『モリアーティ秘録(上・下)』キム・ニューマン/北原尚彦訳(創元推理文庫)★★★☆☆

『モリアーティ秘録(上・下)』キム・ニューマン/北原尚彦訳(創元推理文庫

 『Professor Moriarty: the Hound of the D'Urbervilles』Kim Newman,2011年。

 タイトルからわかる通り、モリアーティ側を主役に据えたホームズ・パスティーシュです。前半は凝りに凝ったパスティーシュ、後半はフィクションキャラ総登場の活劇の趣が強いです。
 

「序文」(Preface)
 ――CEOが逮捕され、ボックス・ブラザーズ銀行が倒産したことにより、この銀行の実態を活字に出来るようになった。その実態とは、犯罪者向けの銀行だったのである。私はフィラミーラ・ボックスのオフィスに招かれた。「貸金庫に何十年も放置されていた品物をどうするかわかる? 価値のあるものは分配し……セバスチャン・モランって聞いたことある?」「ええ、ヴィクトリア朝の人物ですね」デイム・フィラミーラはデスクから箱を取り出した。中身は原稿だった。「これ、本物かしら?」

 ホームズ贋作ではお馴染みの未発表原稿が発見された経緯が綴られています。ワトソンの原稿なら説明不要ですが、この序文ではモラン大佐の原稿が残されている由来が説明されていました。
 

「第一章 血色の記録」(A Volume in Vermilion,2009)★★★★★
 ――一八八〇年、俺さまは四十歳で、傷はあったが強壮だった。“撃砕手”セバスチャン・モラン大佐。ロンドンに着いた俺は金がなかった。「銃は持ってるか、大佐?」俺は留置場仲間からモリアーティ教授を紹介された。「モラン大佐、お前にはしばらく前から目をつけていたのだ。最も威信ある部門の指揮官に任命する」「どういう部門だ?」「殺人だよ」。最初の顧客はモルモン教徒のイーノック・J・ドレバー長老だった。ジェイン・ウィザースティーンと養女のリトル・フェイを連れ去り、岩を落としてタル長老たちを押しつぶしたジム・ラシターの殺害、及び金鉱相続のためフェイを生かして連れてくること。

 『緋色の研究』の背景にあったもう一つの事件が描かれており、ジム・ラシターたちに関してはゼイン・グレイの小説『ユタの流れ者(Riders of the Purple Sage)』が下敷きにされているそうです。ホームズの推理に対するアンチテーゼのようなモリアーティの流儀などからはパロディの面白さ、暗殺から一転して銃撃戦になるところからは西部劇の面白さを感じました。原作ではただただ凶暴な虎のようだったモラン大佐でしたが、悪人とはいえ一人称で内面が描写されると、不思議なもので愛着も湧いてきます。ましてや本作のモラン大佐は任務を甘く見てドジってしまうのですから。原典がSで頭韻を踏んでいたのに対し、Vで頭韻を踏んでいます。
 

「第二章 ベルグレーヴィアの騒乱」(A Shambles in Belgravia,2004)★★★☆☆
 ――モリアーティ教授は常に彼女のことを“あのあばずれ”と呼ぶ。アイリーン・アドラーは天使のような顔と娼婦のような肉体と主要な劇場に損害を与える声の持ち主だった。「ストレルソウ大公は知ってる?」「通称“黒のミヒャエル”、ルリタニアの第三位の王位継承者だ」「付き合っているとき、行為の真っ最中の写真を撮られてしまったの。ねえ、わたしは脅迫されてるの!」モリアーティが首を振った。「納得できない? ちぇっ、演技の実習をしなきゃね。もちろん恐喝したいのよ。秘密警察の長官、黒のミヒャエル、皇太子、王女……全員をね。ルリタニアの半分がわたしを黙らせるため金を払ってくれる」

 「ボヘミアの醜聞」『ゼンダ城の虜』が下敷きにされています。『ミステリマガジン』2009年11月号()に邦訳あり。ワトソンによって美化されていない恋多き女アイリーン・アドラーが、ホームズ同様モリアーティにも一杯食わせるのが小気味よい。ただしそのせいでモリアーティ版「ボヘミアの醜聞」という感じで意外性はあまりなく、普通のパロディの範疇に留まっていました。
 

