『怪奇と幻想1 吸血鬼と魔女』ロバート・ブロック他/矢野浩三郎訳(角川文庫)★★★★☆

「序文」ダシール・ハメット矢野浩三郎(Dashiell Hammett,1931)
 ――私の好きな作品の一つに、こういうものがある。女が家に一人座っている/自分がこの世に一人きりであるのを知っている/他の生物は死に絶えたのだ/ドアのベルが鳴る。

 もちろん本書のための序文なんかではなく、ほかの本の序文を引っ張って来ただけなのですが、おしゃれな構成です。ハメットがうろ覚えで引用しているのはトマス・ベイリー・オルドリッチの作品だとのこと。
 

「猫の影」ロバート・ブロック/各務三郎(Catnip,Robert Bloch,1948)★★★☆☆
 ――ロニーは不良だった。怖いものなんかない。みんなが魔女だと怖がっているミングルばあさんだって屁でもない。今日もばあさん家の黒猫に石をぶつけてやった。学校帰りにもジョーたちに威張ってやるつもりだった。なのにあのばばあの猫みたいな目を見た途端……畜生!

 オチのある話だと思えばあまりにストレート過ぎるのですが、「猫みたいなメノウの目」だけがギラギラしているしなびたお婆さんというビジュアルが恐ろしい。
 

「墓場からの帰還」ロバート・シルヴァーバーグ/隅田たけ子訳(Back from the Grave,Robert Silverberg,1958)★★★☆☆
 ――目がさめると、何もかもが闇のなかにあった。「ルイーズ? こっちに来てくれ」答はなかった。ベッドから出ようとして、自分がどこにいるのかに気づいた。おお、神さま。死んだものと思って埋められてしまったんだ!

 タイトルからもわかるとおりの早すぎた埋葬ものです。目が覚めるとまったくの暗闇なのですから、そもそも棺に入れられただけなのかもう埋められてしまっているのかすらわからない、というところが新鮮でした。主人公のマッシー同様、生き埋めの恐怖よりも鼠に齧られる恐怖の方が怖かったです。
 

「恐怖の来訪者」トマス・プレスケット・プレスト/武富義夫訳(Varney The Vampire より,Thomas Preskett Prest,1847)★★☆☆☆
 ――古い教会の時計が寥々と真夜中を告げた。ベッドには春の朝のように馨しい女が浅い眠りに落ちている。影が振り向き、顔が見えた。まったく血の気がない。口は深く裂けている。特徴的なのは、歯。猛獣の牙のように突き出している。

 『吸血鬼ヴァーニー』の第一章。歴史的価値はあるものの……というのが本音です。
 

「眠れる都市」マルセル・シュオッブ/小副川明訳(La cité dormante,Marcel Schwob)★★★★★
 ――黒旗船の《船長》は接岸を命じた。われわれは嵐で羅針盤を砕かれてしまったので、航路も土地もわからなかった。《海のやから》の唇から叫びが発せられた。この広大な市からは生きた物音ひとつ昇ってこなかった。死せる都市ではなかった。街路には人や動物があふれていた。

 『書物の王国1 架空の町』にも別訳が収録。だいぶ前にそれを読んだことがありますがすっかり忘れてました。明らかにおかしな語りが、物語の初めから、読むものに眩暈をもたらします。生存者の手記という形式を活かした見事な結末。
 

「噛む」アンソニー・バウチャー/常盤新平(They Bite,Anthony Boucher,1943)

 ダーク・ファンタジー・コレクション『タイムマシンの殺人』で読んだばかりなのでパス。
 

「メリフロア博士の最後の患者」ミンドレット・ロード/矢野浩三郎(Dr. Jacobus Meliflore's Last Patient,Mindret Lord,1953)★★★★★
 ――ながい履歴とそれにふさわしい成功を贏ち得たのち、メリフロア博士は開業医の仕事から身を引いた。しだいに、ゴシック式大伽藍のミニチュアをつくることに熱中していった。博士の建築作業を中断させることがひとつだけあった。それはミス・ラタリイの病気、あるいは気まぐれである。蝙蝠に咬まれたとか硫黄中毒だとか言っては電話をかけてくるのである。

