『定本久生十蘭全集 第七巻』久生十蘭(国書刊行会)★★★★☆

 月報は齋藤愼爾と須田千里。
 

「春雪」(1949.1)★★★★☆
 ――新郎新婦がホールに入ってきた。この戦争で、死ななくともいい若い娘がどれだけ死んだか。柚子なら、もっと立派にやり終わすだろう。滝野川で浸礼を受け、自分にはいままで幸福がなかったがいまささやかな幸福が訪れているらしいといったのが、せめてもの心やりだ。「結婚式という儀式だけのことなら、柚子さんもやっていたかも知れないぜ」と伊沢が言った。「なんのことだ」

 柚子が「春の雪のようにも、清くはかなく消えてしまったことに、人知れぬ満足を感じている」と言う池田の言葉からもわかるとおり、陳腐な喩えで勝手に儚い春の雪のようなイメージを押しつけていた叔父の不明。柚子のやったことはちょっと女学生趣味だとは思うけれど、「『日本が、いま戦争をしているというのは、ほんとうでしょうか』/日本は戦争をしているが、今はもう、半ば擬態にすぎないことを、池田は知っている。現に池田の会社では、飛行機をすり潰すという、意味のない作業を仕事らしく見せかけ、兵隊は、防空壕を掘ったり埋めかえしたりする仕事を、くりかえしているだけだった。」という生き方に肯んぜず、幸福に生きたのでした。なるほど洗礼とか指輪とかはそういう伏線だったのか。
 

「手紙」(1949.1)★★★☆☆
 ――あなたは村上さんの奥さんですか。私、マリハツ・シロウは、一日も早く村上さんの遺骨をお送りし、死なれたときのようすを、お知らせしたいと思って居りましたけれども、アンボンも独立戦争でいそがしく、今日までそれは出来ませんでした。

 第四巻収録の「手紙」とはまったくの別物。第五巻収録の「弔辞」の語り直しです。手紙の本文も片仮名の原文そのままではなく、受取人が漢字仮名交じり文に改めた、という設定で、全体的にこぎれいにまとまっちゃってます。
 

『黄昏日記』(1949.1〜8)★★★★☆
 ――「どうしたんですか」「いま身投げがあったんです」内地に戻る船上で、ひょんな偶然から自殺した沼間シヅとして生きることにした山内由紀子。窃盗の前科を消してしまえたらという軽い気持だった。だが船上で知り合った依田洋吉とともに泊まった旅館で、かつての悪友・後院と再会したことで、由紀子の運命は狂い始める……。

 三一版未収録。いくつかの偶然と取り違えによって一度動き出した歯車が、そのまま止まることを知らずに転がり続ける悲劇です。すべてのきっかけには日本征服をもくろむ後院というスケールのでかい悪役が。
 

「カストリ侯実録」(1949.2)★★★★☆
 ――艶笑的自叙伝「回想録」を書くことに生涯を費やした色情的好事家カサノヴァと、霊媒術をもつて宮廷で華々しい成功をしたカリオストロ伯爵と、ルイ・シャルル・ド・カストリ侯爵の三人を、ある小史作者は十八世紀末から十九世紀中頃までの三大変種といつてゐる。

 ナポレオン(「フランス伯N・B」)やロマノフ家(『皇帝修次郎三世』)に続いて、ルイ十七世は生きていた――という歴史記録風小説。カストリ侯爵ことKarl-Wilhelm Naundorffの話。
 

「復活祭」(1949.5)★★★★☆
 ――鶴代は川田に腕をとられながらバア・ルームへ行くと、五十歳ぐらいの男がひっそりとグラスを含んでいた。「東城がいる。小原東城さ。ユウは知っているはずだ」鶴代は胸苦しくなって大きく息を吸いこんだ。二十年前、一人だけ立って握手をしてくれた、この小原という男がつまり父なのだと、固く思いこんでいた時期があった。

 心のなかに誰ともない男性の姿を持ち続けたまま恋もせずにお金を貯め込んできた「オールド・ミス」の、心が開かれる瞬間や、何もできぬまま気持だけは前を向いている場面には、胸がふさがれます。それがシニカルな笑いで一転して別の感動に変わるのでほっとします。
 

「巴里の雨」(1949.5)★★★☆☆
 ――「いよう酒井さんぢやないか。」ぎよつとして振り向くと、前川と小泉がいた。「幽霊ぢやないかと思つたぜ。どこに隠れてゐるんだい、原田が血眼になつて探してゐたぜ。」

