『名短篇、さらにあり』北村薫・宮部みゆき編(ちくま文庫)★★★★★

 姉妹編『ここにあり』がいまいちだったのであんまり期待していなかったのだけれど、こちらは好みに合う作品が多かった。もともと好きな作家はともかく、名前すら知らなかった著者の作品が当たりだったのは、アンソロジーを読んでいてとても得した気分になれます。解説対談で宮部氏が(たぶんわざと)深読みし過ぎたりとんちんかんなことを言ったりして、それを北村「先生」がそれとなく軌道修正するやり取りも、読者に親切だし面白い。

「華燭」舟橋聖一 ★★☆☆☆
 ――只今、御指名に預かりました日熊でありますが、本夕は名だたる朝野の名士が、ずらりと並んでおいでになる真ン中で、私のような末輩者が立上って何かお話を致すということは、まことに僭越きわまることと……。

 オヤジのスピーチ(といってもまだ若いんだろうけど)のくどさつまんなさを皮肉っている以上、作品のギャグやユーモア自体もオヤジ臭いものになってしまうのは致し方のないことなんだろうけれど……う〜ん、難しいな。こういうのを面白いと思う著者の感性自体をオヤジ臭いと感じてしまった。
 

「出口入口」永井龍男 ★★★★☆
 ――通夜の日の夕刻から雪になった。六時から会社関係の人間が一しきり続々と詰めかけた。八時になると、常務が形通りの挨拶をして、通夜は終った。常務が玄関まで出た。「おい、お靴を」社員が、土間にいる者に声をかけた。「……それが」

 著者のエッセイは大好きなんだけれど、小説を読むのは初めて(のはず)。こんなことが一大事件になってしまうサラリーマンの悲しさである。たかが靴、されど靴、靴を間違えるような「鈍感な奴はうちの社にはおらん」と能力問題にされてしまったり、靴を間違えたと疑われて「課長らしくない扱いを受けた」と不愉快になったり。ウールリッチにホテルを舞台にした小説がありましたが、あれはホテル自体が主役であると同時に、そこを訪れるさまざまな人たちの人生模様が描かれていました。「出口入口」たる玄関も、さまざまな人が行き交う場所。一足の靴から、俗人たちの人となりが見えてしまうのです。

 季節感をとらえたさりげない冒頭などに、名文エッセイを彷彿とさせるところがあります。雪が降っていて、しかも靴の話なのに、足跡に関する記述が一箇所もなく、それらしき描写のあるころには雪の方がへたっているのが印象的です。(というより東京の三月の雪じゃ積もらないのかな?)
 

「骨」林芙美子 ★★★★★
 ――骨を返してくれッて、おかしい事もあるものだわ。――戦犯大臣が死刑台で死んだあと、その骨を貰いたいと夫人が嘆願していると云うことを新聞で見たけれども、道子はそれを見て、急にわあっと声をたてて泣きたくなっていた。冷たい雨夜の街に出て、道子は男を拾うのだ。

 至るところに凄みのあるうえに、内容とは一見関係がないようなところにも凄みがあって、かえってそちらの方が印象に残ってしまった。「絵本にはサンタクロスの絵が子供の夢と慾をそそるように描いてある」。身も蓋もない真実を端的かつ的確に表現しているこの文章を以って、これがこの作品に描かれていることだ、と言ってしまうのもあながち強引ではないかもしれません。
 

「雲の小径」久生十蘭 ★★★★★
 ――旅客機自体が混濁したものの中に沈み込んでしまい、うごめく雲の色のほか、なにひとつ眼に入るものもない。香世子が形容する死後の世界の風景にそっくりで、白川は「ひどく、しみじみとしてやがる」とつぶやいた。死んだ香世子の霊と交遊するように……というよりは霊愛に耽けるようになったのは、もう三年前のことである。

 幽霊やあの世を信じるのは、飽くまで生きている人間なのだな、という感じで話は進んでゆきます。霊魂や鬼っ子との会話を通して、語り手がどんどんどんどん一つの方向に誘導されてゆく(というかそう思いたがっているというか)。それでもオカルトじみていないのは、ひとえに「霊愛」という趣向によるものでしょう。室生犀星の「蜜のあはれ」を思わせるような、小悪魔的美女とおじさまの会話が軸になっているので、いっそう〈男の願望が見せた幻〉的な雰囲気が募って、切なくて寂しい。そして最後に、素っ気なく思えるほどの最後の切れ味が久生十蘭ならではです。
 