 編者曰く「洒落た味」の作品です。このアンソロジーのテーマが〈吸血鬼と魔女〉なので一つの点に関しては予想がつくものの。博士の視点ではなく家政婦の視点であるのがポイントでしょうか。〈怪しい下宿人〉ものの変形に見えた本篇が、やがて○ー○○○ン○ものだと明らかになり、最後に訪れる恐怖! 冒頭のさり気ない描写の意味することといい、あるものを「見た」り「聞いた」りしたのではなく、「見なかった」「聞かなかった」という怖さといい、隠れた名品です。
 

「オルラ」ギィ・ド・モーパッサン/大友徳明訳(La horla,Guy de Maupassant,1886)★★★★☆
 ――旅行先で会った修道僧といろいろな話をした。「われわれ以外の生物が地上に存在するなら、どうしてこれまでずっと目に見えずにいたのですか?」「存在するものの十万分の一でもわたしたちに見えるでしょうか? いま吹いているこの風が、見えますか? にもかかわらず、風は存在するのです」

 目には見えない新人類が襲ってくるという思いに囚われた語り手が経験する恐怖譚。神経過敏な語り手の話はあまり好きではないのだけれど、この話の場合は、不安定な人特有の徹底ぶりや思い込みの強さとか、気の迷いどころか現実に何者かを存在させちゃっているところまで病膏肓なところとか、重傷すぎてかえって普通の怪奇小説として楽しめます。〈怪物〉退治のクライマックスは、目に焼き付くような美しさ残酷さです。
 

「マグナス伯爵」M・R・ジェイムズ/各務三郎(Count Magnus,Montague Rhodes James,1904)★★★★☆
 ――この物語はある手記に拠ったものである。手記の主はラクソール氏。穿鑿癖が強すぎて高価な代償を払うはめになってしまった。スウェーデンに旅行した際に、領主のマグナス伯爵が悪魔の遍歴に旅だったことがあり、帰路何かを持ち帰ったか、あるいは何者かを連れ帰ってきた、ということだった。

 「はたして彫金師が人間を彫ってなお及ばなかったのか、それともはじめから、このような怪物を彫ったのか」判断しがたい棺の彫刻の描写に不気味さを感じ、さらにはこの悪鬼を操る「悪魔はおそろしい姿などではなく、マントを着て丘の上にたたずむ一人の男にすぎなかった」と書かれてぞくりとします。棺の鍵が初め見たときは一つだけ壊れ、次に見たときは気のせいなのか二つ壊れ……という定番の盛り上がりにもぞくぞくしました。
 

「葦毛に乗った女」ジョン・コリア/山本光伸訳(The Lady on the Grey,The Lady on the Grey,1951)

 河出ミステリーで読んだので今回はパス。
 

「血は命の水だから」F・マリオン・クロフォード/深町眞理子(For the Blood Is the Life,F. Marion Crawford,1911)★★★★☆
 ――小山の斜面に、墓みたいに見えるところがあった。不思議なのは、その上に死体が横たわっているように見えることだ。月が昇っても沈んでも同じように死体の輪郭が見えるのだ。「きみ、あれの物語をつくるといいのに」「じつはひとつあるんだ。話してあげてもいいよ」

 由来譚としては唐突でおかしいところもあるんだけど、1.心霊名所を訪ねる紀行文のような前半、2.田園の犯罪譚、3.鬼気迫る直球の吸血鬼退治と、三種類の物語が楽しめました。
 

「妖虫の谷」ロバート・E・ハワード/小菅正夫訳(The Valley of the Worm,Robert E. Howard,1934)
 ――余はこれからニオルドと妖虫の話をしようと思う。かくいう余がニオルドだったのだから。今日ジェームズ・アリソンなる仮の名のもとに余は……。

 この手の話は苦手なのでパス、です。
 

「分裂症の神」クラーク・アシュトン・スミス宇野輝雄Schizoid Creator,Clark Ashton Smith,1953)★★★☆☆――
 ドクター・モレノは風変わりな実験の準備をようやく完了した。彼の理論にしたがえば、宇宙に君臨する主はひとりだけ、すなわち神だけのはずなのに、現実には魔王も共存している。とすると、神はいわゆる精神分裂症の二重人格なのだ。

 こんなユーモア・ファンタジーも書くのかとびっくりしました。飽くまで科学的な(?)ものの考え方をする科学者が、科学的であるがゆえに、悪魔とは神の分裂症の症状であると考えて、神を治療しようとして悪魔を呼び出すトンデモ小説です。専門バカもここまで来るとむしろ立派?
 

