『十和田操作品集』十和田操(冬樹社)★★★☆☆

『十和田操作品集』十和田操(冬樹社)

 北村薫宮部みゆき編『名短篇、さらにあり』に収録されていた「押入の中の鏡花先生」が面白かったのでほかの作品も読んでみることにしました。著者自選。その鏡花に最初に評価されたという「饒舌家ズボン氏の話」は未収録。
 

「新科学的馬鹿アン・ブレラア氏」(1930)★★★☆☆
 ――約一年間音信不通だったアン・ブレラア氏が長文の手紙をよこした。二、三十行もあれば足ることを実に長く書いている。こんなものは全く手紙といわれない。手紙とは――僕はアパートメントハウスの三階から駆け降りて行った。丁度円タクが流して来たので手をあげるとQと音をたてて停車した。ふとみると見なれない助手を伴っている。老婆だ。一見東京で運転手をしている伜を頼って田舎から見物に来た農家の老婆風だ。こういう車に瀕死のエリを乗せて病院へ走る風景を想像すると、とても雇う気になれなかったが、結局アパートの入口へ車を着けさせて病院へ電話をかけた。

 アン・ブレラア氏の著作からの引用から始まり、語り手のもとに届いた氏の手紙(の形を借りた物語)が紹介されるのですが、この手紙の内容が不条理コントみたいで可笑しくて仕方ありません。瀕死の妻を病院に連れて行こうとタクシーを拾ったら運転手は上京してきた母親を助手席に乗せてゆっくり観光案内しながら走っていた――。まさにコントの一場面ですが、これが冒頭の著作の引用にちゃんと繋がってゆくのだからおろそかにはできません。もちろん語り手が言うように手紙の目的からすれば無駄ではあるんですけれど、だからこそアン・ブレラア氏がこういう無駄なことを書いてしまうような人物だという性格描写としては完璧とも言えると思います。
 

「暁のランポツ氏 又は「時計が時計らしくない時」」(1931)★★★☆☆
 ――暁近くなって家へ帰った。玄関の戸を開けると埃まるけの板が二枚這っていた。失礼な奴、妻一人で留守居しているところへ宿泊するとは、と見れば、四、五年消息を知らず、知りたくないと思うことさえ忘れていたエダガワ・ランポツ氏であった。ランポツ氏は過去に於て、私と彼の弟に対し文芸の指導的インスピレーションを与えたのであった。親分と乾分の話や菊池寛の話など、話すところの機嫌のいいランポツ氏であった。ところがそのうち小説家であるはずの氏の小説を読んだことがないことに気づいた。

 ランポツ氏とは江戸川乱歩のこと――ではなく、エドガア・アラン・ポオを偏愛する自称小説家の青年が、たまたま乱歩(蘭穂)と同じ筆名を名乗っていたということのようです。このランポツ氏はかなりのクズ青年なのですが、語尾にツをつける癖があるのでランポツ氏というわけです。巻末エッセイで庄野潤三が書いているように、オノマトペをはじめとしたこうした言葉の響きの用い方が著者は抜群に上手い。最後は時計の音の駄洒落みたいになってしまいますが。
 

「鬼に雇われたA法学士」(1932)★★★☆☆
 ――法学士Aは去年大学を出てこの方、とんと職に就くことが出来ないでいた。或日下宿のマダムが彼に話した。『どんな仕事でもしてみないこと。デパートの催物の係なの』Aは兎に角やってみることに決心した。『実は地獄、極楽の展覧会を催すことになっていて、その鬼の役なんですよ。鬼といっても六道の辻で鉦を叩いている鬼なので、墨染の衣を着て顔にはお面を被って下さればいいんです』

 大学生や大卒者がまだ偉かったころの話です。デパートの係員に対する、軽蔑ではなく無関心のような眼差しに、ナチュラルな残酷さを感じます。
 

「アンタの屍」(1932)★★★☆☆
 ――わたしが四度目にアンタに関して病院に行った時は、アンタは病室から屍室に移されてあった。夜が明け、アンタの屍を今日中に火葬することになった。そこへ医員が入って来てアンタのお母さんを呼び出し、学術研究のため解剖させてほしいと頼んで行った。「腹綿を皆んな出いてしまうということじゃげなが」「あのね、胃に出来た癌を一つぶか二つぶ切り出して顕微鏡にかけるだけですよ」

