『世界文学全集3-05 短篇コレクション1』池澤夏樹編(河出書房新社)★★★★★

「南部高速道路」フリオ・コルタサル木村榮一(La autopista del sur,Julio Cortázar)★★★★★
 ――変わったこともなかってので、警察がこの渋滞を解消してくれるまで技師は車の中で待つことにした。2HPには二人の尼僧が乗っていて、プジョー203の夫婦は見たいテレビ番組があるとこぼしていた。ドーフィヌの若い娘が技師をつかまえて、これだけ渋滞が続くと時計を見るのもいやになるわねとこぼした。

 永遠に続くかと思われるような渋滞に巻き込まれ、周囲からは孤立した高速道路のなかで、やがてコミュニティのようなものまで生まれて、独自の生活が営まれながらいつしか数か月が経過します。。。食糧の確保、病人の看病、ラブロマンス、……陸の孤島と化した渋滞の高速道路で繰り広げられる、静かなサバイバル。恐怖感ではなく、倦怠感が支配する毎日。待ちに待った渋滞が解消されたときの、戸惑いと喪失と疾走感。
 

「波との生活」オクタビオ・パス野谷文昭(Mi vida con la ola,Octavio Paz)★★★★☆
 ――海から上がろうとすると、すべての波のうちひとつだけが進み寄ってきた。ほっそりとして軽やかな波だった。彼女は僕の腕につかまると、一緒に海から飛び出した。僕たちは隣り合って横になり、秘密を打ち明け合ったり、囁き合ったり、笑い合ったりした。

 波と一緒にバスに乗るため、飲料水タンクに波を入れたことがばれた際に、乗客が車掌を呼んで、車掌が刑事を呼んで、刑事が警官を呼んで、警官が巡査部長を呼んで、「君が水に○を入れたんだね」を繰り返す場面は、カフカのようなシュールな笑いに満ちていました。カフカというより、むしろ「鼻」かな。波と何をどうするんだと。
 

「白痴が先」バーナード・マラマッド/柴田元幸(Idiots First,Bernard Malamud)★★★☆☆
 ――質屋は眼鏡を持ち上げ、時計をひっくり返した。「八ドル」「三十五ないと困るんです」「お断りだね」。「私は病気なのです、この子を今夜列車に乗せて叔父のところへ行かさねばばらんのです」「個人には寄付しない。団体のみ」それがフィッシュバイン氏の方針だった。

 白痴の息子を助けることだけを考えて奔走する父親。恩人の妻をシャイロックと罵り、倒れた恩人を葛藤もなく見捨て、それほどの思いだからこそ無理が通るのでしょうか。タイトルの意味がよくわかりません。聖書か何かでしょうか。。。?
 

「タルパ」フアン・ルルフォ杉山晃(Talpa,Juan Rulfo)★★★★★
 ――おれたちはタルパで人の手も借りずに、穴を掘ってタニーロを埋めなければならなかった。ナターリアは泣かなかった。おれたちはタニーロ・サントスを殺したのだ。タルパまでの道のりに耐えられないだろうってことは、わかっていた。

 タニーロは病気快癒を願ってタルパへの巡礼に向かい、妻と弟はそれにかこつけて邪魔者を厄介払いしようとお供します。身体などとうに朽ち果てているのに願いだけで動いているような、タニーロの凄惨な生への執着。初めから最後まで登場しているのに台詞も心理もいっさい描かれずに、語り手の言葉と涙の有無だけで伝えられるナターリアの思い。このナターリアの思いにしてもタニーロの執念にしても、説明ではなくほぼ行動で示されているところに凄みがありました。
 

「色、戒」張愛玲/垂水千恵訳(色.戒,張愛玲)★★★☆☆
 ――色仕掛けで行こう、ということになった。商売人の若妻と偽って接近させる。演じるのは学生劇団の主演女優、佳芝である。易は諜報機関の人間だから、ただでさえ用心深くて、決して尻尾を掴ませない。

 中井国家公安委員長を思い出してしまった。
 

「肉の家」ユースフ・イドリース/奴田原睦明訳(Bait min Lahm,Yusuf Idris)★★★★★
 ――亭主が死んでから、沈黙が垂れ込めていた。娘たちは年頃になっていた。こんなに貧しく不器量な娘の家を訪れる婿殿がどこにいようか。沈黙を破るものは盲目のコーラン読みによる読経だけだった。後家と娘たちは理解した。なぜ私たちの誰かが結婚してこの家を男の声で満たそうとしないのか?

