「60かへるさのゆふべはきたに吹く風の浪たてそふる岸のうの花」〜「79おもかげにもしほの烟たちそひて行く方つらきゆふ霞かな」(塚本邦雄『定家百首/雪月花(抄)』講談社文芸文庫より)

 66「はやせ河みなわさかまき行く浪のとまらぬ秋をなに惜しむらむ」

 人麻呂「長々し夜」の長ったらしさとは異なり、急流の勢いあふれる上の句が好きな作品です。が、なるほど塚本の指摘のとおり、この序詞には「秋」にかかる必然性はないのですね。

 67「この頃の雁のなみだの初しほに色わきそむるみねのまつかぜ」

 渡って来た雁の涙が松葉を緑に染めるという発想がユニークな作品です。「初句の『この頃の』はいかにも前置くさく」という塚本の指摘がもっともな瑕でもあります。

 68「わたつ海や秋なき花の浪風も身にしむころのふきあげのはま」

 わたしはこの歌よりも、本文中に引用されている「潮風のふきあげの雪にさそはれて浪のはなにぞはるは先だつ」の歌の方が好きで、それは流れるような言葉の連なりと、絵的なイメージが目に浮かぶところが気に入っているのですが、あるいはこの「さそはれて」「先だつ」というあたりが「理に落ち」ているのかもしれません。

 69「雁がねの鳴きてもいはむ方ぞなきむかしのつらのいまの夕暮」

 業平の「月やあらむ」にも似た、移ろう時を嘆いた歌ですが、「むかしのつらのいまの夕暮」というのは、「煮つめられるだけ煮つめた表現」というだけあって、読み取り難い。雁の「つら(なり)」も「夕暮」もどちらも変わらない自然じゃないか、と思ってしまうとわからなくなってしまいますが、「夕暮」とは「私」「世の中」の由。あるいは夕暮れの風景に、人生や時流の夕暮・黄昏・斜陽を重ねているのでしょうか。

 77「かきやりしその黒髪のすぢごとにうちふす程はおも影ぞ立つ」

 79「おもかげにもしほの烟立ちそひて行く方つらきゆふ霞かな」

 この二つで特筆すべきは、短歌や解説もさることながら、塚本の散文詩が、定家の本歌をモチーフにした短篇になっているところです。「溺死」や「血潮」など、もはや完全に独立した作品となっています。

 「漆黒の髪は千すぢの水脈をひいて私の膝に流れてゐた 爪さし入れてその水脈を掻き立てながら 愛の水底に沈み 私は恍惚と溺死した/それは……」

 「海藻を焼いて水に浸しその上澄を煮詰めるといふ迂遠な製鹽法を私は憎む 鹹い煙はゆかりの人の目に沁みその睫毛が煤けよう 鹽は血潮を乾して作ればよいと私は……」
 ----------------

  『定家百首/雪月花(抄)』
 amazon.co.jp amazon.co.jp で詳細を見る。
  オンライン書店bk1で詳細を見る。


防犯カメラ