『シャーロック・ホームズの思い出』アーサー・コナン・ドイル/延原謙訳(新潮文庫)★★★☆☆

シャーロック・ホームズの思い出』アーサー・コナン・ドイル延原謙訳(新潮文庫

 『The Memoirs of Sherlock HolmesArthur Conan Doyle1893年

 ホームズものの第二短篇集。
 

白銀号事件(The Silver Blaze,1892)★★☆☆☆
 ――名馬白銀号が厩舎から姿を消し、調教師ストレーカーの殴殺体が発見された。額に白いしるしがあって目立つためすぐにでも見つかるだろうという見込みははずれ、白銀号は依然として。容疑者としてその日厩舎に押しかけて来たフィッツロイ・シンプスンが逮捕された。馬丁に薬を盛って眠らせ、白銀号を盗んだところをストレーカーに見つかりステッキで殴ったのではないかと警察は考えていた。被害者がシンプスンのネクタイをつかんでいたのが決定的だった。

 第二短篇集の巻頭を飾る作品ですが、恐ろしく地味な事件です。イギリスでは競馬が盛んなのであるいは派手な題材なのでしょうか。馬のような大きなものが消えてしまうと考えれば不可能興味はありますが……。

 「唇の捩れた男」「まだらの紐」でも感じたことですが、ホームズの当初の推論があまりにも陳腐で安易です。こういうところを読むと、ホームズものもやはり昔の小説だなあと思ってしまいます。現代のミステリなら捨てネタでも魅力あるものにするでしょう。

 地方の事件だからでしょうか、グレゴリー警部がこれ一作だけの登場です。ホームズも口にしている通り、捜査能力は平凡ながらやたらと用意のいい気の利く人物でした。

 あの有名な「犬はあの夜なにもしませんでした」というやり取りによってミステリ史に燦然と輝く作品でもあります。
 

「黄いろい顔」(The Yellow Face,1893)★★★★☆
 ――ホームズが散歩から戻ると、留守中に訪ねた依頼人がパイプを忘れていた。推理しているうちに依頼人が戻って来た。グラント・マンローは未亡人のエフィーと結婚し、最近までは上手くいっていた。だが隣に新しい住人が越して来てから事情は変わった。死人のように土気いろの不気味な顔が隣家の窓から覗いていたのだ。それからのエフィーは夜中にこっそり抜け出したかと思えば、隣家から出て来たところをマンローに目撃されていた。事情は言えない、でも信じて欲しい……それがエフィーの言い分だった。

 ホームズの失敗譚の一つで、事件ではないためあまり面白かった記憶がなかったのですが、読み返してみるとわりと面白かったです。相変わらずホームズの最初の見込みが乱暴で、なんとワトソンに「まったくの臆測にすぎないね」と言われる始末です。その憶測も今回はとうとう最後まではずれたまま……というのが、ホームズ遂にやっちゃったね、という感じで面白かったです。ホームズならずとも前夫の影を感じずにはいられないのですが、そうした男女の痴話喧嘩みたいなのを謎に据えているのを読むと、当時の英国読者はほんとうに週刊誌ネタが好きなのだなと再確認しました。さすがに昔の作品なので各方面に対する差別描写がひどいのですが、それを補ってあまりあるマンロー氏の男気とホームズの引き際でした。
 

「株式仲買店員」(The Stockbroker's Clerk,1893)★☆☆☆☆
 ――依頼人のホール・パイクロフトによれば、潰れた勤め先からの推薦状を添えて応募したところ運良く再就職が決まったが、突然アーサー・ピナーという経理士が訪ねて来てパイクロフト氏の才能を褒め、自分のところで働いてくれたら先方より高い給料を払うという。再就職先へは行かずにピナーの会社で働くことにしたが、事務所には机が一つきりで、与えられる仕事も簡単なものだった。経営者と経理士の同じ場所に金歯があることに気づいて、ホームズに依頼することに決めたという。

 ホームズがわざわざワトスン家を訪れていることが意外でした。電報で呼びつけるイメージがあったので。

 もろに「赤髪組合」と同じですが、「赤髪」には赤髪組合という奇妙なアイデアがあったからこそ魅力があったのに対し、本作の場合はそういったアイデアもなくただの詐欺なのは見え見えで、騙されるパイクロフトの間抜けっぷりばかりが際立ちます。そんな間抜けなパイクロフトすら仕掛けに気づいてしまいますが、Why(では何のために?)の部分がわからない――そこが残された謎のはずなのですが、何とホームズにもわからないままで、真相は新聞によって判明するというお粗末な話でした。印象に残るような台詞もなく、再読でしたが内容もまったく覚えていませんでした。
 