 誰なのかはっきりしない語り手が死者に「アンタ」と語りかける内容で、遺体解剖を巡るドタバタは著者特有のものです。なぜ死者に語りかけなければならないのかの理由は最後に明らかにされます。ただの変人の手紙だった「アン・ブレラア氏」と比べればまだしも理由にはなっていましたが、それでも妙ちくりんではあるので、笑うべきなのか泣くべきなのか判断に困ります。
 

「河豚提灯と犬張子(1932)★★★★★
 ――「社長は社運の挽回につとめているのですから、再び呼び戻すことが出来ると信ずるのです」――嘘を吐け。平社員篠井は胸をわざと張り出して、「承知しました。永々とお世話になりました」。嫁に貰って三年目、赤ん坊が生まれて三月目、土産にもろた河豚提灯に妻が蝋燭をば入れているところだった。「坊やおととのバイバイほらご覧」妻の言葉に赤ん坊が見る。「なあ坊や、お父ちゃんが洋服を脱ぐのも当分今日限りだ」

 妻と乳呑み児がいるのに会社を馘首になってしまった男の、不安とも焦りとも違う、現実感のない呆然とした状態が、犬と空想の会話をしたりフト銭湯に入ったり赤ちゃん言葉の妻とはいつも通りに会話したりと、取り留めなく綴られてゆきます。なかでも独特の言語感覚で綴られる親子三人の交流からは、三人の生活の匂いまで立ちのぼってくるようです。
 

「絣」(1934)★★★★★
 ――「そりゃもう産み落とすその時まで畑へ出て働くのは平気さ。されどな、産む時には野天じゃ天とう様に勿体ないによって、家にさ帰りますわい。まあ山家の子産みてや、こんな丈夫なもんですわい」。右腕のないその老人は、和田長次郎と名乗った。「わしにも恰度あんた程の伜がたった一人あるけいど、利口な奴じゃったばっかりに気違いになりよったわさい」

 和田老人の個性と話の内容が忘れがたい作品です。方言で書かれた小説の大抵のものはたといネイティブが書いたものであっても作り物感が拭えないのですが、この作品は実に生き生きとしています。著者の得意なオノマトペとはつまり、音の響き全般に関する感性のことなのでしょう。話の内容自体も取り留めのないようでいて、実はきちんと子どもの話で繋がっていたりします。出産から和田父子の確執に至るまで、すべてが大胆というかスケールが大きいというか、良くも悪くも雑で大雑把な人たちでした。
 

「土地官女」(1934)★★★★☆
 ――「こりゃあ本当の話ですか」先生は膝を乗り出した。「蝮めしというのは飛騨にもあるのだね」「本当にありますよ」と嘘をついてしまった。「やっぱり炊き方もああするのですか」「はあ、飛騨では釜の蓋に穴をあけていませんですね」「それじゃ君、蛇の毒気が抜けねいだろう」「なに大丈夫です。毒気を含んでいる首は骨を引き抜く時一緒におっ放り出してしまうのですから」

 「押入の中の鏡花先生」のプロトタイプ――というよりも、この作品がほぼまるまんま後半に組み込まれています。ただしこちらには泉鏡花の名も十和田操の名も出て来ません。二度目の対面ではなく初対面になっています。雷のシーンもまだなく、先生は純粋に土地官女のことを調べに押し入れに入っています。先生が何かしらを隠したのはどちらにも共通しますが、こちらには子どものシーンがないため、冷えた空気が戻ることなく、不気味なまま物語が閉じていました。
 

「鼻屎」(1936)★★★☆☆
 ――多田さんはよく煙草をすう。煙草を指にはさんでいない時は鼻くそをほじっている。岩石のようなのを掘り出すと、ほくほくしたような顔して灰皿の中に入れる。すいさしの煙草を灰皿から取り上げて、その先にある今の岩石の上から火を点けてすいはじめる。変な臭いがする。「僕が煙草をすいはじめた動機は鼻をほじる癖をなおすためだったのだから仕方がない」