「押入の中の鏡花先生」十和田操 ★★★★★
 ――ながいあいだしないでごまかしてきた春期清潔大掃除というものを、やってみる気になった。畳は畳屋へ運んでもらい、押入の中の整理清掃をはじめることにした。一束の文穀の上に「父よりの分」としてあるのがあらわれてきた。……それはそうと、どうだ。文学修行とやらは。その許は泉鏡花の邸を訪れて会見した筈だが、それ以来やはり同氏の門へ出入りしているのか。

 まったく未知の作家でしたが、ものすごく面白い。大掃除の話から、「女房と畳は……」という話になるのだけれど、その話があまりにテンポ良く面白いので、本筋である掃除の話に戻ったとき、逆に「あれ、何の話だったっけ?」と思ってしまった。「自分のくせに押入に入って」という子どもの言葉遣いを初めとする言葉選びの妙、「なむあみだぶつ」の二度目の繰り返しを「なむあみだんぶ」と書く絶妙のセンス、「二兎を追うのは猪を獲んがため」というへんてこりんな理屈など、鏡花の名に惹かれて読みましたが、鏡花なしでも存分に楽しめました。

 畳を裏返すってのは畳の表のイグサを裏返して張りかえることなのだと初めて知った。ハズカスィ。
 

「不動図」川口松太郎 ★★★☆☆
 ――石井鶴三の個展最終日に、未着だった「不動図」が運ばれてきた。一目見るなり気に入って、「買うよ買う」と画商に向かっていった。然し未完成というから一旦石井さんへ戻した。その頃から作家的に忙しくなって、戻したままつい十年ほど経ってしまった。

 編者のわがままでこの人だけは二篇収録。語り手だけがその絵に執着して他人は怖がるというところからは狂気・ホラーにもなり得るし、未完成の絵に未練を残した画家が呼んでいるようにも思えたり、と思えば画家自身が十年もほったらかしてもいるし、でもどの方向にも振り切れずに、偶然の奇談は奇談のまま。読み終えたあとの素直な感想としては、執着はしているけど大事にはしていない語り手を見ていると、絵が立ち去りたがっていたように思えて仕方ありません。
 

「紅梅振袖」川口松太郎 ★★★☆☆
 ――着物は古くとも下駄は新しく、というのが江戸ッ子の見栄であり、下駄の汚いのは田舎者と軽蔑された。友さんは振り袖衣装などに刺繍する優秀な職人で、多額の収入があるのに、一向辺幅を飾らない。それがその日はおっそろしくめかし込んで来た。侯爵のお妾さんになった好いた人を訪ねにいくのだという。

 ド人情。「江戸っ子」というマジカルワードひとつで、泥臭い浪花節も啖呵のいい人情話に化けてしまうから不思議である。今こういう話を書いてもバカバカしい限りだろうし(やせ我慢の方はともかく、相手の方もってのが古き良きなのです)、昔もこんな人が何人もいたとは思えないんだけど、昔話として括弧にくくって語ることで、ひとかたならぬ説得力をもたらしています。
 

「鬼火」吉屋信子 ★★★★★
 ――忠七は瓦斯会社の集金人だ。押売りではないからひけめはない。いつもいないのか、居留守を使うのか、ともかく今日という今日は、自分の職務を遂行しなければ――。「こんちは」土間に靴の足を踏み込むと、髪がほおけた女が立っている。「……すみません、主人がなかなか病気なもんですから……」

 こういうのは時代を経ると感覚的なところでしっくりこない部分もある。今でいえば、ノーブラによれよれのTシャツ一枚で出てきたような感じなのかな。だらしない、けど、そそる、みたいな。ところが実は、どちらでもなく――というような。鬼火や死よりも、そういう境遇の凄みにぞっとします。

 もちろん鬼火も怖い。そういうところにも怪異って発生し得るんだな、怪奇現象や人の心の闇なんて描かれなくても怪談になり得るんだな、て思いました。(現代だと仕組み上こういうことは起こり得ないから、起こり得ないことが起こった完全な怪奇小説になってしまうけど)。
 

「とほぼえ」内田百間 ★★★★★
 ――突き当りに氷屋がまだ店を開けてゐる。冷たい氷水が飲みたいと思つた。「入らつしやい」「すゐをくれませんか」「え」「すゐを下さい」「すゐ、たあなんです」「をかしいなあ、氷屋さんがそんな事を云うのは」「ラムネぢやいけませんか」

 旧かなです。北村さんには『日本探偵小説全集』のときに戸川さんに言われて涙香を新字新かなにした過去がありますが、今回はめでたく望み叶って何よりです。泉鏡花石川淳日夏耿之介など、旧字旧かなで読みたい作家というのは確かに存在します。