 三一版未収録。
 

「風祭り」(1949.6)★★★☆☆
 ――豊川は十八歳で欧羅巴へやつてきたが、巴里へ着いた四月一日の午後、K宮が運転してゐた自動車が立木に衝突してブゥロオニュの森で亡くなられるといふ椿事があつた。

 三一版未収録。
 

「三界万霊塔」(1949.7)★★★★☆
 ――深尾好三のところに戸田がたづねてきた。「どうした」「お前も受け取つたらう、新聞の切り抜きを。いまごろになつて十年前の古傷に足をとられるなんてのは、バカバカしいからネ」……二人は戦中に真珠貝で大まうけをしたが、船団が領海に入つて好き勝手にやられては面白くない。

 第五巻収録「猟人日記」の改作。『紀ノ上一族』改作の『ノア』と同様に、悪役がアメリカ人から日本人に変更されている点が戦前戦後のわかりやすい違いです。ただし中盤からはがらりと変わって、ライバルを海中で殺したうえにふざけて海底に万霊塔を建て、戦後になって報いを受けるという、単なる残酷奇譚ではなくこの時期の他の短篇と同じくきりっと引き締まった短篇になっています。
 

「淪落の皇女の覚書」(1949.7)★★★★☆
 ――公園に並ぶ顔々のなかで特にレミュの心を惹いた若い青年があつた。十九歳か廿歳。病身らしく、足が悪いのか、姉らしい二十四、五の娘に手をとられながら、毎朝レミュの隣のベンチへ掛けにくる。

 同じロマノフ伝説でも物語味の強かった『皇帝修次郎三世』とは違い、「フランス伯N・B」や「カストリ侯実録」同様に記録を引いた形式で書かれたタチアナとアレクセイの異伝。
 

「巫術」(1949.7)★★★★☆
 ――松久三十郎は人も知る秋陽会の驥足だが、脚絆に草鞋がけといふ実誼な装で山旅ばかりしてゐるので、画壇では「股旅の三十郎」といつてゐる。

 第4巻収録の「生霊」とほぼ同じ。解題によれば、戦地が沖縄に変更になっているため、異稿ではなく別作品扱いにしたそうです(?)。
 

「蝶の絵」(1949.9)★★★★☆
 ――終戦から四年となると、復員祝いも間のぬけた感じだったが、山川花世の帰還が思いがけなかったせいか、いろいろな顔が集まった。「六年も戦争に行っていたというけど、ちっとも変っていないね。痛めつけられたようなところは、どこにもないじゃないか。どう見ても美食して安楽に暮していた面だよ」「味方を変えれば、僕はすごい美食をしていたといえる」「なんだい」「僕らはオランウータンばかり食っていた」

 弱いせいで戦地で罪を犯し、弱いせいで罪の意識に押しつぶされそうになりながら、贖罪を許されない環境にも弱さゆえに抗えない男の悲劇。平民出の教師を馬鹿にする華族の子女たちという、女学校のエピソードが、家を守ろうとする家族とも重なって印象的でした。
 

『氷の園』(1949.10〜1950.5)★★★★★
 ――どこで道をまちがえたか、霧にまぎれ、公園のつもりでうっかりどこかの庭へ入り込んでしまったらしい。寝巻の女と男が抱きあっていた。そこを、うしろから服の襟を掴まれた。「ぬすっとう」と叫んだ八字眉の老人が、しばらく顔を見てから、「白川さんじゃありませんか。スイスのホテルでお眼にっかった二宮ですよ」と声を出した。さては先ほど白川が見かけたのは二宮の細君で、二宮は白川を相手の男と間違えたらしい。かつてスイスで婚約者の以津子がクレヴァスに落ちて死んだとき、以津子は美男子の岩城に殺されたのだと泣き叫ぶ白川を必死でなだめたのが、二宮の妻・香世子だった。