 相変わらず少しピントのずれた筋運びで、鼻くそをほじる癖や煙草を始めた理由を語り出すのかと思いきや、試験で失敗したエピソードが回想の中心を占めるというところがとぼけています。
 

「判任官の子」(1936)★★★★☆
 ――学校から帰って遊ぶ仲間のうち洋服を持っていないのは私の外には渡浜太郎だけだ。加代子もいるが女は別だ。だから洋服のないもの同士よく遊ぶ。二人で竹馬に乗って遊ぶのは、三木や院長の洋服に対抗するためだ。「おい、洋服一つと竹馬百本どっちがええか」「おれは竹馬さ」とわざと反対の返事をしてやる。「そんなら加代ちゃんと洋服どっちがええか」「てまいはどうじゃ」「加代ちゃんさ」。加代ちゃんは他の町内から渡が来て五人になると子買い屋遊びをしようと言い出す。加代ちゃんは渡が一番好きらしい。

 代表作の一つとされています。判任官は「はんにんかん」と読み、下級官吏のことだそうです。洋服や外套が買えないという描写からもわかるとおり要は貧乏公務員ですね。一行目の「腰弁」というのも腰弁当の略で安月給のことだそうです。「河豚提灯と犬張子」が大人の目から見た社会だったとすると、これは子どもの目から見た社会が舞台でした。貧乏役人の息子・永田(語り手)、県庁技師の息子・三木(片目)、病院長の息子・花村(ドモリ)、目医者の息子・渡(美男だが貧乏)、戦死した軍人の娘・加代子(一学年上)の五人の力関係が、著者特有の意識の飛び石(意識の流れではない)や囃し歌などで実に精妙に描かれていました。最後、貧乏人同士で遊ぶ約束が守られなかったときに、そこで永田ではなく加代子に怒りを向けてしまうところに渡の性格が現れていました。息子が片目なのは目医者の処置が悪かったからだと渡一家を逆恨みする三木の母親が、ことあるごとに表向きは親切めかしておきながら渡の邪魔をするのに、語り手はあまりそれに気づいてないのもえげつない。
 

「有楽街の宿直室」(1936)★☆☆☆☆
 ――契印という人は大そう話好きな人で、相手がなくとも話ばかりしている。(おじさん、寝るのに頬冠りですか)と訊ねりゃ、(へへへへへ、こうやって寝るとさえが全く温いでのう)。やっと寝つこうとする時分には、あれですよ、旦那寺のしょんべん鐘の、(シャン、シャアーン、シャン\/\/)と、いうやつを、こいつは寺の坊主が明け方小便に起きたついでに鳴らす半鐘で、その音を聞いたくらい。

 下ネタばかりでうんざりします。「絣」では見事な効果を上げていた老人の方言による語りも、契印という人物がうざいキャラクターであるためそのまま作品自体もうざくてうるさい作品になっていました。
 

「空腹と夕焼」(1936)★★★☆☆
 ――三十郎は疲れて会社から帰って来た。妻は出迎えない。いつものことだ。赤ん坊の泣き声で戸の開くのが聞こえないこともある。あやしているうちに妻が洗濯物をかかえて戻って来た。「ご免なさい、一寸オムツ取込みに屋上へ。そしたら――」「そしたら何んだい。あれ皆。」畳の上にはもう湯気は冷えた止ったが、じとじとになったオムツがうずくまっている。

 「河豚提灯と犬張子」と同じく親子三人の交流が描かれていますが、職を失った「河豚提灯と犬張子」よりも余裕がないように見えるのだから面白いものです。「中年者入用」という洋裁店の求人広告を見てあれこれ想像する、これまでのオノマトペとはまた違った言語感覚が披露されていました。
 