「グロリア・スコット号」(The Gloria Scott,1893)★★★☆☆
 ――『万 雉の 静穏なる 事 ロンドン 市の……』こいつが治安判事のトリヴァを驚死せしめた手紙なんだ。一読の価値はあるよ。僕が初めて手がけた事件だからさ……ヴィクター・トリヴァは、人づきあいの悪い学生時代の僕の唯一の友人だった。自宅に招かれ推理を披露したのだが、トリヴァ老人は失神してしまった。J・Aという人物と過去に因縁があったようだ。その日から老人が不安がるため、早めに暇をつげようと考えていたところ、ハドスンと名乗る船乗りが現れ、トリヴァ老人は真っ青になった。

 ホームズ最初の事件。何のきっかけもなくいきなり思い出話を始めるホームズがお茶目です。若い頃の事件というだけで最初の事件ならではの要素もないし、暗号も単純なものですし、推理も何もなく過去の因縁が明かされるだけなのですが、この過去パートというのがドイルは抜群に上手いのです。惜しむらくは文語体の手記という体裁を取っているため、せっかくの物語の躍動感が半減してしまっているところでしょうか。暗号は日本語で意味が通じるように訳されています。
 

「マスグレーヴ家の儀式」(The Musgrave Ritual,1893)★★★☆☆
 ――同じカレッジで学んでいたマスグレーヴが、卒業後にモンタギュー街のホームズを訪れた。執事のブラントンが夜中にこそこそと一族の書類を調べていたものだから、マスグレーヴは暇を出した。ところが調べていたのは大切でも何でもないマスグレーヴ家の儀式文だった。残りの日を熱心に働いていたブラントンだったが、三日後の朝に姿を見せない。ブラントンにふられて気が触れてしまったレーチェルという女中にたずねると「行ってしまいました」と言ってヒステリーの発作を起こした。その三日後、レーチェルも姿を消した。

 部屋の片付けをしたくないからといって昔の事件を話し出すホームズが相変わらずお茶目です。石炭入れやペルシアスリッパやVRの弾痕など、ホームズ=変人というキャラクターを決定づけたエピソードも読めます。暗号めいた儀式文といい歴史趣味といいお宝といい、ルパン・シリーズを思わせます。それも地下という点からは図らずも「遅かりしハーロック・ショームズ」を。そうは言っても秘密の場所でも何でもなく隠し扉というわけでもないのですから、一族の誰かが気づけよ……とも思ってしまいましたが。
 

「ライゲートの大地主」(The Reigate Squire,1893)★★☆☆☆
 ――過労で倒れたホームズをサリー州ライゲートの戦友のところまで療養に連れ出した。アクトンという有力者の家からメッキの燭台や麻糸の玉など妙なものばかり盗んでいった泥棒の話を聞いていると、アクトン家と土地の権利を主張し合っている同じく有力者のカニンガム家で馭者が殺されたという報がもたらされた。馭者の手にはちぎれたメモが握られ、泥棒を引き入れていたものと思われた。

 『叡智』所収。ホームズによる筆跡鑑定は年齢や性格までいくとトンデモですが、どちらが先に書いたのかを推定するところは論理的で鮮やかです。ドイル自身も恐らくはこのメモを肝だと考えていたようで、馭者が殺された理由も取って付けたようですし、あとはホームズが過労で倒れたり、発作の演技をしたり、絞め殺されそうになったりと、謎解き以外の見どころがありました。
 

「背の曲った男」(The Crooked Man,1893)★★☆☆☆
 ――結婚後二、三カ月経った夜、ホームズが玄関のベルを鳴らした。オルダーショットでバークレイ大佐が殺されたという。夫婦が言い争う声が聞こえ、御者が開いていた窓から入ると、夫人が気絶し、大佐は頭から血を流して事切れていた。夫人が夫を殴り殺したように見えたが、ホームズは鍵がなくなっていたことと小動物の足跡があったころから第三者がいたことを推理した。

 ホームズものではお馴染みの、過去の異国の出来事由来の復讐譚です。ホームズはワトソンの近況を推理したり、夫人が夫をなじった理由を知っている人物を推理したりしますが、犯人や真相について目の覚めるような推理をするわけではありません。やはり復讐譚だと、推理よりも過去のエピソードの印象が強いようです。しかしいくら何でも三十年後に一目見ただけで互いに誰だかわかるのは現実的とは思えません。「なに、初歩さ」の台詞が見られる作品です。
 