「第三章 赤い惑星連盟」(The Red Planet League,2008)★★★★★
 ――モリアーティ教授は二つの分野でぬきんでている。数学と犯罪だ。数学でも邪悪さでも代表級のサー・ネヴィル・エアリー・ステントとモリアーティは互いに激しく攻撃し合っていた。彼らは最初、教師と教え子だった。ステントは『小惑星の力学』に反論する講演をおこない、こき下ろし笑いのめした。しばらく無言だったモリアーティがついに言った。「モラン。明日、吸血イカを注文してくれ」

 タイトルこそ「赤髪連盟」のもじりですが、内容は「卵形の水晶球」と『宇宙戦争』がモチーフにされています。作中では、騒動を見学していたウェルズがこの事件をヒントに作品を書いた、ということになっていました。学説を批判されて恥を掻かされたモリアーティが、同じく学者として恥を掻かせて復讐するというのは理に適っています。ただしそのために火星人をでっちあげるところからは、むしろホームズのようなお茶目さを感じました。こういうB級バカ話を隙なく書き込んでいるのがニューマンらしいところです。ステントの日記のフォントに読みづらい不思議なフォントが使われていました。
 

「第四章 ダーバヴィル家の犬」(The Hound of the D'Urbervilles)★★★★☆
 ――ウェセックス州の領主ジャスパー・ストークの依頼は幽霊犬の殺害だった。甥のストークが継いだダーバヴィル家にはレッド・シャックという魔犬の呪いにまつわる言い伝えがあった。11世紀、サー・ペイガン・ダーバヴィルは自分を告発した修道士に復讐せんと、仲間の犬を喰らって大きくなった雌狼の子をけしかけた。その時、修道士の眼が大きくなり、歯が伸び、赤い毛に被われた。サー・ペイガンは噛み殺され、以後ベッド上で死を迎えたダーバヴィル一族はほとんどいない。そして現在、ストークの下男が喉を裂かれて死んでいるのが見つかった。

 トマス・ハーディ『テス』(原題『ダーバヴィル家のテス』)の事件が起こったあとダーバヴィル家を継いだ人物からの依頼という形が取られています。トマス・ハーディは動物愛護家だったそうで、その辺りも作中に採り入れられていました。魔犬の恐ろしさは本家『バスカヴィル家の犬』を凌ぐほどです。モラン大佐が現地に赴きモリアーティはロンドンで情報を受け取るというやり方も原典を踏襲していました。ヴァイオリンの利用法や、依頼料に関する頓知など、随所でモリアーティの個性が顔を出します。
 

「第五章 六つの呪い」(The Adventure of the Six Maledictions,2011)★★☆☆☆
 ――マッド・カルーが部屋に入ってきた。最後に彼に会ったのはネパールだった。カルーが拳を開いた。エメラルドが載っていた。片目の黄色い偶像から眼に当たる宝石を盗ったカルーは、命を狙われているという。「褐色の肌の神官たち。イエティだ。奴らはおれを殺して、緑の瞳の宝石を取り戻すつもりだ。あんたは……コンサルタントなんだろう? こいつを乗り切る助けをしてほしいんだ」。モリアーティは欧州大陸最強の泥棒たちを集め、六つの宝石リストを見せた。

 第一章もそうでしたが、本章でも日本では有名ではないJ・ミルトン・ヘイズ「黄色い神の緑の眼」が元ネタの話です。『恐怖の谷』のボールドウィンやジョン・ダグラス、「赤髪連盟」のジョン・クレイなど、モリアーティが関わった事件がモラン大佐の視点で語られていましたが、内容は「六つのナポレオン像」とは無関係でした。モリアーティが盗むべき六つの宝物を数え上げるところは、『カリオストロ伯爵夫人』の四つの謎を思わせてわくわくしたものですが、謎やロマンは皆無でした。モラン大佐が宝物を盗むため奮闘し、最後には怪物じみた大男まで登場する、白黒時代のドタバタホラー映画みたいなノリの作品でした。
 

