『最後に鴉がやってくる』イタロ・カルヴィーノ/関口英子訳(国書刊行会 短篇小説の快楽)★★☆☆☆

『最後に鴉がやってくる』イタロ・カルヴィーノ/関口英子訳(国書刊行会 短篇小説の快楽)

 『Ultimo viene il corvo』Italo Calvino,1949年。

 カルヴィーノの第一短篇集から邦訳のあるものと趣が異なるものを除き、1958年の『短篇集』より「工場のめんどり」「計理課の夜」を加えた全23篇。前半は素朴な作品が続き、中盤は戦争もの、後半は大衆ものが占めます。
 

「ある日の午後、アダムが」(Un pomeriggio, Adamo,1949)★★★☆☆
 ――新しくやってきた庭師はまだ少年だった。マリア=ヌンツィアータは皿を濯いでいた手をとめて声をかけた。少年は顔をあげ、ほほえんだ。「名前は?」「リベレーゾ。いいもの見せてやろうか」「なあに?」「そこだよ」。蟇蛙だ。「なんなの、気持ち悪い」

 タイトルにアダムと謳いつつ無垢なる存在ではなく、自由という名も政治的な意味合いで名づけられたものであることがわかります。話が通じないという点では少年は完全にサイコパスであり、一方的な善意の押しつけはまさしくテロにほかなりません。当時のイタリアの政治状況が背景にあるとはいえ、いま読むとそう読めてしまいます。
 

「裸の枝に訪れた夜明け」(Alba sui rami nudi,1947)★★☆☆☆
 ――このあたりの冬は寒さより澄みきった空気のなかに感じられる。そんななか葉の落ちた枝に何百もの赤い電球が灯る。柿の実だ。マジョルカ男のピピンは毎朝自慢の八本の柿の木を偵察してまわり、実の数が減っていないか確かめた。

 抜け作文学はただでさえ苦手なのに、さらに訳者が苦手な関口英子でした。
 

「父から子へ」(Di padre in figlio,1946)★★★☆☆
 ――このあたりには牛は一頭しかいない。ナニンが飼っている一頭だけだ。道すがら目にするのはリボンを結んだ男児と花嫁衣装の女児ばかり。堅信式の日だった。息子にも娘にもおそおらく衣裳を着せてやれない。とんでもなく値が張るだろう。子どもたちが痩せっぽっちのナニンを見て囃し立てた。かつてナニンの父親も同じようにからかわれていた。

 貧しいからといって誇りを持って悪いわけではなく、けれどやはり誇りでは食えません。むろん誇りという格好いいものだけではなく、劣等感や憎しみや妬みも混ざった、きれいなものではありません。
 

「荒れ地の男」(Uomo nei gerbidi,1946)★★☆☆☆
 ――パチッチンが小屋から出てきて、僕が銃を構えているのを見ると、近寄ってきた。「野兎か、野兎か」「そうだ、また野兎だ」

 父と、少年と、間抜けによる、ちぐはぐな野兎狩り。
 

「地主の目」(L'occhio del padrone,1947)
 

「なまくら息子たち」(I figli poltroni,1948)
 

「羊飼いとの昼食」(Pranzo con un pastore,1948)
 

「バニャスコ兄弟」(I fratelli Bagnasco,1946)★★☆☆☆
 ――葡萄園に行くと、葉の陰から少年が顔を出した。兄が少年の髪を鷲づかみにし、僕は耳をつかむ。つきあたりから女が現れて喚く。「この卑怯者め! 子供に当たり散らすなんて」。僕らがとっとのその場をあとにすると、二人の男と出会った。「おい、どこからその薪を拾ってきた? うちの森から盗ってきたんだろう」「そもそもあんたら誰だ?」「バニャスコ兄弟だ」「ああ、因縁を吹っかけてくる兄弟か」

「養蜂箱のある家」(La casa degli alveari,1949)★★★☆☆
 ――遠くからですと容易に目につきませんし、一度来たことのある人でも道を憶えていませんから二度と来ることはできません。周囲の土地を耕すことはできたはずなのですが、私はそうはしませんでした。犬に番をしてもらう必要も、掛け金に頼る必要もありません。養蜂箱がぐるりと取り囲んでありますから、私以外の者は通り抜けられません。

 変人の一人語りだと思えたものが、強姦殺人者の言い逃れに変わります。
 

「血とおなじもの」(La stessa cosa del sangue,1949)
 

「ベーヴェラ村の飢え」(La fame a Bévera,1949)
 

「司令部へ」(Andato al comando,1946)
 

「最後に鴉がやってくる」(Ultimo viene il corvo,1947)★★★★☆
 ――少年が男から銃を奪い、水面に向けて一発撃つと、鱒が白い腹を見せて浮かんでいた。銃を撃つ楽しみを覚えた少年は、射撃の名手が欲しい男たちに請われるがままついていった。だがむやみと動物を撃つ少年の銃声を聞きつけて兵士たちが現れ銃弾を浴びせた。少年は兵士を一人ずつ撃ち始めた。

 鴉は死の使いであり、兵士が撃たれたから降りてきたのでしょう。兵士から見れば少年が銃弾を無駄撃ちしてくれる鳥は救いだったはずです。だからこそ最後にやってきた鴉に期待を掛けたのでしょうが、それは文字通りの最後でした。もちろん少年の側からは現実に存在しない鴉は見えるわけがありません。史実的には少年の側だったはずのカルヴィーノが、兵士の側から殺される瞬間を描き、兵士の立場で読者が読む。それができるのが小説の強みなのでしょう。
 