「入院患者」(The Resident Patient,1893)★★☆☆☆
 ――散歩から帰ると医者のトレヴェリヤン博士が待っていた。才能はあるのに資金がない博士は、ブレッシントンという男から資金提供を提案され、報酬として収入の四分の三支払うことで合意し、経営は上手くいっていた。あるとき類癇患者の父子が診察に来たが、薬を取りに行っているうちに診察室から消えていた。ところが帰宅したブレッシントンが「部屋へはいったのは誰だッ」と怒鳴り込んできて、それ以来怯えているという。

 不自然なところの多い作品ですし、依頼人でこそないもののホームズの介入後に関係者が殺されている以上、ホームズの失敗譚としてカウントすべきでしょう。ぎりぎりのところになるまで云々とホームズは推測していますが、逃げずに話し合いで何とかなると思っているブレッシントンもお気楽すぎますし、ブレッシントンに嘘をつかれてあっさり手を引くホームズも危機感がなさ過ぎます。
 

ギリシャ語通訳」(The Greek Interpreter,1893)★☆☆☆☆
 ――ホームズにはより優れた観察力をもっている兄がいるが、行動力がないため探偵には向いてないという。マイクロフトに会いにディオゲネス・クラブに行くと、メラスというギリシャ語通訳から奇怪な話を聞かされた。ラティマーという男から通訳を頼まれたが、目張りをされた馬車に乗せられ棍棒で脅された先で、顔中に絆創膏を貼られ監禁されているらしき男の通訳をさせられ、他言無用と脅されたという。メラスは問答のギリシャ語に自分の質問を加えて男の素性を探ろうとした。

 ディオゲネス・クラブでの兄弟による推理合戦という見どころこそあるものの、それ以外はパッとしません。怪しい依頼と暴力的な犯人というのも「技師の親指」の二番煎じです。何よりも、他言無用と脅されているにもかかわらず、ホームズより優秀とされているはずのマイクロフトが新聞広告を出して、メラスが他言したことを犯人にバラすという、大馬鹿としか言いようのないチョンボをしているのが致命的でした。結局犯人の居所はその新聞広告への反応で判明するだけですし、作中で一番冴えているのが、ギリシア語の会話に自分の質問を混ぜる機知を見せたメラスだというていたらくでした。
 

「海軍条約文書事件」(The Naval Treaty,1893)★★★☆☆
 ――学校時代の友人パーシイ・フェルプスは、大政治家の伯父のおかげもあって今では外務省で相当の地位を得ていた。ところが困った羽目に陥り、ホームズの知恵を借りたいという。伯父から極秘裡に頼まれたイタリアとの条約文書を写していたが、小使がなかなかコーヒーを持ってこない。見に行くと小使は眠りこけていた。その時ベルが鳴り、部屋に戻ると条約文書は消えていた。小使の妻が疑われたが、文書は見つからず、フェルプスは心労から寝込んでしまった。

 条約文書を盗んだ犯人はなぜわざわざベルを鳴らしたのか、盗んだ犯人が文書をさっさと活用しない理由(犯人自身が隠し場所に手を出せない状況になっていた)、解決編でのホームズによるインパクトのあるお茶目な行動など、見どころの多い作品です。不幸な結末にしかならなそうなところを、犯人がかなりの危険人物であり、解決は婚約者アニイのおかげだと明言することで、どうにかハッピーエンドに収まりそうです。事件とも犯罪とも無関係に、イバラの美しさや寄宿学校の未来性を語るなど、ホームズの意外な一面が見られます。
 

「最後の事件」(The Final Problem,1893)★★★★☆
 ――「一週間ばかり大陸のほうへ行ってみないかい?」目的もなく休暇をとるなどホームズの柄にないことだ。「君はモリアティ教授の名をきいたことはあるまいね?」「ない」「彼は犯罪者中のナポレオンだ。大ロンドンの未解決事件のほとんど全部と、悪業の半分の支配者だ。来週になれば一味を一網打尽にできるだけの準備が整うのだが、教授も手を打って僕の命を狙ってきたんだ」

 いろいろと疑問点や矛盾点が多いとされる作品ですが、そんなつっこみどころを感じさせる間もないほどのスピード感とテンポの良さは見事なものでした。追われる被害者の冒険サスペンスだと考えれば、そうしたスピード感も納得です。「最終問題」という原題もいいですね。

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