「第六章 ギリシャ蛟竜」(The Greek Invertebrate)★☆☆☆☆
 ――「やあジェイムズ」と教授が言った。「やあジェイムズ」と彼の兄弟の大佐が言った。コンジット街へ戻ると電報が待っていた。末弟のジェイムズ・モリアーティ駅長からだった。『巨大なワームに襲われた! すぐ来い』。特別列車には他にも招待された連中が乗っていた。心霊研究家ルーカス、幽霊狩人カーナッキの偽物、教区牧師ドゥーン、懐疑主義者サバン、動物学者マダム・ヴァラドンだ。駅に到着すると、やがてトンネルからワームが突進してきた……。

 前章「六つの呪い」にはまだ六つの宝石リストという魅力がありましたが、本篇にはそれもなく、モリアーティ三兄弟やカーナッキらフィクションの探偵や悪党がガヤガヤやっているだけの話でした。マイクロフトが出てきた「ギリシア語通訳」に倣ってモリアーティの弟が登場しますし、スパイものなのは同じくマイクロフトが登場する「ブルース・パーティントン設計書」からでしょうか。くどいまでのジェイムズネタは完全に笑いを取りに来ていますね。「ギリシア語通訳」で印象深い復讐者ソフィーがこの作品と次の「最後の冒険の事件」でも活躍します。作中では戦闘列車をその形状から「ワーム」と称していますが、「ギリシア語通訳(The Greek Interpreter)」と頭韻を踏ませたかっただけで、さしてワームでも竜でもありません。
 

「第七章 最後の冒険の事件」(The Problem of the Final Adventure)★★★☆☆
 ――結末は知っているだろう。滝からの転落だ。いかにしてモリアーティが死んだか、知っているのはふたりだけだ。ひとりは激流に飛び込んだ。もうひとりが、俺だ。コーンウォールから帰還して三週間後、ソフィーが犯罪商会に加わった。モリアーティは犯罪者たちを集めて演説した。「我々はヒーローどもを叩き潰さねばならん」。演説の噂は世界中の悪党どもに広がった。俺は手渡された空気銃を確かめた。「最初に狙うのはどの探偵だ?」「あれは法螺話だ。真の目的から注意を逸らすためのものだ。マブゼだけを招待したのでは罠だとわかりやすすぎるから、ほかにも招集したのだ」

 モリアーティ教授&モラン大佐の側から見た「最後の事件」という趣向もあるにはありますが、ホームズはほとんどおまけのようなもので、実際には「ギリシャ蛟竜」にも登場したライバル犯罪者ドクトル・マブゼの野望を打ち砕く――という内容になっていました。そうは言ってもやはり最後は「最後の事件」で締めてくれました。アイリーン・アドラーが再び登場し、帯にも引用されている「セバスチャン。あなたのご主人が、口笛で呼んでるわ」という決定的なセリフを口にします。飼い犬のままで終わっていいの?という挑発ですね。「最後の事件」の真相がこれだとすると、「空家の冒険」は復讐というよりも、邪魔な名探偵を排除しようとしたということなのでしょう。

 犯罪者に計画や助言を与える悪の巨魁・モリアーティ教授の右腕として活躍したモラン大佐は、二人が経験した奇妙な冒険を文書に書き残していた――男たちや国家を翻弄する歌姫アイリーン・アドラーの策謀、地方領主の依頼を受けてモランが単身向かった魔犬が出没する地の連続怪死事件……博覧強記の鬼才がシャーロック・ホームズ譚を元に描いた、極上のエンターテインメント!(上巻カバーあらすじ)

 呪われた宝玉にまつわる謀略のため、ロンドンが秘密結社の大抗争で狂乱に陥る六つの呪い事件を始め、犯罪商会《ザ・ファーム》の暗躍はとどまるところを知らない。モリアーティ三兄弟が勢揃いして陰謀をめぐらす巨大ワーム出現事件を経て、ライヘンバッハの滝であの“名探偵”との死闘に至り、モリアーティ教授とモラン大佐の冒険は衝撃の結末を迎える。世紀の悪役《ヴィラン》たちの活躍を描いた破格の傑作。(下巻カバーあらすじ)

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