。今日流行の推理作家とはちがい、シャーロック・ホームズの物語は卑しからぬレベルの文学作品なのだ。その理由は想像力と文体にある。

 毒舌というイメージがあったのだけれど、ホームズには好意的。こういう切り口でのホームズ論は、当時としては新鮮だったのかな。
 

「飲んだくれ」フランク・オコナー/桃尾美佳訳(The Drankard,Frank O'Connor,1948)★★★★☆
 ――レモネードを飲んでしまっても、まだ喉が渇いていた。父さんは背を向けている。黒ビールはどんな味がするのだろうという好奇心がむくむくと湧いてきた。ぐいっと大きく飲みほしてみたら、黒ビールのおいしさがわかってきた。まるで体を離れた自分が空中から自分を見つめているみたいな気分になれる。

 父親についてパブにやって来た子どもが飲んべえの父親の監督役を引き受けようとした。つい一口飲んでみたら酔っ払ってしまった。母親から感謝されたというオチ。――ただこれだけの他愛ない内容なのに、作品そのものや登場人物が生き生きと輝いて見えるのは、文体なのか観察眼なのか、いずれにしても著者だからこそだというのだけはわかります。
 

「先生のお気に入り」ジェイムズ・サーバー柴田元幸(Theacher's Pet,James Thurber,1949)★★★☆☆
 ――ケルビーはスティーヴンソン家のパーティに行きたくなかった。スティーヴンソンを見ていると、子どもの頃のことを思い出してしまう。先生のお気に入りだったケルビーは、「典型的な砲丸投げ選手」だったレナードから何かといじめられていた。

 フルバックフルバックのまま――人生の負け犬が吠えることができたのは、所詮そういうときでしかないようです。本作を読めばわかるとおり、それは他人から思われているのとは違う理由、違う事情ではあるのですが……。実際に報道されるような事件の裏に、こうした事情があるのかもしれないと思うと、何だか物悲しくなってきます。
 

「梯子」V・S・プリチェット/桃尾美佳訳(The Ladder,V. S. Pritchett,1949)★★★★★
 ――あの夏のことは覚えている。学校から帰省したところ、母親はいなくなって、おまけに家の階段もなくなっていた。「階段はどこ?」笑い声を聞いて二階から声が返ってきた。父の秘書ミス・リチャーズ、もとい父のふたり目の奥さんだ。私が梯子を上り下りしていると、「なんて脚かしら、大人になってきたわね」大きなお世話というものだ!

 人間なんて昔とそう変わるものじゃない――とはいっても、多感な少女を描いてまるっきり現代作品と遜色のない普遍性を得ているのは、やはりすごいことだと思います。ふたり並ぶと父親が小さく見えることにショックを受けたり、父親が家を改装した理由について穿った見方をしたり、秘書だったときのてきぱきした姿とのギャップを冷静に観察していたりと、大人と子どもの中間である十五歳という年齢の少女を、大人びさせすぎもせず幼くさせすぎもせず過不足なく、リアルに描ききっています。
 

ヘミングウェイの横顔――「さあ、皆さんのご意見はいかがですか?」リリアン・ロス/木原善彦(Profile: How Do You Like It Now?, Gentlemen?,Lillian Ross,1950)★★☆☆☆
 ――飛行機でハバナから到着した日、ヘミングウェイは時間に追われているように見えなかった。「この人、ヒコーキで、ずっと、本、読んでた」インディアンの口調を真似る中にも、やはり中西部訛りが聞き取れた。

 解説によれば「ニュージャーナリズム」の先駆けだそうですが、いま読むと珍しくもない密着インタビューの切り貼りです。
 

「この国の六フィート」ナディン・ゴーディマー/中村和恵(Six Feet of the Country,Nadine Gordimer,1953)★★★★☆
 ――「この子は誰だ?」具合が悪い人間がいると言われてボーイたちの小屋にいたのは、ペトラスの弟の不法移民だった。伝染病の恐れもあるため検死を頼み、埋葬されたあとで、ペトラスが遺体を引き取りたいと言い出した。

 アパルトヘイトが存在していたころの南アフリカ共和国が舞台の作品です。ここに描かれている出来事を読んでいると不条理な笑いのようなものがこみ上げてきますが、こういう世界が実在した(している)と考えると愕然とします。
 

「救命具」アーウィン・ショー/佐々木徹訳(Instrument of Salvation,Irwin Shaw,1954)★★★★☆
 ――女優をしていたインゲは、若い頃にドイツで会ったことのあるヴィネク氏とパーティで再会した。その見栄、ドイツ人らしさ、誘いを断ったら劇場の支援を断られたことを思い出し、インゲは苦々しく感じていた。そのせいでインゲの家族はアメリカに渡ったのだった。

 過去のたった一場面が引き起こした運命の流れと、人としての勝敗が、鮮やかに描写されています。ここに描かれているような見栄と自尊心は、ヴィネク氏に特有のものというよりも、男全般に当てはまることのようにも感じます。確かに偶然からインゲたちは命を救われた形になってはいますが、結末でインゲが取った行動は、だからというよりはインゲひいては女の男あしらいの上手さによるものなのでしょう。
 

「シェイディ・ヒルのこそこそ泥棒」ジョン・チーヴァー/森慎一郎訳(The Housebreaker of Shady Hill,1956)★★★★☆
 ――親分の命令だったが上司にクビを伝えることができずに、私は独り立ちすることを決めた。だがオフィスを借りてもお金がない。とうとうウォーバートン夫妻の家に忍び込み、カールの財布を拝借してしまった。

 出来心と罪悪感と泥棒への誘惑。けれど悲愴感はなく、小市民の小市民なりの開き直ったかのような余裕にはユーモアすら感じさせます。家族や会社とちょっとトラブっちゃってね、、、というだけの何くわぬ顔をしているそこらのサラリーマンにも、こんな裏の顔があるのかもと考えると楽しくなってきます。
 

「楢の木と斧」エリザベス・ハードウィック/古屋美登里訳(The Oak and the Axe,Elizabeth Hardwick,1956)★★★☆☆
 ――クララは「厳密に言えば」という言葉を好む、女性誌の料理担当編集者だった。離婚してから一年ほど経って、クララはヘンリーと出会った。ヘンリーの過去や、「ちょっとした短いもの」を書いたことがあるのが、魅力的に映った。初めて部屋を訪れたとき、その薄汚さと暗さに衝撃を受けた。

 絵に描いたようなダメンズ好きに、微笑ましさすら感じてしまいます。
 

パルテノペレベッカ・ウェスト/藤井光訳(Parthenope,Rebecca West,1959)★★★★★
 ――発端は伯父がアリス・ダレルの館を訪問したことだった。そばには提督の館があり、庭にはギリシア風の名前をつけられた美しい姉妹たちがいた。提督は娘たちを急いで嫁にやってしまったのだが、娘たちは年に一回こうして集まっているのだという。あるとき伯父は大伯母から預かった手紙をパルテノペ嬢に届けに行った。

 ギリシア風の名前に相応しいとも言える悲劇の家系の、一輪の花の数奇な運命。そんな女性に恋した伯父さんは、まるで伝説のなかに紛れこんでしまった現代人であるかのようです。
 

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