「貴賤なき宇宙の素潜り」古川日出男×吉増剛造
「Pink Dog」という詩に過剰に反応する吉増氏が面白い。「pink」と書かれると、ただ単に赤裸で剥き出しというよりも、皮膚がめくれて肉が剥き出しになっているような印象を受ける。人間の皮膚を一枚一枚めくっていけば、中心にあるのは骨――つまり骨こそが最も剥き出しの状態であるはずなのだけれど、そういう物理的な位置関係を超えたところで、「pink」という言葉には、肉が剥き出しになった状態こそ本当の剥き出しだという気持にさせる力がある。
「川、川、川、草書で」古川日出男
――草書。それは最も疾走している書体だ。地形もまた、不安定な草書で書かれている。
走っている、とはつまり、一箇所に留まっていないということ。だからここでは、町も地形も、蜃気楼のようにゆらぎ移り変わっている。町とは違い、現実の世界でも川は走っている。だから川とは最も不安定なものの名前。「中洲のセントラル」と語られることで、この「川」とは、川そのものであるというより、東京の最も不確かな部分の別名だということがわかる。確固たるものが正しいとは限らない。確固たるものがあるという考え方こそ、不確かな幻想かもしれない。
「評論」巽孝之・豊崎由美・他
すべて読み終えてから思えば、さすが巽・豊崎両氏の文章は安心して読める。
大和田俊之「アンダーワールド」は、せっかく古川文学と地下世界という面白い視点を持ち込んでいるのに、地下は時間が違うだのフロイトの無意識の層だの、別に古川作品にじゃなくても誰の作品にでも言えるようなことしか言ってないのががっかり。
中俣暁生「この街のすべてがポップなゴミでできていることは、なんてつまらなくも素敵なことだろう」ですぜ。今どきこんな恥ずかしくて気持ち悪いタイトルつける人がいたとは……。内容云々よりも、ビートルズと寺山修司が同時代だったということにびっくりした。なぜかビートルズってものすごく昔というイメージがあった。寺山は死んで、ポールとリンゴはまだ生きてるのにね。ビートルズというと父親世代というイメージがあるからだろうか。ひるがえって父が寺山修司を読んでいるというのは想像できない。
「インタビュー古川日出男のカタリカタ「雑」の力を信じて」古川日出男/聞き手・内田真由美
作品ごとにインタビューがまとめられているので、すごく読者に親切。けっこうあからさまに打ち明けてくれています。これを読んで、『アラビアの夜の種族』が『ウィザードリィ』からスピンオフした作品だと知ったし、『ロックンロール七部作』が『ベルカ』の続篇にして二十世紀の歴史をロックで語り直した作品だとわかったし、ライバルは聖書っていう力の入れようがただ者じゃない。
「予告篇による二〇世紀」で斎藤環が書いている、手塚治虫の叙述トリックってのは、漫画ならではの叙述トリックだよね。文字どおり古くさいミステリのなかには、文章でもこういうトリックを使っている怪凡作があるけれど。論文中で斎藤氏が「マクガフィン」に触れているけれど、本誌インタビューで古川氏自身が『サウンドトラック』の箇所で似たようなことをおっしゃってました。
古川作品のリズムというと、音楽にルーツがあるのかな、と思いがちだけれど、小沼純一「指/声のホケトゥス」では、パソコンとキーボードをリズムの源に仮定しています。
pola「Arabian Nightmare」みたいに、作品とは無関係に細部だけを誤読していくような評論は好きじゃない。作者の狙いにないことは不正解、だなんてことは言わないけれど、だからといって作品から離れて単語レベルで自慰していてもしょうがない。こういう人にとっては、看板の文字もシェイクスピアのセリフも、おんなじレベルで楽しめるんでしょう。
虹釜太郎「もはや人間ではないウィザードリィ・ブースター・キッズの殺戮目的」は、二十世紀をロックで語り直した古川作品を、サッカーとゲームで語り直そうとする野心的な試みかと思いきや……。中俣暁生のタイトルもそうだったけど、虹釜氏の文体も、今どきこんな……っていう古くささ。こういうのをかっこいいと思ってるのかな?
これは古川日出男特集ではありません。二人がそれぞれ旅日記を詩で書くといったような作品。二人がまるで別の世界に旅行していたみたい。現実とは人によって幾通りも存在するのだということを実感する。という点では、あながち古川日出男特集と無関係でもない。レプリカとしての世界。
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