「蝦」(1937)★★★★★
 ――村からは村長をやってくれと言って来たが断った。やってくれの言いがかりが振っている。歴代村長の肖像額を去年増築した役場に掲げるに初代村長であったわしの父の顔を間違えて、このわしの写真を引きのばしてしまったというのだ。十両でええから引取ってくれ、それがいやなら村長になってくれというのだ。いずれその許に何等かの交渉があるかも知れんが、そこんところはその許の一りょうけんで然るべくなされたら宜しいであろう。

 六十代(?)の父親が息子に書いた原稿用紙三十九枚分にも及ぶ手紙の抜粋と父の半生から成る、著者の個性が遺憾なく発揮された怪作。父親孝四郎と息子豊春のモデルは著者の父親学太郎と著者(本名豊彦)だと思われ、著者自身の小説と同題の「勤徒さん」が父親の手紙で批判される場面までありますが、どこまでが実際のことなのかはわかりません。笑えるエピソードのオンパレードで、前半は肖像写真や釣りや幽霊屋敷などの取り留めのない内容で、後半は父親らしいところを見せようとしたのか小説や秋刀魚についてわけのわからない理屈をこねていますがまったく説得力がないのが可笑しい。一部は「押入の中の鏡花先生」に組み込まれており、途中に出て来る作家のモデルは、澄唐夜が泉鏡花、山崎麦村が島崎藤村、初見霜関が夏目漱石、花井環が菊池寛だということがわかります。隣の岩瀬の伜は不明です。
 

「おみやげ飛行」(1937)★★★☆☆
 ――航空兵一等兵飛田周一は飛行聯隊に入隊してから二度目の秋を迎え、満期まであと二か月を切った。だが、未だに飛行機に乗ったことがなかった。郷里の者は時々手紙を寄こした。毎日飛行機に乗って面白いでしょうとか、飛行機が来ると飛田さんが乗ってるかも知れないと言って万歳をするというようなことも書いてある。

 周りが勝手に盛り上がってしまい、本当のことを言うにも言えないという状況自体はいかにもありそうな出来事なのですが、戦争ものであってさえユーモアものに仕上げてしまうのが著者の持ち味なのでしょう。
 

「平時の秋」(1937)★★★★☆
 ――篠井の大隊は谷間で露営して明けたその日の夕暮、中央街一番の町に分宿した。医者だった亡夫が下賜された天盃で御祝し賜りたいと、意外なもてなしを受けた篠井は、それなれば一同軍服に更めてからそうさせていただきましょうと答えた。「うちの分隊長のうはああいう堅い人ですに」とお節介な二村一等兵が説明した。翌日、吉井曹長が宿を訪れ、理由は言えぬが兵隊一人だけ他の家へ泊ってもらいたいと告げられた。

 冒頭はまた下ネタ(うんち)の話か……とうんざりしかけましたが、そこから先は変な人たちの紹介記事となり、アン・ブレラア氏や「蝦」の父親みたいな愉快な兵士たちが登場します。
 

「屋根裏出身」(1938)★★★☆☆
 ――麹町の裏長屋の屋根裏に曾つて私は三年近くも住んでいた。顔ぶれは殆ど変ってしまったが、屋根裏の家の大久保泉平・八重夫妻たちは今も住んでいるので時々訪ねて行く。「あら、和良さん、お久し振り」お向かいの田沢のお捨さんが立っている。ほかに人がいるのなら泉平の帰るまで待っていてやろう。いくら親類づきあいでもお八重さんと二人切りでは楽な気で居られない。

 タイトルも魅力的ですし、芥川賞候補にもなった著者の代表作ということで期待していたのですが、ほかの作品と比べて特に優れているとは思いませんでした。本書中でも異例の長さがありますが、内容はというとむしろ著者の作品にしては平凡な部類に入ると思います。これまでの作品では誇張されていたキャラクター性が現実的に描かれているようです。
 

「足折れ雀――昔噺の絵巻に寄せて――」(1939)★★★★☆
 ――うちでは玩具や絵本なんぞ買ってもらえない。その代り病気になると母は枕元でお針を動かしながら、面白い昔噺をしてくれる。「むかしむかし白いお爺さんと赤いお爺さんとがあったげな」母が白いお爺さんと言えばいつでも良いお爺さんのことだ。「白いお爺さんが竹を伐っとったげなと。足の折れた雀ん子が落ちて来た。いとしゅうなって思わず爺さん、口ん中へ放り込んでまったじゃわ」

