『地獄谷』アレクサンドル・デユマ(アレクサンドル・デュマ)/福岡雄川訳(白水社)★★★★☆

 『Le trou de l'enfer』Alexandre DUMAS,1851年。

 千八百十年五月十八日の夜のこと、二人の旅人が嵐の中オーデルワントの險しい峡谷を旅してゐた。彼等はハイデルベルヒ大學の學生である。「……飛んだ目に遇ふもんだな。サミエル。」突然、馬が恐怖の叫びを發して後退りした。見ると徑は、大きく口を開いた深淵によつて消えてゐた。「やあ、これやいかん。一體この深淵は何だらう。」「地獄谷。」と、何處とも知れない聲でそう答へるものがあつた。再び来た稲光りの中に、妖艶な風姿をした一人の女が立つてゐるのが見えた……。

 サミエルとジユリアスは女の案内でシライベル牧師の家に宿を取った。牧師の話によれば、昨夜の美しい女はグレツチヘンというみなし児で、山羊の世話をしながら戸外で暮らし、植物に耳を傾けて運勢を読むという。グレツチヘンもさることながら、サミエルとジユリアスは牧師の娘クリステイヌの美しさに息を呑まずにはいられなかった。

 二人は名残を惜しみながら牧師の家をあとにする。彼らは秘密結社トゥーゲントブントの党員であり、裏切者と決闘をしに行く途中だったのだ。首尾よく決闘を済ませた二人は、待ちかねたように牧師の家に戻る。見るからに互いに惹かれ合っているジユリアスとクリステイヌの二人に、サミエルは温かい言葉をかけたのだが……。

 びっくりするぐらい卑劣な主人公サミエルの暴虐っぷりが鮮烈な印象を残します。旅先で出会った美女クリステイヌを親友に譲るようなことを言っておいて、裏を掻いて告白するも、あえなく撃沈。途端に復讐(?)を決意して、脅し文句で凄んで見せます。ジユリアスとクリステイヌの新居を改造して神出鬼没の秘密基地にするやら、催淫剤を飲ませてグレツチヘンを犯すやら、クリステイヌから義父の男爵宛の手紙を白紙にすり替えるやら。動機のセコさと行動の大胆さのギャップがありすぎて、むしろ可愛く思えるくらいかっこわるい。

 借金を踏み倒している学友に金を請求した商人や、町人や守衛に暴力をふるったために乗り出してきた警察や軍隊に「復讐」するため、大学から学生全員を引き上げさせて、町を空っぽにしたり――なんてことも。これなんかは理由がよくわからない。学友を焚きつけてわざと騒ぎを起こしてるんだけど、自分の力を誇示してみせたかっただけなのかな?

 サミエルの個人的な欲望の影に隠れて、ナポレオンからドイツを解放せんとするトゥーゲントブント党もすっかりかすんでしまった感がありますが、ジユリアスたちの新居を改造したのには訳がありました。クリステイヌをいつでもものにするため、だけじゃなかったのです。地下に党の会議室を作り、なんとナポレオン暗殺を企てていたのでした! しかも自身も党員のジユリアスは、党のためなら――って勝手な自宅の改造を納得しちゃうし。

 「復讐」に対する「復讐」はまだ先の話、みたいなことが書かれてそのまま終わってしまうので、何だか釈然としなかったのですが、どうやら『Dieu Dispose』という続編がある模様。紹介文を読むと、二十年ぶりにジユリアスと再会したサミエルが、結社の活動資金を得るためにジユリアスを殺そうとするらしい。
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 地獄谷 『地獄谷』


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