「三人のうち一人はまだ生きている」(Uno dei tre è ancora vivo,1949)★★★★☆
 ――捕虜は三人とも裸だった。村の衆は腰に武器を提げ、三人を山道伝いに歩かせて縦に深い洞穴の縁に立たせた。村の衆がめくら滅法に撃ちはじめ、一人がくずおれ、一人が転がり落ちた。最後の一人も落ちていった。だが死んだ様子はない。撃たれる前に飛び降り、仲間の死体が落下の衝撃を和らげてくれたらしい。村人たちは正式に銃殺刑にするために男を引き上げようとした。

 安全圏で読むときれい事というか、よくできた話にしか思えないのですが、死の瀬戸際から逃れてきたからこそ見える切実な景色というものは確かにあるのでしょう。捕虜の死を願う村人たちもまた一枚岩でなく各人各様の思いを抱き、死をも包み込むさらに大きい戦争という混沌を感じさせます。
 

「地雷原」(Campo di mine,1946)★★★☆☆
 ――ズアーヴ兵風のズボンを穿いた男は、老人の制止を聞かずに地雷の埋まっている危険のある峠を越えようとした。マーモットがいるということは……地雷の埋まっていない証だ……それは筋の通ってない論理だ。途端に恐ろしくなった。別のルートを探すべきだ。

 現にある地雷を前にしていくら自分を鼓舞しようと何の意味もないのですが、せずにはいられない気持も理解できます。どんな状況であれ理知的な判断ができる人などごくわずかなのが現実です。
 

「食堂で見かけた男女」(Visti alla mensa,1947)★★★★☆
 ――女は田舎の未亡人だった。そこへくたびれた様子の老人がやってきて、相席の許しを請うた。成り上がりの女は、かつて金持ちだった男の声を無視した。かすかな笑いを浮かべて、ウエイトレスに「ワイン」と言った。老人に羞恥心か見栄が働いたのかもしれない。「わたしにもワインを頼む!」と言った。老人は未亡人の食べ物に包囲されていた。

 非礼な人間に対する対抗手段が過去の栄光しかないのが哀し過ぎます。それでも怒りを飲み込んで努めて落ち着いて振る舞おうとする老人が紳士なのでしょう。女と男、働き盛りと老人、金持ちと元金持ち、闇商人と元兵士、何もかもが正反対でした。
 

「ドルと年増の娼婦たち」(Dollari e vecchie mondane,1948)★★☆☆☆
 ――「フェリーチェの店にアメリカ人が六人来ているぞ。急げ」エマヌエーレとイオランダ夫妻は米ドルで闇商売をしているので、水兵たちにドルを売ってもらうつもりだった。カウンターのむこうのフェリーチェに通訳を頼んだが、「自分で言えばいいだろう」と言われてしまった。イオランダは兵士たちに囲まれてしまった。「プリーズ、あたし、リラ……あんたたち、ドル」。「おれ、ドル、きみに。きみ、おれと、ベッドに」

 米兵相手にリラと米ドルを両替してもらおうとする夫婦が娼婦と間違われて右往左往する不条理、もといドタバタ喜劇……のはずが、うまく行っていません。恐らくはカルヴィーノのせいではなく訳者のせい。光文社古典新訳文庫もこの訳者のユーモア作品は苦痛でした。
 

「犬のように眠る」(Si dorme come cani,1948)
 

「十一月の願いごと」(Desiderio in novembre,1949)
 

「裁判官の絞首刑」(Impiccagione di un giudice,1948)★★☆☆☆
 ――裁判官オノフリオ・クレリチは自分が人々から憎まれていることに気づいていた。イタリア人というのは忌まわしい民族だ。いないほうがいい。当時担当していたのは、先の戦争の際にイタリア人を捕らえて銃殺刑に処するよう命じていた男たちの裁判だった。被告人の主張を聞くにつけ、確固たる理念を持った尊敬すべき人物であると思った。

 庶民を蔑んでいた裁判官が選民意識による正義に基づき判決を下していたが、やがて自らが裁かれ絞首刑に処される話。
 

「海に機雷を仕掛けたのは誰?」(Chi ha messo la mina nel mare ?,1948)★★☆☆☆
 ――財政家ポンポーニオが屋敷で客たちとコーヒーを飲んでいると、〈磯のバチ〉と呼ばれる老夫が海の幸を売りにきた。「そっちの籠にはなにが入っているのかね?」「なんでこんなもんを海に投げ込むのかさっぱりわかりません。だから拾ったんです」「機雷じゃないか!」パニックになっているうち老夫は姿を消してしまった。密売人が老夫を見つけ、うまい話を持ちかけた。

 これもドタバタ喜劇の系譜に連なる作風の作品で、最後は機雷を爆発させて死んだ魚を採りまくるという大団円でした。
 

「工場のめんどり」(La gallina di reparto,1954)★★☆☆☆
 ――警備員のアダルベルトは一羽のめんどりを飼っていた。許可を得て工場の中庭で飼育していた。品質検査員トンマーゾはひと目でめんどりの生産能力を見抜き、卵を産ませようとした。旋盤工ピエトロはトンマーゾの術策に気づき、めんどりを誘いこもうとした。

「計理課の夜」(La notte dei numeri,1958)★★☆☆☆

 最後の二篇は別短篇集から追加されたものですが、作風もほかの作品とは違うし、なぜわざわざ収録したのかわかりません。

 [amazon で見る]
 最後に鴉がやってくる 短篇小説の快楽 


防犯カメラ