ジル・トマ、別名Julia Verlanger(ジュリア・ヴェルランジェ)の短篇集。
「Préface」Stefan Wul(序文,ステファン・ウル)
――本屋にジュリア・ヴェルランジェの本を頼んでいる人がいたとする。「SFがお好きなのですか?」「そう言うわけではないんだけれど、ジュリア・ヴェルランジェが好きなんだ」。ジュリア・ヴェルランジェはスタンダールやセリーヌやコレットと同じく、「あなたの」ヴェルランジェなのだ。
ここで言う「あなたの」とは「ワン・アンド・オンリー」という意味ではなく、喩えるなら太宰治や村上春樹の愛読者というのが近そうです。あそこまで個人的なものではないにしても。「こうしたアポカリプスのビジョンを正当化するためにどんな魅力的な冒険を生み出してくれるだろうか」と書かれていますね。。。ジュリア・ヴェルランジェは終末(それも核戦争)と触手のある宇宙人を多用しすぎなければいい作家なのですが。本書の後半に面白い作品が多かったです。
「Chasse au rêveur」(夢狩り,1963)★★★☆☆――バー。Milly婆さんがKernに声をかけた。「調子はどうだい?」。Charlyはカードを放り投げた。「1万クレジットやろう」。Kernは妥協した。「船は俺が操縦する」。宇宙船港は寂れていた。KernはPauli、Ryd、Batrixとともに歩いた。柵を越え、目的地を目指した。獣人が襲ってきた。Kernたちは必死で応戦した。その隙を衝いてRydに灯りを取られてしまう。だがそのとき、夢が現れ……。
一種のセイレーンの変形のような話、ということになるのでしょうか。さびれた世界を空港まで向かい、宇宙を目指すという点に、銀河鉄道999のような世界観を感じてしまいました。
「Reflet dans un miror」(鏡のなか,1959)★★★☆☆
――Christinaは階段の手すりをつかんだ。ドアを開ける。抽斗から鏡を取り出した。どうして購入したのかわからない。Christinaは貧乏で孤独だった。本当の自我は鏡とともにあった。人類は紫色の顔を見て隠れるべきだったのか? だが鏡の薔薇水のなかの顔は美しい。鏡のなかの顔は耳が尖り目には瞳がなかった。鏡のなかの自分と声なき会話をした。別世界の自分を呼んだ。鏡から光が溢れ、Christinaは倒れた。脳には紫の文字が浮かんでいた。「愚か者! 一族を裏切った愚か者!」
鏡のなかのもう一人の自分、というホラーの定番が扱われた作品で、全体的な雰囲気も幻想小説風でした。
「Point final」(最後の一線,1996)★★★☆☆
――宣告を受けた少女が走っていた。兵士たちがいたぶるように追いかけていた。通行人は屋内に姿を消した。少女が転んだ。兵たちが捕えようとすると、門から老人が現れた。「可哀相に」。「邪魔をするな」蹴りつけられた老人が叫ぶ。「人類など呪われてしまえ!」
ショート・ショート。人間の愚かさ、暴力、を描くのもSFの型の一つ。本篇に登場するのは、人類の呻きを記録して満杯になるとスイッチが入る装置です。「蜘蛛の糸」のような自爆スイッチと言えそうです。
「Nous ne veillirons pas」(我々は歳を取らない,1961)★★★☆☆
――我々は歳を取らない。死をもたらしてくれることだけが希望だった。あらゆる命を殺してきた人間に対する罰だ。我々は生き残らない。そんなふうに思うと、少しだけ楽になれる。一日目、騎士が我々を拍車で調べた。人類が路上で血塗れになった。
終末もの。人が目の前でばたばたと滅びてゆくのを見ながら、「Nous ne veillirons pas」と繰り返す語り手の言葉が頭に残ります。
「Les Gradiateur」(剣闘士,1958)★★★☆☆
――エディーとわたしは星々を周って価値のあるものを探し続ける会社に勤めていた。岩だらけの星でようやく宝石にたどり着いたと思った矢先に捕えられ、その町の王の面前で決闘をするはめに。エディーが酸素ボンベのバルブに手を伸ばす……。精神的に耐えられなくなったのか……。
前半の異世界をさまようような探検シーンと、後半の決闘シーンで二つの魅力が楽しめる作品。触手のある宇宙人という由緒正しいコンタクトもの。
