『シャーロック・ホームズの帰還』アーサー・コナン・ドイル/延原謙訳(新潮文庫)★★★☆☆

シャーロック・ホームズの帰還』アーサー・コナン・ドイル延原謙訳(新潮文庫

 『The Return of Sherlock HolmesArthur Conan Doyle,1905年。
 

「空家の冒険」(The Adventure of the Empty House,1903)★★☆☆☆
 ――ロナルド・アデヤ卿殺害事件の調書を読むにつけても、シャーロック・ホームズの死がいかに社会の損失だったかを感じた。夕方、事件のあった家を見に行ったときにぶつかってしまった愛書家の老人が、訪ねてきた。本を拾ったお礼とぶしつけな態度を詫びたその老人に言われて本棚を眺め、振り向くとそこにホームズがいた。ホームズはモリアーティとの顛末と自分の命が狙われていること、アデヤ卿事件に一味が関わっていることを語ったのだった。

 元々『思い出』で死んでしまったはずのホームズを生きていたことにするのだから無茶な内容ではあります。ホームズ自身も、路上から狙撃されると考えていたから路上に警官を配置しておいて自分は向かいの家の窓から見張るという、わけのわからないことをしています。そうは言ってもモーラン大佐という悪役はひときわ記憶に残っていますし、あの直接対決の緊迫感はさすがというほかありません。また、ホームズがワトソンを驚かせたり蠟人形を仕掛けたりといったノリノリなのも健在でした。
 

「ノーウッドの建築士(The Adventure of the Norwood Builder,1903)★★★★☆
 ――真っ青な顔をした青年が飛び込んできた。「私が問題の、不運なジョン・ヘクター・マクファーレンです」。といってもこっちはいっこう覚えがない。「ノーウッドのジョナス・オールデカー氏殺害の容疑で逮捕されそうなんです」。新聞によると、昨夜オールデカー氏の材木置場から出火し、焼跡から黒焦の死体が見つかった。オールデカー氏の姿が見えず、訪問客が忘れていったステッキの握りからは血痕が発見された。マクファーレン青年は氏と面識がなかったが、若いころ両親に世話になったから財産をマクファーレンに遺したいということだった。

 新潮文庫版では『叡智』所収。わたしがどうしてこの作品が好きかというと、現在進行形で事件が起こっているタイプの作品が好きだから、というのがあります。警察は気づいていない手がかりに探偵だけは気づいているというパターンに、進行中の事件に犯人が余計な手を加えてしまったという型が組み合わされているのもポイントです。いわゆるトリックが扱われているのはホームズものでは意外と珍しいと思います。
 

「踊る人形」(The Adventure of the Dancing Men,1903)★★★☆☆
 ――「すると君は、南ア株へ投資しないんだね?」。ホームズの説明を聞いて拍子抜けした私に、ホームズは紙片を放って寄こした。わけのわからぬ人形がならんでいた。「なんだこれは?」「ヒルトン・キュビット氏もそれを知りたがっているのさ」。キュビット氏は昨年知り合ったエルシーという婦人と恋に落ち、「私の過去についてはいっさい申しあげられません。それでよければ」というエルシーの言葉に同意して結婚した。それが一週間前、窓敷居の上に踊り人形が描かれいるのを見つけた。そして昨日の朝、日時計の上にあったこの紙切れを見て、エルシーが卒倒してしまった。

 ワトスンの心を読むホームズが印象的です。暗号自体は単純なものですが、「子供の悪戯画」のような棒人間型のコミカルな人形には、一度見たら忘れられない味があります。一方そうした牧歌的な暗号とは裏腹に、事件は悲劇的な結末を迎えます。ホームズの失敗と言っていいでしょう。犯人は紛う方なきクズなのですが、恋愛がらみの犯罪に寛容なのがワトスンらしい(ドイルらしい)と思います。
 

「美しき自転車乗り」(The Adventure of the Solitary Cyclist,1904)★★☆☆☆
 ――ヴァイオレット・スミス嬢を知ったのは一八九五年のことだ。「父が亡くなり母と二人で貧しく暮らしていたところ、二十五年前アフリカに渡った叔父が亡くなり、本国の親戚が困っていれば面倒を見てくれるように言い遺したといいます。叔父の友人のウッドリーさんというのがいやらしいかたで、もう一人カラザーズさんは一人娘に音楽を教えてくれたら年百ポンド出すとおっしゃってくださいました。毎週土曜日に自転車で駅まで参ってロンドンへ帰ることになったのですが、寂しい場所を通りかかったおり、ふと後ろを見ると顎鬚の中年男が自転車に乗って尾けて来るのに気づきました」