 「過ごす」というのは「酒を飲み過ぎる」という意味なんですね。「時間を過ごす」という意味かと思っていたので、読み終えてから冒頭を読み返すと、「少し過ごしたかも知れない」「云つてくれた様だが」という表現に一瞬ドキッとしてしまったんだけど、何のことはない酔っ払って頭がはっきりしないだけなのでした。

 奥でラムネの栓を抜いたり、「ちひさな犬」と言ったり、何気ない箇所がとてつもなく怖い。そうかと思えば頭のなかでだけ考えたこと(飴買い幽霊とか)を突然口に出して、とんちんかんな会話で笑わせてくれたり。百間の小説は、どこで怖くなってどこで和ませてくれるのか、そもそもホラーなのかユーモアなのかが、読んでみないことにはわからないから、いい。
 

「家霊」岡本かの子 ★★★★★
 ――坂道の途中に名物のどじょう店がある。暖簾には「いのち」と染め出している。板壁の窓には永らく女主人の白い顔が見えた。今は娘のくめ子の小麦色の顔が見える。いずれは平凡な婿を取って、一生この餓鬼窟の女番人にならなければなるまい。くめ子は身慄いが出た。

 ちくま文庫だし、怪談風のが二篇続いたしで、すっかり文豪怪談本のつもりで途中まで読み進めてしまった。これはもちろん怪談じゃありません。

 家業というのか一族の魂というのか母から娘へと連綿と受け継がれるものというのか、単に前向きなだけじゃなくって、落ち着くべきものが落ち着くところに落ち着いたほっとするような結末です。背負うものはずっしり重いんだけどだからこそ安定感があって誇らかで。いのちというのは魂とか人命とかではなくて、こういう生きる力・生命力のことをいうんだな、と思いました。こういうおかみさんのいる食堂、行きたくなるじゃないですか。

 お爺さんのクサイ話は、例えば曾祖母なんかの話として伝聞で語られたとしても作品は成り立つと思う。でも徳永老人がいることで、くめ子が直接新たなステップにかかわれたし、何より最後の文章「老人はだんだん痩せ枯れながら」。普通であればネガティブな表現のはずなのに、同時に「時の流れ」→「くめ子の成長」を感じさせる、しんみりとすごくあったかい表現でもあると思うのです。この文章のためだけにでも、生身の老人に登場してもらわなければ困るのだ。
 

「ぼんち」岩野泡鳴 ★★★★☆
 ――ほんまに、頼りない友人や、なァ、人の苦しいのんもほッたらかしといて、女子にばかり相手になっていて。と、定さんは私かに溜まらなくなった。痛むあたまを、しッかり押さえて、床の間を枕にしているのは、酔った振りをよそおっているのに過ぎないので。実は、あたまの芯まで痛くッて溜まらないのである。

 ハハハハハ(^_^; 可哀相という気すら起こらない、バカバカしさ、情けなさ。殺人や人身事故ではなく、自分の不注意、それも漫画的に「窓から頭を出して柱にゴーン」という無意味さがふるっています。リアルに考えれば、その直後に医者にかかったとしても助かる見込みは薄いような気がします(ましてや当時)。それが救いといえば救いかな。すぐに医者を呼んでいれば、という無念を(読者は)振り切れるから。意地とか見栄とかばっか張ってるばかりだったので、最後の最後の素直なセリフにほろりとします。
 

「ある女の生涯」島崎藤村 ★★★★☆
 ――おげんの真意では、しばらく蜂谷の医院に養生した上で、東京の空まではとこころざして居た。東京には弟達が居たから。考えまい、考えまいと思いながら、おげんは考えつづけた。弟が居る。倅が居る。下女が居る。表口から帰ってきたのはおげんの旦那だ。

 すごくしっかりしたまま狂ってゆく(いる)/惚けてゆく(いる)様子が描かれていて、やるせない。最初はわからないんですよね。自分のなかの自分と独り言で会話するのだって、(現実につぶやきながら歩いているとかならともかく)小説の表現としては通常のことだし、「気の確かな証拠」というモロな言葉を使っているとはいえ、たわいない悪戯をして喜ばれたり、火事を起こしかけた失敗を後悔したりなんて普通のことだし。父親のことがあるから途中からは完全に「狂気」の話だとわかるんだけど、それでもそのままそんな調子で、自覚しながら、しっかりしたままでいながら、少しずつ周りとのズレが大きくなり周囲の対応が変わり……。

 「蛙がよく鳴くに。」「昼間鳴くのは、何だか寂しいものだなあし。」という感覚が好きです。
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