 一般に「屁こき爺」などで知られる昔話です。子どもの冷静な(無粋な)問いかけに、真面目に返答しながらも答えになっていないような答えを返すのが、作り物ではない本当の親子の会話っぽいです。
 

「二階のない学校」(1940)★★★★☆
 ――北学校には二階がない。学校の直ぐ前に刑務所の高塀があるからだ。若し二階があれば、その窓から刑務所の中は丸見えだ。学校の先生たちも「そんな悪いことをする子供は大きくなったらあの塀の中で暮らさなければならなくなるぞ」と言う。この学校には又、面白い規則がいろいろとある。良い行いをしたとき先生から白札を貰い、その反対のとき貰うのが赤札だ。

 刑務所前の立地と「二階のない学校」という表現や、白札と赤札のルールなど、唯一無二の世界が切り取られていました。「判任官の子」と似たようなエピソードが出て来ますが少女が嘘をついた理由は正反対です。
 

「夏の今来る」(1941)★★★☆☆
 ――淀舟や夏の今来る山かつら 鬼貫。恰度そんな時候であった。苦米辛作は大阪に来たついでに、鬼貫のお墓へ参ろうと思いついた。「袈裟寺はどこらへんにあるんでしょうかね。」「けさでら……そんなお寺おへんおっせ。」「鬼貫のお墓があるんですよ。」「はーん、それやったら墨染寺のことやおへんおすか。」「あー、それそれ、なんでもお坊様の身につけるものだと思ってたものだから。」

 俳句で始まり俳句で終わる掌篇です。苦米辛作にモデルはいるのでしょうか。お大黒様とは僧侶の妻の謂。
 

「老兵従軍旅誌」(1946)★★★☆☆
 ――伸坊、おどろいたろう、父公《とうこう》もおどろいている。父公は四十二歳になって一度にこんな大きな旅をしようとは考えなかった。とつぜん御用の赤い紙きれに引っぱり出されたのは悲しいが、こんなことでもなければこんな旅行はできなかった。船室で寝ころんでいると、「鱶だ鱶だ」とどなりながら兵隊がかけ降りてきた。すると深田君という兵隊が、「こいつは海豚どすわ」と父公に言った。

 父公も鬼貫の墓に参っていることからすると、「夏の今来る」の苦米辛作も父公も同じ十和田操自身をモデルにした人物のようです。いいだけ書いて「あとはこの次」という人を食ったところは、さすが「蝦」の父親の息子といったところです。
 

「生理」(1948)★★★☆☆
 ――才蔵は自家の雪隠にしゃがみながら思い事にふけっている。「? そんならどうすりゃいんだ」彼は食卓の卵をガラス障子に投げつけた。小さい方の子が「! こらあ、父うちゃんが悪い」と言って箸箱で才蔵の頭をたたきつけた。妻の多由子が彼を膝の上にまたがせたすきに、才蔵は厠に逃げこんだ。すべては莨代を家計に回して欲しいという多由子の一言がきっかけだった。

 これまでも独特の家族の愛情が描かれてきましたが、婚前から性交渉から出産まで描かれたのは本書中ではこれが初めてです。「愛している」なんて男が言えるか!という時代だったのでしょう。横暴なようでいながら、何だかんだ言って仲良くしています。
 

「谷渡」(1949)★★☆☆☆
 ――黒い蝶が飛んできたのを叩くまねをしてみたら、ぴしゃりと当って落ちてしまった。蝶は人里のそばへ飛んでくる前に、連れの笛吹の帽子にとまっていた。笛吹の子は三年前の初夏このかた漂渺院夕笛清信士などという長い名前にかわってしまっている。喘息だった息子に、学生時代にかぶっていた帽子をあたえて山を歩きすぎたのがいけなかった。「おお坊や、よくきたね、蝶のすがたであらわれたんだね」