 タイトルが大事だなあと思うのは、この作品は「花嫁失踪事件(独身の貴族)」や「ボスコム谷の惨劇」と同じくらい印象の薄い作品なのですが、ちゃんと自転車の話だと覚えていたところです。当時一人で自転車に乗るくらいですからスミス嬢は活動的で勝気な女性であり、それがために事件が起伏に富むものになっている感はありました。
 

「プライオリ学校」(The Adventure of the Priory School,1904)★★★★☆
 ――前内閣閣僚ホールダーネス公爵のたった一人の令息サルタイヤ少年が誘拐された。依頼人のハクステーブル博士が校長を務める進学準備校プライオリ学校から夜中のうちに姿を消したのだ。すぐに点呼を取ったところ、ハイデッガーというドイツ人教師と自転車一台も消えていた。身代金の要求もなく、街道に目撃者もいなかった。世間体を気にする傲岸な公爵ではあったが、捜査継続を認めた。だが逃走経路に犯人の形跡はなく、牛の足跡しか見つからない。

 タイトルも事件も地味なためタイヤ痕のことしか覚えていなかったのですが、ホームズ譚には珍しい、ロジックを積み重ねてゆくタイプの作品でした。少年と教師の服装の違いから失踪時の状況を推理し、自転車が使われていることから少年の逃走状況を推理し、被害者の殺害状況から少年以外の犯人像を推理し……という風に、トントン拍子に推理していきながら、肝心のその犯人の痕跡がないという状況は魅力的です。牛の足跡はミステリのトリックだと思えばしょぼいのですが、歴史ものだと思えば興味深いです。ケレンの強いホームズによる犯人指摘や、ホームズらしからぬ締めの台詞(精一杯の皮肉でしょうか)など、実は結構見どころのある作品でした。
 

「黒ピーター」(The Adventure of Black Peter,1904)★★☆☆☆
 ――朝食を食べていると、ホームズが大きなやりをかかえて戻ってきた。「どうしたんだ、ホームズ!」「肉屋へ行ってきたのさ。おかげでひと突きでは豚を刺し通せないのがわかったよ」。そこに若いホプキンズ警部が訪ねてきた。「ホームズさん、手を貸してください」「ちょうどよかった。ところで現場にあった煙草入れをどう思う?」「被害者のものです。頭文字が入ってます」。被害者はその危険な気質から黒《ブラック》ピーターと綽名されていた元船長だった。胸のまん中を銛が貫いて、背後の羽目板にまで突き刺さっていた。

 初登場の『緋色の研究』もそうでしたが、ここで実際に銛で突いて確かめようとするのがホームズにしか出来ないところです。基本的に行動の人であり、そこがホームズの魅力でもあります。「グロリア・スコット号」のような犯罪者同士の因縁が扱われていますが、被害者も加害者もどちらも救いようのないクズであったり、殺害現場が凄惨で血塗れであったりと、ユーモラスな冒頭とは裏腹に胸糞悪い話でした。
 

「犯人は二人」(The Adventure of Charles Augustus Milverton,1904)★★★★☆
 ――散歩から帰ってきたホームズは、テーブルの名刺を見るなり投げすてた。「誰なんだい?」「ロンドン一悪いやつ、恐喝の王者なのさ」「どうしてここに?」「ある高名の婦人が処置を僕に一任してきたからさ」。やがてその男が部屋に入ってきた。「エヴァ嬢の代理だとおっしゃると、条件を承認なさったのですな」「条件とは?」「七千ポンド」「応じない場合は」「結婚はお流れになるでしょう」。ホームズはミルヴァートンが帰ったあとも身うごきせずにいたが、三十分後には若い労働者に変装して出かけていった。「ワトスン君、今晩僕はミルヴァートンの家へ盗みにはいるつもりだよ」

