「33鳴く千鳥袖のみなとをとひ來かしもろこし船も夜のねざめに」〜「36袖のうへも戀ぞつもりてふちとなる人をば峯のよその瀧つ瀬」塚本邦雄(『定家百首/雪月花(抄)』より)講談社文芸文庫

33「鳴く千鳥袖のみなとをとひ來かしもろこし船も夜のねざめに」

 泣いていることを表す「袖の湊」という譬喩表現に、実際に(?)千鳥と船を呼んでしまった作品です。『伊勢物語』の「思ほえず袖にみなとのさわぐかなもろこし船のよりしばかりに」なども踏まえているとすると、独り寝の寂しさに袖を濡らしている語り手は、寝覚めに「もろこし船」と「鳴く千鳥」が来ることでさらに寂しさをかき立てられることになるのでしょうか。にもかかわらず、それを望んでいる――。著者の読み方は違っていて、「千鳥は幻の訪問者の案内人であり、唐船は作者を載せてふたたび袖の湊を發つのであらうか」と記されています。さらに著者は、定家の作とも言われている『松浦宮物語』をも遠視していて、「深讀みの極かも知れぬ」とは書かれていますが、著者にしかできないスケールの大きな読みだと思いました。
 

34「消え侘びぬうつろふ人の秋の色に身をこがらしのもりの下露」

 「一歩誤れば工藝品的な技巧倒れになるところ」を、縁語や懸詞をくまなく拾って解説してくれています。そう解説されると、緊張感のある歌なんですね。わたし自身は「消え侘びぬうつろふ人の秋の色に」というゆったりとした前半から、「身をこがらしの」と懸詞から一転して「もりの下露」と譬喩で終わる、不思議なバランス感にくらくらするような魅力を感じています。
 

35「あはれをもあまたにやらぬ花の香の山もほのかに殘る三日月」

36「袖のうへも戀ぞつもりてふちとなる人をば峯のよしの瀧つ瀬」

 あの「こひぞつもりて淵となりける」を踏まえているそうなのですが、「袖」も「ふち」という表現が「袖の湊」以上に大仰に過ぎて感じられて、あまり好きな歌ではありません。「淵」があるからこそ「峯/見ね」「瀧つ瀬/滾つ瀬」が導かれるというのはわかるんですが。。。
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  『定家百首/雪月花(抄)
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