 蝶は死者の魂という異邦の例もあるように、謡曲の胡蝶や息子の死など精霊の世界にいざなわれた……ようなところから、著者らしい言葉の響き談義になってしまうなど、作品のカラーが一定しません。
 

「「いつお前は嫁にゆく」」(1949)★★★☆☆
 ――ゴーガンの「いつお前は嫁に行く」と題する絵を見て思い出した。十年前のことだ。出版記念会で会った緑島カスミという女から『至急御来駕下さい』という速達が来た。甲賀他七という若手作家と一緒に行ってみると、カスミ女史がつぶやいていた。「あたしがいつ赤ん坊を産んだ。近所で赤ん坊の死体が発見されたからといって何だというのだ。甲賀他七は妹と二人で暮らしてるくせに、毎週何度もやってきて、話だけして何もしない」

 ちんちんを身体のなかに引っ込めて遊んだという子ども時代の話から始まり、兵隊にもそんな人がいたという話になって、この話はどこに向かっているのかと思っていると、南方つながりでようやくゴーガンの話になりました。そうして長い前ふりから、十年前のゴーガンが結んだ男女の縁という本題に入ります。その話をいま作家が書いているというていで、冒頭と結びを伜の戯れ歌で挟み込んでいる構成でした。著者の作品のなかでは比較的ストレートな意識の流れだったと思います。
 

「機智と愛憎」(1949)★★☆☆☆
 ――こんやいよいよやるらしい。いよいよ世界のビッグ・ニュースがはじまるという噂をば我社の記者たちからきいて帰ったその夜、寝床の中の才蔵は七人のじいさんの顔がちらついて眠られなんだ。ラジオの時間などとうにおしまいになったはずだが、となりの家からピアノの伴奏にのって女声の独唱がきこえてきた。

 これまでの作品も私小説といえば私小説だったのですが、おかしなキャラクターと支離滅裂な意識の流れによっていわゆる私小説とはまったくの別物になっていました。ところがこの作品は眠れぬ夜の一人妄想という形が取られているため、これまでの作品とは違い、いわゆる私小説っぽい「つまらない日常」でした。
 

「焔の構造」(1949)★★★★☆
 ――雲さんはむかし田舎の中学で図画を教えていた。そのとき生徒からちょうだいしたのが雲助である。このニックネームをつけたのが才蔵といった。がんらい才蔵は試験勉強が大嫌いだったが、物理化学の担当は劣等生救済のお情けで毎年定った問題を出してくれる。

 「鼻屎」で書かれていた試験の失敗とカンニングのエピソードを同一人物の話にして背景を改作したものです。恐らくこの試験のエピソードは実際にあった出来事が元になっているのでしょう。そこに不器用な教師と要領のいい生徒の奇縁を描いて、フィクションとしての体裁は「鼻屎」よりも格段に上がっています。
 

「遊覧部隊」(1950)★★★☆☆
 ――マレー半島のイポという待ちにいたインド人の牧師さんとその家族に手紙を出したいと思っていたが、英語はなれないので伜に綴ってもらうことにした。「はいけい 日本の手紙の作法であるところの時候のあいさつを省略することをおゆるし下さい。南方の御地は年じゅう日本の夏と同じだからということを経験によって存じているからであります。しかしこちら日本は……」

 これまでも父親の姿や著者本人の姿で描かれてきたようなとんちんかんな手紙を皮切りに、従軍時代の思い出が綴られます。ひとり外国に従軍している語り手にとって現地の人間は家族のような存在だったのでしょう。著者の作品で描かれる妻子との交流には独特の愛情と距離感が感じられますが、現地の牧師一家ともそんな飄々とした関係が築かれていたようです。
 

「押入の中の鏡花先生」(1950)★★★★★
 ――ながいあいだしないでごまかしてきた春期清潔大掃除というものをやっているところへ郵便がきた。「とうちん、ほら、てまみだよ」小さい伜が、けしょけしょと、びっこを引きながらやってきた。あれは昭和何年のことであったろう。そのころ、とうちんは新聞記者をやっていたが、「葡萄園」復刊号に書いた『饒舌家ズボン氏の話』を泉先生がほめておられたというので、泉先生のコックをやっていた達っちゃんと一緒に遊びに行ったのである。