 三一版未収録。第6巻収録の「風流」、次巻以降収録予定の「姦」「白雪姫」「雲の小径」等に用いられたエピソードを組み合わせた長篇。あの短篇群が連続したストーリーになっていてびっくりしました。氷河の事件が実は「姦」計画の一部であり、白川は死んだはずの白雪姫を呼び出した霊媒に入れ込んでいる――だなんて、面白すぎます。しかも短篇には採用されなかったどんでん返しもあって。途中から騙され役になってしまう白川はもちろん、何もかも見通しているような香世子をはじめ、誰の目にもすべてのことは見えてはいませんでした。細かいところでは、以津子の正体をめぐって、そのものずばりだったのに狂人だと思われている人の言葉だから本気にしなくて……という、「月光と硫酸」にも用いられていたミステリ的なさりげない描写があったり。短篇版ではけっこう印象の強い香世子の姪・柚子の印象がちょっと薄い。文章面では「子供が絵に塗る青のような、すき透った水色の空に月が居て」のような、陳腐なようでいてちょっと忘れがたい表現もいくつかあって、読みでがありました。
 

『みんな愛したら』(『ノア』)(1950.2〜4)★★★☆☆
 ――外地にいて内地の事情にうとくなつてゐられる方は、戦時体制といふものをよく理解できないかもしれませんが、絶対に批判がましい口吻を洩らさないやうに。参謀本部などは、英米の引揚者を受入れるのは国外へ第五列を入れるやうなものだといつて、のつけから敵性国人の取扱ひをしてゐるらしい。

 日本版『紀ノ上一族』のような、目をつけられてしまった一族の残酷な滅亡譚。
 

「勝負」(1950.4)★★★★☆
 ――夏のある一日、四人でいつもの森へ昼寝に行つた。すこし前から有本としつくりしなくなつてゐるふうだつた高須が、すつかり不機嫌になつてしまつた。「ここは僕ら夫婦の席なんだから、大きな顔をして割りこんでもらつちやこまるんだ」。四季子が詫びるやうな眼づかひをしてみせた。

 三一版未収録。一人の女を巡る――もといそれ以前からの言うに言われぬ因縁で形を変え品を変え決闘を続ける二人の男。結局、すべて丸く収めようと策を弄しすぎて、残された者みなを不幸にしてしまいました。こういう気持の掛け違いは十蘭の得意とするところですね。
 

「妖婦アリス芸談(1950.6)★★★☆☆
 ――齢ですか、齢は六十四。私の名は、紐育でもボストンでも「アナラン」アリスで通つてゐます。アナランは「百丁目」の訛り。商売用の芸名で、戸籍の名は小川です。監獄へは前後あはせて十五年行きました。

 日本人女掏摸の告白による一代記。何といってもアナラン・アリス婆さんの語り口が魅力的な一篇です。
 

「あめりか物語」(1950.7)★★★★☆
 ――たいしたモノでもない小娘が、「見こまれて」匿名の篤志家の補助を受けて悠々とアメリカへ留学する。ハムプトン博士が見つけたバア・メイドを日本における自分の娘として教育してみたいと言ひだした。人柄を確かめに行つた行光講師が「あれは、王侯の妻妾にしても恥かしくないやうなひとだね」と言つてゐるのが聞えた。

 三一版未収録。やたらと数字が細かいので当時の風俗がしのばれます。記号としての「ボッブ・ソクサァ」の意味が、続く「女の四季」とは異なる点が面白い。人格に欠落があるような松崎母娘を透かして、エゴイズムを知らない「仇花」が浮かび上がります。
 

「女の四季」(1950.8)★★★☆☆
 ――赤井四郎というのらくらものがブラブラ歩いていた。向こうから大学の女子学生といったタイプの娘が大股におりてきた。「アメリカの漫画にあるボッブ・ソクサァというやつだ」赤井は気をのまれて思わずつぶやいた。

 三一版未収録。「あめりか物語」の由多子と志保子を足したような女が登場します。四季折々に移り変わるように、変幻自在に様変わりする若い娘――といっても芯のところはまったく変わっていません。なので女学生《ボビー・ソクサー》〜成金の娘〜芸者〜娼婦と変わっても、落ちぶれている感はまったく与えず。
 

「風流旅情記」(1950.8)★★★☆☆
 ――「風流旅情記」といふのは、明治十九年頃、ロレンス・スターンの“A Sentimental Journey”を訳したときの題名だが、これはもちろんそれとはちがふ。このはうは三河万蔵といふ第五流画家が生活の方便に海軍報道部におべつかをつかひ、約一年間の見聞を廻らぬ筆で報告書風に綴つた愚にもつかぬ放浪記である。

 三一版未収録。いくつかの戦争ものをくっつけたような内容。
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