「Les Oiseaux de cuir」(翼竜,1958)★★★☆☆
――私は政治犯として鉱山で働かされていた。塵肺で死にたくなければ、穴から逃げねばならない。だが穴には翼竜がいるのだ。同僚のGabと共に何とか鉱山からは脱出できたものの、目の前にはジャングルが広がっていた。恐ろしい獣や虫たち……。
表題作だけあってなかなかの読みごたえ。ただし肝心のジャングルの冒険がかなりあっさりとしているし、翼竜も恐ろしげな姿を見せているだけで実はあまり出番がありません。やけにあっさり助かったなあと不審でしたが、オチのある作品でした。
「La fenêtre」(窓,1958)★★★☆☆
――その建物は新しく標識もない。Martinはたまたま見つけた600号室をノックし、目指す612号室の場所をたずねようとした。だが部屋には誰もいない。開いた窓の外には草原が広がっていた。誘われるように欄干を跨ぎ、窓の外に出たとき、嘲笑いが聞こえたような気がした。恐ろしいがどこか気持ちいい空間だった。
開けてはいけないドア(窓ですが)を開けて、異空間にさまよい出てしまう、幻想譚。そもそもMartinが何の目的で誰を訪ねに来たのかも一切不明で、新しくできた人食い屋敷に食われてしまったかのようでした。
「Si belles et si froides」(美しく冷たい娘たち,1996)★★★★☆
――血が脈打っていた。早く新しくつかまえなければ。/遅くなってしまった。誰かが後ろから尾けている気がする。/警官たちが事件について話していた。
第一部では人間を蒐集する変質者の心理描写、第二部では襲われる女性のサスペンスが描かれ、第三部ではなぜか突然「Agent 5 436」等というSFっぽい名の警官たちによる会話になっていてびっくりしました。その会話がかなりくだけた言葉遣いなので意味の取れないところもあるのですが、わかった範囲では第一部と第二部の内容を改めて確認しているような感じでした。
「Le Laxxi」(LAXXI,1996)★★★★☆
――宇宙人たちは食べ物が豊富な惑星を見つけてLaxxiを送り込んだ。三年後、Laxxiが死んでいなければ食糧豊かな星であり、次々と送り込むべし。――Laxxiは公園に向かった。翌日、老人の死体が見つかった。騒ぎが起きたのは数日後、老若男女が揃って公園で自然死してからだ。人々は公園を避けるようになったが、Jean-Claude少年は、公園でダーツをするのが楽しくて……。
もったいない。触手のある宇宙人など出さなければ、スタージョン「それ」にも似た傑作にもなり得るようなサスペンスなのに。デビュー作「あわ」でも女神カーリーのような手のたくさんある異形を書いていたし、著者がそういうの好きなのだろうと思います。「Attardée, attardée, chantaient ses pas sur l'asphalte.」という文章があって、この「attardée, attardée」の繰り返しは、「遅れちゃった」という心の声と同時に、地面を叩く靴の音「カツン、カツン」をも表しているのだと思います。
「Les Crabes」(蟹,1960)★★★★☆
――これが蟹に見えるかい? ある意味では正しい。だがね、夜になると……。溺れたことがないんだろう? 頭は死ぬ。身体も死ぬ。だが手はもがき続けるんだ。陸では違う。海の話だ。
W・F・ハーヴィーに「五本指のけだもの」という作品もありましたが、手というのは見ようによってはなるほど蟹や蜘蛛の脚のようです。老釣人のたわごとのようにも思える話でしたが、翌日老人は……。乱歩や古き探偵小説を連想させるようなショート・ショートです。
「La Fille de l'eau」(水の娘,1957)★★★★☆
――彼女は人間ではなかった。それほどは。美しい髪、美しい瞳。だがそれだけだ。鼻も、口も、何もなかった。母親は怯えて森の池に捨てた。彼女は水で育った。木々の声を聞いた。木々に話しかけた。少年たちが森に遊びに来るまでは……。
まるで「どろろ」のような娘は、自然と交わり幸せに暮らしていましたが、最後には人間に滅ぼされてしまいます。囚われた娘に同調するように震える木々や鯉があまりにも哀れで、森のざわめきを聞くたびに思い出してしまいそうです。