 盲目、沈黙、結婚指輪、を弁明の建前道具にして続けられる了解ずくの蜜戯。飢えを満たすために宗教的解釈に詭弁を弄する母親の姿は、肉欲や宗教を問わずにこれまでに幾度となく繰り返されてきた逃げ道にほかなりません。
 

「小さな黒い箱」フィリップ・K・ディック浅倉久志(The Little Black Box,Philip K. Dick)★★★☆☆
 ――これが共感ボックスだ。これの取手を握ったとき、教祖ウィルバー・マーサーの感じることをそのまま感じることになる。画面では、石ころがマーサーにむかって投げつけられた。共感ボックスにとりついているだれもが、あの痛みをマーサーといっしょに感じたのだ。

 『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』では重要な意味を持っている感情移入ですが、本篇だけ読むとかなり気持悪い。新興宗教を殲滅するためにアメリカと共産国が手を組むという、狐と狸と河童の化かし合いのような筋立て。テレパスの苦悩という定番SFのわかりやすいガイドラインを引いてくれているのがせめてもです。
 

「呪い卵」チヌア・アチェベ/管啓次郎(The Sacrificial Egg,Chinua Achebe)★★★★★
 ――あの騒がしい大市場がこんなふうに火が消えたようになるなんて、だれに信じられただろうか? だがそれほどにキティクパ、天然痘の神の力は、絶大だった。

 ある未開の地を襲ったある死病。赤死病の流行ったラピュタ国で跳梁する月の蛾の仮面や黄金仮面をかぶった男たち――たとえばそんな話であってもおかしくないほどに、現実がまったく別の顔をもって現れます。それだけでは普通とは違う視点を採ったにとどまるとも言えますが、作中の人物にも「違って見え」る瞬間が訪れることで、さらに別の景色を体験することになります。
 

「朴達の裁判」金達寿 ★★★☆☆
 ――われわれの主人公は、いま刑務所を出てきた。「おう、朴達じゃないか!」「よくも未決だけでかえされたもんだ」朴達はにやにや笑いながら、生豆腐を食いはじめた。「それは、運なんてもんじゃないさ」「どういうことだ?」「お前とおれとはちがうということよ。お前さんはエライのさ。だから奴らに勝つことはできないんだ」

 ゴーゴリを引き合いに、ゴーゴリふうに始まります。昔のチェコのお役所は実際にカフカの小説みたいなものだった、と言っていた人がいましたが、それでいうなら本篇は、日本人が読むゴーゴリというよりはチェコ人が読むカフカに近そうです。妙に近くて遠い世界。
 

「夜の海の旅」ジョン・バース/志村正雄訳(Night-Sea Journey,John Barth)★★★★☆
 ――前へ、上へ、みなと一緒に進むものの、疲れ、気力をうしなってしまう。夜を、海を、旅を、考えてしまう。ぼくは生きる、ぼくは生きる、たくさんの溺死した仲間の間を抜けて進む。「ラヴ、ラヴ!」とあのときぼくらは歌った。

 それでラヴなのか。とはいえそれがラヴでなく例えば鮭の川上りでも宇宙遊泳でもマラソンでも何でもいい。長く孤独な戦いの瞬間。
 

「ジョーカー最大の勝利」ドナルド・バーセルミ/志村正雄訳(The Joker's Greatest Triumph,Donald Barthelme)★★★☆☆
 ――フレデリックは友人のブルース・ウェインの家へ出かけた。「ねえブルースそこで飲んでいるのは何だい」「失礼フレデリックこれトマト・ジュースだ。一杯あげようか」

 高橋源一郎みたいです。訳者あとがきによれば、テレビ版をもとにしたとのことなので、まったくわかりませんでした。でも『バットマン』は知りませんが、ほかの作品を読んでみると、アメコミ自体がそもそもパロディみたいなもので、ヒーローたちがコスチュームのままでピクニックに行ってケチャップこぼして「まあ○○ったら」「HA HA HA」みたいな場面がフツーにあるし。
 

「レシタティフ――叙唱」トニ・モリスン/篠森ゆりこ訳(Recitatif,Toni Morrison)★★★★☆
 ――あたしの母親は一晩中踊っていて、ロバータの母親は病気だった。そんなわけであたしたちは、施設の聖ボニーに連れてこられた。母のメアリーはときどき大事な話をしてくれてね、あいつらは変な匂いがする、と言ってた。確かにロバータはそうだった。だからおつぼねさまが「トワイラ、ロバータよ。ご挨拶なさい」と言ったとき、あたしは「おかあさんはあたしをここに入れるの嫌がるよ」と言った。

 これは趣向に尽きます。内容自体は陳腐なのですが、どっちがどっちかは描かれないことで、いつの時代のどこの世界のどういう対立を代入しようと成り立つような普遍的な作品になっています。
 

「サン・フランシスコYMCA讃歌」リチャード・ブローティガン藤本和子(Homage to the San Francisco YMCA,Richard Brautigan)★★★★☆
 ――むかしむかし、サン・フランシスコに、詩を好む男がおりました。家のなかの鉛管類をはずし、それらをすべて詩で置き換えようと決めた。そして、実行に移したのである。