「夜の風が吠える時」L・スプレイグ・ド・キャンプ&フレッチャー・プラット/三枝裕士訳(When the Night Wind Howls,L. Sprague de Camp with Fletcher Pratt,1951)★★★★☆――
 たずねられたブロンク博士ではなく、答えたのはソットだった。「博士はゾンビイに悩まされているんだよ。説明してやったほうがいいようだね。のどを手術すれば治ることかもしれないからね」

 ギャグみたいな発想なのにちゃんとホラーになっているゾンビ小説。こういうのは普通だったら〈被害者〉なり第三者なりの視点で書かれると思うのですが、これはいわば〈加害者〉の視点で描かれてていてなおかつ実際にはその加害者こそが被害者だという、ユーモア混じりの恐怖にぞわぞわしました。
 

「魔女戦線」リチャード・マシスン小倉多加志(Witch War,Richard Matheson,1951)★★★★☆
 ―一列にすわった七人のかわいい小さな少女。おもては夜で、しのつく雨。戦争にもってこいの天気だ。壁の飾り棚には「総司令室」と書いてある。「だからあたし彼に言ってやるの……」「こんな仕事、はやくすませてあのすてきな帽子を買わなくちゃ」「あんたもなの?」

 魔女を幼児性の抜けないミュータントのように描いた作品です(というより、タイトルにまどわされなければ、まんまミュータントなんですが)。暗闇のなか、将校の「指さきから炎が吹き出し、顔はメラメラと燃えあがる火につつまれてしまう」という残酷ながら美しいシーンが果てしなくかっこいい。難点を言えば、炎以外の超能力(と敢えて言いたい)が絵的にあんまり美しくないことです。
 

「ヘンショーの吸血鬼」ヘンリー・カットナー/浅倉久志(Masquerade,Henry Kuttner,1942)★★★★☆
 ――「もしぼくがこんな物語を書いたなら、編集者に即刻突き返されるよ。努力は認めますがあまりにも陳腐、ってね。おりしもハネムーンのさなか、一天にわかにかきくもり、轟然たる雷鳴。しかもこの家はさびれ果てた気違い病院らしい。古風なノッカーを鳴らすと、ひきずるような足音とともに……」「だったらノッカーを鳴らしてみたら?」

 別名ジャック・ヴァンスと書かれてあるのでびっくりしたのだけれど、実はそう思われていた時期があったのだそうです。ああびっくりした。絵に描いたようなお化け屋敷に泊まり、絵に描いたような怪しげなアイテムに遭遇するという、ホラーファンならにんまりするような作品です。ひとひねりには恐怖というよりむしろユーモアが感じられました。
 

「吸血鬼の告白」ジョン・ヘイグ/長島良三(John George Haigh)★★★☆☆
 ――明日、おれは絞首刑になるだろう。おれが処刑されるのは、おれが人間どもを怖れさせたからだ。いままでおれがしたことは、ある〈崇高な力〉によって駆り立てられ犯したことなので、何を言われようとどうでもいい。

 ロンドンの吸血鬼と呼ばれた実在のシリアル・キラーの手記だそうですが、今読むとまるでシリアル・キラーのパロディみたいです。自意識過剰でうぬぼれが強くて露悪趣味で、安手の妄想や血に対する憧れも(ノンフィクションでなければ)陳腐です。ヘイグは死体と罪体を勘違いして自分は無罪になると信じてたそうですし、裁判になっても精神異常をよそおって病院行きで死刑を免れようとしていたそうなので、これも心からの手記なのかどうか怪しいものですが。
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 怪奇と幻想1 吸血鬼と魔女 『怪奇と幻想1 吸血鬼と魔女』


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