『メアリ・ジキルとマッド・サイエンティストの娘たち』シオドラ・ゴス/鈴木潤他訳(新☆ハヤカワ・SF・シリーズ5048)
『The Strange Case of the Alchemist's Daughter』Theodora Goss,2017年。
即物的な邦題ですが、同じく素っ気ない原題は『ジキル博士とハイド氏(The Strange Case of Dr. Jekyll and Mr. Hyde)』に基づくのでしょう。短篇「マッド・サイエンティストの娘たち(The Mad Scientists' Daughters)」が元になった長篇なので、邦題はそれを活かしているようです。
ジキル博士の娘メアリ・ジキルは母にも死なれて一文無しになり、やむなく使用人たちに暇を出した。だが母親の口座からハイド宛てに送金されていることを知り、真相を知るため探偵シャーロック・ホームズを頼る。ワトスンと共に手がかりとなる協会を訪れたメアリは、そこでハイド氏の娘だという少女ダイアナと出会う。折りしもホワイトチャペルで発生した連続娼婦殺人事件の現場でホームズと合流した三人は、目撃された容疑者の特徴がハイド氏と一致することを知る。残された書類とダイアナの話から、ジキルは自らを変成突然変異の実験台にしてハイドに変身していたのではないかとメアリは仮説を立てた。書類のなかにはイタリアからの手紙があり、封蝋には連続殺人の被害者の手のなかにあったのと同じ「S・A」の文字があった。手紙はラパチーニという科学者からのものだった。新聞広告で科学者と同じ名を持つ毒女の公開実験を知ったメアリは、S・Aの謎と連続殺人犯に迫るため、ラパチーニの娘に会いに行く。一方ホームズの口からは、精神病院の患者が一連の娼婦殺しを自白したと知らされる。
モロー博士の創造物キャサリンが執筆した小説に、ジキルの娘メアリ、家政婦ミセス・プール、メイドのアリス、ハイドの娘ダイアナ、ラパチーニの娘ベアトリーチェ、フランケンシュタインの花嫁ジュスティーヌらがツッコミを入れるという形式が取られています。
今となっては珍しくもないこうした語りを採用した理由は何でしょうか。1881年の事件とされる『緋色の研究』が14年ほど前(p.50)、1888年の切り裂きジャック事件に類似した事件が起こり(p.53)、執筆時点でも「時代は九〇年代」(p.36)であり、舞台となるのも「もう一八九〇年代」(p.277)とあるように、十九世紀の人間が書いた小説という体裁である以上、現代的な語りを採用するわけにはいきません。そこで古典的な小説の下書きに対し、それを読んだ登場人物がツッコミを入れるという形が取られたのでしょうか。
神の視点で書かれた地の文に向かって「そんな夢を見た覚えはないわ」(p.41)と登場人物がツッコミを入れ、「あのときに真相がわかっていたらよかったのに……」(p.44)という古くさいタイプの小説に対するエクスキューズがあり、そうした女性たちの声によりフェミニズムの視点も採り入れられ、十九世紀人が書いたという体裁の小説がブラッシュアップされています。とはいえ「ホームズもワトスンも玄関にほったらかし」(p.213)でストーリーよりも意識の流れ的な流れを重視する描写もあり、「これが新しい書き方なんだって。みんなが考えていることを描かなかったら、どうやってみんなの物語を書ける?」(p.249)ともあることから、地の文でも意識的に新しいタイプの小説を目指していることは窺えるので、わたしの書いているのはとんちんかんな推測だったようです。
ストーリーそのものは(二世ばかりとはいえ)オールスターキャストによる冒険ものという贅沢なものです。シャーロック・ホームズが切り裂きジャック事件に挑み、ジキルとハイド事件の真相が揺らぎ、両親も財産も失ったメアリは結婚以外の生き方を見つけようとします。
はじめはミセス・プールを除けば一人きりだったメアリが、ダイアナ、ベアトリーチェ、キャサリン、ジュスティーヌ……と一人また一人と仲間を増やしていくのも冒険ものの王道で、少年漫画のようなワクワク感に満ちていました。
