『悪魔のような女』ボアロー、ナルスジャック/北村太郎訳(ハヤカワ・ミステリ文庫)★★★☆☆

悪魔のような女ボアローナルスジャック北村太郎訳(ハヤカワ・ミステリ文庫)

 『Celle qui n'était plus』Boileau-Narcejac,1952年。

 映画『悪魔のような女』の原作。シャロン・ストーンによるリメイク版に合わせての文庫化だったようで、表紙や袖に映画のスチール写真が使われています。

 訳書のタイトル『悪魔のような女』は映画版『Les Diaboliques(リメイク版 Diabolique)』によるようで、原作タイトルは「もう存在していなかった女」ですが、この半過去形は不在が確定していない状態を表しているのでしょうか。加害者に焦点を当てている映画版と被害者に焦点を当てている原作のタイトルの違いが興味深いです。

 物語はコテコテの三角関係から始まります。冴えないセールスマンの夫とその愛人である理知的で野心的な女医が、邪魔者である妻に保険金を掛けて殺そうとする話です。

 正直なところ序盤はかなり退屈です。そもそもがコテコテなうえに、フランス風のそぎ落とされた会話、小心者でうざったい夫ときては、読んでいてげんなりしてしまいました。

 ただしそれも事件が起こるまでです。

 フェルナン・ラヴィネルは妻のミレイユに睡眠薬を飲ませて浴槽で溺死させ、アリバイを作ったあとで事故に見せかけて死体を川に落とし、あとは死体を発見させて保険金を手に入れておしまい――のはずでした。

 ところが何と、その死体が消えてしまいます。

 ここで小心者の夫という設定が生きてきます。疑心暗鬼と妄想でパニックになり、死者の影に怯えたかと思えば、愛人のリュシエーヌに泣きついたり、動揺して近所の人々に対して余計な行動を取ったりと、とにかく感情のほとばしるままにあたふた狼狽しているので、読んでいる方も同じように心臓がばくばくしてしまいました。衝動的に拳銃を手にした直後、幽霊相手に拳銃でどうするのかと我に返ったりといった、パニック描写がとにかく巧みです。

 これだけなら小心者の単なる妄想の可能性も高いのですが、著者はその辺りも抜かりはありません。殺害決行後に出された妻からの手紙が届いたり、妻の兄が死んだはずの妻と会って話をしていたり、妻が甦った(もしくは幽霊が出現した)としか思えない傍証が出てくるのです。

 結局のところは小心者であることを利用された夫の一人相撲みたいなものなのですが、一人パニクる主人公による焦燥というのはサスペンスの王道でした。【※ネタバレ*1

 そして最後の一文。夫婦そろって心が弱いなあと感じたところへ、リュシエーヌの悪魔ぶりに戦慄しました。

 最初のポケミス版の刊行が1955年(昭和30年)の発行なので、とにかく訳が古いです。p.11「たいてい、まいっちゃうよ」というのに関しては、おそらく当時は「たいてい」のこういう使い方があったのでしょう。p.51「元気かい、きみの家では?」となると、なぜ家限定?と思ってしまいます。p.183「ラヴィネルはもう少しで所員をやりこめてやるところだった」も意味不明です。死体の行方を知りたいながらも不審がられるのではないかと怯えているフェルナンが、モルグの所員に冷たく対応された場面ですが、フェルナンはこんな強気な人間ではありませんよね。p.195「お家を拝見しましょうか?」もよくわかりません。拝見というからには、フェルナンではなく探偵の台詞なのでしょうけれど、「ではお家を拝見するといたしましょうか」のようなニュアンスなのかなあ? ほかにも、特に会話はとんちんかんな場面が多かったです。昔の翻訳はこういうふうに、文脈を読み取れてなくて機械的に訳しているだけのものがたくさんありました。

 自殺と見せかけて妻を殺し、莫大な保険金を欺し取る――その戦慄の計画を考えついたのは、ラヴィネルの愛人の医師リュシエーヌだった。しがないセールスマンのラヴィネルにとって、彼女と暮らすためには他に方法はない。完璧に練り上げた計画は成功した。しかし、その直後、想像もできない恐ろしい事件が……予測不可能なストーリー展開、あまりに衝撃的な結末。あらゆる恐怖の原点となった、サスペンス小説の不朽の名作。(カバーあらすじ)

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*1 愛人と協力した妻が死んだふりをして夫を自殺に追い込む。小心者の夫は死体をきちんと確認することもなく、保険金の受取人が誰かも確認せずサインしていた。もちろん手紙を出したのや兄と会話したのは本人。

*2 

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