 邦題は新潮文庫版独自のもので、ほかの訳本では「恐喝王ミルヴァートン」「チャールズ・オーガスタス・ミルヴァートン」等となっています。ホームズが何も出来ないどころか不法侵入に結婚詐欺と法まで犯してしまう異色の作品で、圧倒的推理力も脅迫の前では無力だったようです。脅迫でこそありませんが、「ボヘミアの醜聞」でも解決のためには写真を取り戻すしかなかったことを思い出します。ただし「ボヘミア」には奪取方法にも機知があったのに対し、この作品の場合は力ずくです。それでも面白いと感じるのは、ミルヴァートンの堂々たる悪役っぷりや、夜中の侵入が冒険ものとしての魅力を遺憾なく発揮していることや、謎の貴婦人の気高さや、レストレードへの台詞に見えるユーモアなど、記憶に残る場面が数多くあるからでしょう。
 

「六つのナポレオン」(The Adventure of the Six Napoleons,1904)★★★☆☆
 ――警視庁のレストレード君が夜分に下宿へやってきた。「これはワトスンさんの領分かもしれません」「というと?」「精神病ですね。ナポレオン一世をにくむあまり、かたっぱしから石膏像を壊してまわってるんです。最初は店先の像がやられました。次に医者の自宅と分院がやられました」。翌朝、レストレードから電報が届いた。ナポレオン像をめぐってとうとう殺人事件が起こったのだ。身元不明の男のポケットからは、一枚の男の写真が出てきた。

 偏執狂だからといって胸像のある場所がわかるはずがない、だとか、庭まで来て壊しているのは壊すのが目的ではなく街灯のある場所まで運んで来たのだ、など、この作品のホームズにはロジカルな魅力があります。一方で真相披露の場面では芝居っ気のあるお茶目なホームズも見られます。派手さはないけれどホームズの魅力がコンパクトに詰まった作品でした。
 

「三人の学生」(The Adventure of the Three Students,1904)★★☆☆☆
 ――ある有名な大学町で数週間を過ごしていると、カレッジの教官ヒルトン・ソームズ君が訪ねてきた。「奨学金試験をあすに控え、ギリシャ語の試験用紙のチェックをしていて、テーブルの上においたまま席を外しました。むろん部屋の鍵はかけていきました。ところが戻ってみるとドアに鍵がさしこんであります。召使のバニスターのものにちがいありません。お茶を出しに来てそのまま忘れてしまったという話です。そろえてあった試験用紙の校正刷りが動かされていました。誰かがしのびこんで大急ぎで問題を書き写して芯を折ったらしく、削り屑が落ちていました。穏便に処理するのが私の希いです。スキャンダルは避けたいのです」

 『叡智』収録。複数の怪しい容疑者たちのなかから真犯人を探すというのは、今や謎解き小説では定番中の定番ですが、ホームズ譚では珍しいです。それでもドイルはあからさまに怪しい学生を登場させたりして、しっかりと勘所を押さえているのはさすがです。それだけに今の目で見ると型通りで面白味の乏しい作品となってしまいました。動機や犯行機会の面からではなく、犯行を決意する機会の面から犯人を特定しようとするホームズの視点がユニークでした。
 

「金縁の鼻眼鏡」(The Adventure of the Golden Pince-Nez,1904)★☆☆☆☆
 ――前途を期待されているスタンリー・ホプキンス警部の訪問を受けた。「どこが頭やら尻尾やらさっぱりなんです」数年前に越して来たコーラム教授は病弱なため一日の半分を寝床でくらし、あとの半分を杖や車いすで邸内をぶらついて過ごしていた。近所からの評判はよかった。著作のために雇った秘書ウイラビー・スミス青年が、今朝、書斎で殺されていた。女中が発見したとき、スミスは「先生、あの女です……」と言い残して事切れた。

 現場から犯人が消えるというシチュエーションは「海軍条約文書事件」と同様ですが、あちらはなぜ犯人はわざわざ呼び鈴を鳴らしたのかという謎があったのに対し、こちらにはそうした魅力は皆無です。鼻眼鏡から持ち主を推理するというのもやはりトンデモでしょう。アメリカや戦争の因縁はホームズものではお馴染みのものですが、本篇はロシアの革命主義者の因縁というのが異彩を放っています。教授や犯人を醜怪な容貌の持ち主として描いているのは、ロシアや革命に対するドイルの偏見が表れているようにも感じられます。それにしても犯人は一方的にピーチクパーチク言いたいことだけを言って勝手に退場してしまいました。わたしの持っている版ではホプキンズが「探偵」となっていますが、恐らく「刑事(detective)」の間違いでしょう。延原謙の解説では「第一の傑作といまでも推す人がある」と書かれてありますが、そうなのでしょうか?
 