二重(三重四重……)のパスティーシュの常として、『ジキルとハイド』「ラパチーニの娘」『モロー博士』『フランケンシュタイン』の出来事がしっかり物語に組み込まれているのには舌を巻きました。細かいことを言えば「ラパチーニの娘」の設定はあまりメインストーリーには食い込んでいないのですが、それでもほかの三つの設定を採用して、フランケンシュタインの怪物がハイドと組んで娼婦の肉体を盗みモロー博士の獣人とプレンディックを使役して花嫁の復活を目論む――という筋の通った物語を作りあげているのは見事でした。(見事ではありますが、これも二重のパスティーシュの常として、物語が原典の型にはまってしまってこぢんまりしてしまっているという点もないとは言えません)。
驚くべきはシャーロック・ホームズ&ドクター・ワトスンの活躍です。てっきり特別出演的なゲストキャラかと思っていたのですが、最初から最後までメアリたちと共にしっかり活躍していました。ヴィクトリア朝時代にあって、メアリを女としてではなく一人の人間として扱おうとする存在だというのも一つの理由でしょう。独り立ちしようとするメアリもまた、ホームズの観察眼や推理法を目にして、師に対するように学ぼうとします(p.91ほか)。
序盤のうちはワトスンがメアリに気があるような描写もあり、ワトスン夫人と同じメアリというファースト・ネームなので「実は……」という仕掛けなのかと勘繰っていたのですが、メアリはワトスンへの恋愛感情ではなく上記のようにホームズへの敬意を抱き始め、最後にはワトスンはベアトリーチェに気があるように書かれていました。さすが女好きなワトスンです。
原題となっている「The Alchemist's Daughter」ですが、「自然淘汰ではなく、変成突然変異こそが進化の主因なのだ。神は錬金術師であって、シニョーレ・ダーウィンのようなのろのろした漸進主義者ではない」(p.115)というラパチーニの手紙と、恐らくはそうした思想に基づくのであろう秘密結社「錬金術師協会(Société des Alchimists ソシエテ・デザルキミスト)」(p.150、p.152他)が由来です。つまり「錬金術師の娘」とは実験で生み出された怪物娘を指すことになります。「変成突然変異(Transmutation)」とはダーウィン以前に唱えられていた進化論の一つであり、「Transmutation」には錬金術用語で「卑金属の金への変成」の意味もあるそうです。
ひとまずの解決は見ましたが、錬金術師協会の目的は不明のままですし、ジキルとして死んだはずのハイドが生きていた事情(トリック)も明らかにはされていません。物語の最後でメアリたちは自分たちを「アテナ・クラブ」と名づけました。本書を第一作として〈アテナ・クラブの驚くべき冒険〉シリーズ三部作がすでに書かれているそうなので、二作目三作目で錬金術師協会とアテナ・クラブとの因縁の対決が描かれることになるのでしょう。
ところで身長はフィート表記なのに体重はキロ表記(p.87)なのはなぜなのでしょうか。確かにフィートと比べるとポンドを目にする機会は少ないので直感的にわかりづらいのは間違いありませんが。
ヴィクトリア朝、ロンドン。父に続いて母を亡くした令嬢メアリ・ジキルは、母が「ハイド」という人物に毎月送金をしていたことを知る。ハイドというのは殺人容疑で追われているあの不気味な男のことだろうか? メアリは名探偵シャーロック・ホームズと相棒ワトスンの力を借りて探り始めるが、背後には謎の集団〈錬金術師協会〉の企みがあった。調査するうちメアリが出会ったのは、ハイドの娘、ラパチーニの娘、モロー博士の娘、フランケンシュタインの娘といった“モンスター娘”たち。彼女たちは力をあわせ、謎を解き明かすことができるのか? さまざまな古典名作を下敷きに、一癖も二癖もある令嬢たちの冒険を描くローカス賞受賞作。(裏表紙あらすじ)
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