 「土地官女」「蝦」に一連の家族ものが組み合わせられています。一見すると話題があちこちすっ飛んでいるように見える著者の作風ですが、大掃除で押し入れから出てきた父親からの手紙を読んでいるうちに泉鏡花の許を訪れた思い出が頭に浮かんで来るという形で、一本の筋にまとめられていました。前後が何気ない日常で挟まれることによって、披露されるエピソードがもう過ぎ去ってしまった過去のことなのだ、という思いが強く感じられました。
 

卯の花漬」(1951)★★★☆☆
 ――例の才蔵が久しぶりにあらわれ、サンマの卯の花漬というしろものをお土産にやってきた。酒は出さなかった。そのかわりイギリス人からもらった青い箱のタバコを出しておいた。「こないだおもしろいところへ行ってきたよ。千葉先生と旅行していると、漁師の神さんたち四人と乗り合わせた。うわっはっはと笑い出した瞬間に、その小母さんに膝を思い切りどやされた次第だ。自分の膝をどやすつもりが隣の他人の膝を叩いてしまったという理屈だ。

 その土地土地の個性的な人々も十和田作品の魅力の一つです。
 

「戸の前で」(1951)★★★★☆
 ――ガミガム、ガミガム戸を叩き、「風じゃないよ、風ではありませんよ」と叫んだ。人に招かれて銀座ででっかなビフテキを食べてきた。妻子たちというものは、家でまずいものばかり食べて気の毒だと思うが、お土産に迷ううち面倒になってやめてしまう。この戸を叩くと真っ先に飛び出してくるのは、びっこをひいてケチョケチョ歩き廻っている二男坊である。父親の頭が白すぎるので、孫のように見えるそうである。

 妻子を愛しているのも伝わってくるし、自分だけがいいものを食べて申し訳ないという気持にも偽りはないのでしょう。それなのに謝礼を断ってしまうのが、矜恃とも違って何となくの思いつきのようにも感じられてしまいます。それでもひどいと感じられないのが著者の持ち味です。風だと思ったそうである、とか、高額な謝礼だと思い込んでいるだけじゃないの、とか、奥さんの方でも旦那の扱い方がわかってます。
 

「煤竹」(1952)★★★☆☆
 ――少年のころ私の生れ故郷である美濃尾張の地方で凧会というものがはやったことがあった。虻凧というのがこの凧会用の標準型になっていて、切ってから数十年経た竹が腐りもせず虫に喰われもせず、ただ美しく煤けたのを、骨組の材料にした。虻凧の眼のように眼がちょっと上の方についていたためアブさんというあだ名の少父さんがいて、虻凧ばかり作っていたので、とうとう小母さんがおこって家をとび出してしまった。

 「判任官の子」に出て来る甕の夢は司馬温公のエピソードが元だったんですね。凧の名称から始まって凧を巡る父親やおじさんとの思い出話ですが、著者の作品には珍しくさほど奇矯なところはなく、近所の名物おじさんを巡るちょっといい話ふうのエピソードになっていました。
 

「都忘れ」(1953)★★☆☆☆
 ――後家で弓の先生の山の庵を案内したいという和尚のてがみで、人里、笛吹の両家は軽く相談を打った。未亡人の身上話をきいているうち、今度は人里の方から剣道の話が始まってしまった。

 とりとめのない、というのは十和田作品の場合には貶し言葉には当たらないのだけれど、それにしてもとりとめのない作品でした。
 

「草色の老兵日記―続・白い講師の講義録―」(1954)★★☆☆☆
 ――どうも古いものを持ち出してまいりましたが、これは、ぼくの従軍日記帳でありまして、戦争のまだ初めのころのものでありまして、日本軍、すなわち皇軍の神兵が絶頂にありましたころに書かれましたものですから、敗戦後の今日において、何んらの値打もありません。

 戦友の父からの手紙を引用した反戦小説。

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