「スリー・クォーターの失踪」(The Adventure of the Missing Three-Quarter,1904)★★★☆☆
 ――ホームズをものの十五分も考えこませたのは、「スリー・クォーターガ失踪シタ」という電報だった。差出人はケンブリッジ大学ラグビーチームキャプテン、シリル・オヴァートン。ところがホームズは失踪したゴドフリー・ストーントンの名前もキャプテンの名前も聞いたことがなかったのだ。ホームズがストーントンの部屋を調べていると、伯父のマウント・ジェームズ卿が現れた。探偵なんぞに払う金など無いと邪険にされるも、ホームズは部屋に残された吸取紙から、ストーントンが電報を出した相手を突き止める。だがレスリー・アームストロング博士もホームズを追い払おうとするのだった。

 『叡智』収録。ホプキンズが名前のみ再登場。事件をホームズに押しつけてます(笑)。マウント・ジェームズ卿とレスリー・アームストロング博士という、傍若無人で個性的な老人二人が登場して、どちらが悪役なのかがわかりません。結果は、一人の老人【※マウント・ジェームズ卿】がこのキャラだからこそ起こった悲劇でした。真相は許されぬ恋と悲恋というロマンチックなものだったのですが、冒頭の謎が失踪という地味なものであり、失踪したスリー・クォーターも存在感がなく、悲しいかな印象に残らない作品でした。『四つの署名』以来の犬を使った追跡だけは覚えていました。
 

「アベ農園」(The Adventure of the Abbey Grange,1904)★★★☆☆
 ――ホプキンズから応援の手紙が届いた。ケント州でサー・ユーステスが殺された。十一時過ぎまで本を読んでいた夫人が寝む前に部屋の見回りをしたところ、侵入者に殴られ気を失ってしまった。気づくと椅子に縛られ猿ぐつわを嵌められていた。物音に気づいたらしいサー・ユーステスが現れて棍棒で殴りかかったが、賊の一人に火かき棒で反撃され死んでしまった。夫人はそこで再び気を失ったという。夫人の話では、賊はどうやら巷を騒がせている三人組のランドール父子のようだ。

 読み返してみると、被害者の夫人がいきなり夫批判をしているので驚きました。これでは怪しさ満点ではありませんか。今の目から見ると、自分で若い男を捨てて社会的地位のある男と結婚しておいて何を言っているんだという感じですが、当時としては仕方のないことなのでしょう。相変わらず恋愛には甘いドイルです。三脚のワイングラスや白鳥の池、椅子の血痕、腕の跡からの身長推理など、迷推理も含めて印象的な推理がいくつもありました。「金縁の鼻眼鏡」では前途を期待されていると書かれていたホプキンズ警部が「スリー・クォーターの失踪」に続いて再登場していますが、なぜか間抜けな役回りになっています。
 

「第二の汚点」(The Adventure of the Second Stain,1904)★★☆☆☆
 ――とある年の秋の火曜日の朝、二度まで総理大臣をつとめたベリンジャー卿と新進政治家の雄ヨーロッパ省大臣のトリローニ・ホープ伯爵がベーカー街の部屋へ訪ねてきた。ある外国君主が書いた挑発的ともいえる内容の書簡が紛失したという。ヨーロッパの現状を考えれば、スパイを通じて反同盟国に渡れば、イギリスも大戦に引きずりこまれるだろう。果たしてホームズが目を付けていたスパイが殺害される事件が起こった。

 この作品といい「海軍条約文書事件」といい、揃いも揃って防犯意識が足りない人たちです。政府や国際情勢にとって重大な事件でこそありますが、文書紛失の状況に謎めいたところがないため面白味はさほどありません。しかも動機が色恋沙汰と恐喝というしょぼさです。ドイル的には国際的な重大事件でホームズの退場に花を添えるつもりだったのかもしれませんが、成功していません。その試みは「最後の挨拶」で実を結ぶことになるのでしょう。

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