 何の変哲もない日用品と詩人の個性のミスマッチ。しかもなぜか水回りばかり。そもそも「詩集」ではなく「詩」を買いこんでくるあたりで非常に怪しい。
 

「ラムレの証言」ガッサーン・カナファーニー/岡真理訳(Waraqa mn Al Ramleh,Ghassan Kanafani)★★★★☆
 ――ラムレの街とエルサレムを結ぶその通りの両側に、彼らはぼくたちを二列に並ばせ、両手を上げて頭上で交差するよう命じた。その日、ぼくは九つだった。ユダヤ人がラムレの街にやって来たのは、そのほんの四時間ばかり前のことだった。

 恐ろしいのは、黒と白を明らかにしなかったトニ・モリスン作品と同じく、固有名詞を消してしまえば実はこの作品もイスラエルパレスチナがどちらであってもおかしくないという点にあります。
 

「冬の犬」アリステア・マクラウド/中野恵津子訳(Winter Dog,Alistair MacLeod)★★★★★
 ――オンタリオから来た犬はまったく役に立たなかった。私は仕掛けた罠を見にいこうとしていた。犬にそりをつけ、ふと海のほうを見た。大きな流氷の群れが見渡すかぎり広がっていた。流氷が何か運んできたかもしれない。それを見にいこうと、犬と私は海のほうへ向きを変えた。

 裏山にでも行くような日常的な感覚で危険が隣り合わせという過酷な状況が、すごすぎてまったく実感できません。家庭の雰囲気が郊外の一般家庭的なところにまた戸惑いを覚えました。凍りつく体毛、息のできない吹雪、水と氷に濡れた身体、凍ったアザラシの美しさ。南極探検隊かと紛うような皮膚感覚に圧倒されました。
 

「ささやかだけれど、役にたつこと」レイモンド・カーヴァー村上春樹(A Small, Good Thing,Raymond Carver)★★★★☆
 ――土曜日に彼女はパン屋に行ってケーキを注文した。来週の月曜日でスコッティーは八つになるんです。月曜日、少年は歩いて学校に行った。その瞬間に車が少年をはね飛ばした。もちろん誕生パーティーは開かれなかった。少年は病院に運ばれた。昏睡ではありませんよと医師は強調した。

 ずっと現実を受け入れられないでいた母親が、犯人でもない八つ当たりの相手にすら感情をぶつけられないで憑き物を落とされてしまう。やるせないだろうな。このタイミングで許しを請い、身の上話をし、パンで空腹を満たす。ある意味卑怯で、でもだからこそ物語になっています。
 

「ダンシング・ガールズ」マーガレット・アトウッド岸本佐知子(Dancing Girls,Margaret Atwood)★★★★☆
 ――隣室の男の存在に気づいたのは、大家のノックの音でだった。「いえね、じつはうちの子たちがあなたの民族衣装をぜひ見たいって言うもんだから」民族衣装? こんどはどこの国だろう。前の人みたいじゃありませんように、とアンは願った。その男はフランス人だった。その前は、リラというトルコ人の女子学生だった。

 自由の国アメリカの保守性というのは、もはや民族性といってもいいくらいのお約束。しかし掃除機はふつーに不気味です。
 

「母」高行健/飯塚容訳 ★★★☆☆
 ――お母さん、どうして現れたのですか? いや、行かないでください! ぼくはもう長いことあなたに会っていないので、ほとんど見分けがつきませんでした。二十数年になります。

 内容といい「ぼく/彼」といい、教科書を作る人に好まれそう。
 

「猫の首を刎ねる」ガーダ・アル=サンマーン/岡真理訳(قطع راس القط/Qt' Ras al-Qt,غادة السمّان/Ghada al-Samman)★★★★☆
 ――「掘り出し物の花嫁だよ、坊や」アブドゥルは耳を澄まして聞いていた。パリの真ん中で、母国レバノンの恰好をした女の訪問を受けるとは。しかしよりによって今日、ナディーンにプロポーズする決意を固めた日に、縁談話を持ってくるとは……。

 プロポーズの直前になって、これでいいのか不安になる――。そんなありふれているはずの出来事に、イスラムの背景が重なります。さらには、若くなくなってから奔放な美女にぞっこんはまり、処女か非処女かが大問題で、お見合い好きのおばさんがいて……、古くさく通俗的なテーマが、宗教を通してアクチュアルな問題として甦っています。
 

「面影と連れて」目取真俊 ★★★☆☆
 ――こうやってガジマルの木に座ってね、川の流れを見ているとね、いろいろと思い出すさ。うちが生まれたのは戦争が終わってから十年ぐらいしてからさ。あんた沖縄で昔戦争があったの知ってるね?

 皮肉というか何というか、これは世界選手権の日本代表ではなく、沖縄という外国の話といってもいい。
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