「Les Rois détrônés」(追われた王たち,1973)★★★★☆
――IvviとHaraldは16歳と18歳の少女と少年だ。家を出てパリに向かっていた。ヒッチハイクをし、パンを乞い、喧嘩をした。二人は自分だけの王国の王様だった。だがテレビでは未成年の犯罪が取り沙汰されていた……。
本文中にあるように「子どもは自分の王国の王様である」という位置づけに基づく、恐るべき子供ものであり、『俺たちに明日はない』であり『イージー・ライダー』でした。凄まじいまでのリンチシーンからは、しかしキリストを連想せざるを得ません。最後に「雨が唱える」『深い淵から』とは詩篇130篇「主よ、わたしは深い淵からあなたに呼ばわる。主よ、どうか、わが声を聞き、あなたの耳をわが願いの声に傾けてください。」
「Une Caisse de pruneaux」(スモモの箱,1961)★★★☆☆
――Jemおじさんは頑固だった。経営しているデパートに見たこともない箱が置いてあり、開けてみるとスモモのようなものが入っていた。毒が入っているかもしれないのに、おじさんは一口食べてから、売り物にしようと言い出した。翌日、釣りの最中に姿を消したおじさんをようやく探し当てると、四つん這いで近づいてきた。
四つん這いになって動き回るおじさんこそ気持ち悪いものの、箱に入っているスモモの正体は宇宙人による寄生生物であった、というオチはありがちでした。
「Les R. A.」(R・Aたち,1961)★★★★☆
――目を閉じれば私は人間に見える。でも私の瞳は金色で、母親は全身毛だらけだったため、ガラスで仕切られたこちら側にいる。人間たちが憎しみを込めて私たちを見ていた。Sabéeは血を吸わないと生きていけなかった。Panは歌を歌えた。私たちは逃げ出した。母から聞いた森を求めて。
ネタが「Le Mal du Dieu」と同じなのが気になります。ナウシカのパターンですね。最後になって明かされる「R. A.」とは「Radioactif」放射性の頭文字。「Le Mal du Dieu」で描かれていたのが、退化した村で村八分になっている語り手であったのに対して、本篇は人間と檻に入れられた異形たちの対立という形を取っているだけに、価値観の落差が大きく、本篇の方がSFとして優れていると思います。
「La Nuit de Martha」(マルタの夜,1958)★★★★☆
――金星に入植しているMarthaは、兄のKerenに火星の砂をお土産に頼んだ。光によって色を変える砂を庭砂に使うのだ。四歳になる息子のJanが砂の入った箱を開けて遊んでいた。そこから胡桃のようなものが転がったのを、誰も気づかなかった。胡桃が割れて芋虫のような「もの」が現れ、草木を食べて大きくなった。害獣だと思い罠を仕掛けから、夫のJetralは取引に旅立った。その夜、繭から現れた巨大な「もの」が、食べ物を求め……。
外宇宙生物を扱ったホラーは本書にもいくつかありますが、この作品の見どころは映画『シャイニング』のクライマックスシーンを(勝手に)連想させる逃亡シーンでしょう。夜の闇のなかを子どもを抱えて必死で逃げまどうマルタの姿には手に汗握らずにはいられません。そして仕掛けた罠の伏線……ああ、そんなところに。
「Le Mal du Dieu」(神の障り,1960)
こちらはアンソロジー『en un autre pays』で既読でした。
「Henrietta」(アンリエッタ,1996)★★★☆☆
――「アンリエッタは醜い。不幸の塊だ。まるで魔女だよ」と家族のみんなは言う。その通り。私はそれに気づいた。Ericが馬に乗っているときだった。私が念じた通りに落馬したのだ。幼いJean-Carlesが柵に串刺しになったのも私が念じたからだ。みんな私を怖がるようになった。だがまだだ。私は家に火をつけ、部屋をあとにしようとした……。
著者の怪奇作品には幻想的なものが多く、あまりホラー味の強いものはないのですが、本篇は家族に虐げられたミュータントの復讐という、比較的猟奇的な作品でした。しかも最後は炎で終わるという、ホラーの美意識を感じます。
「Soyez bon pour les animaux」(動物に優しく,1959)★★☆☆☆
――すべての動物は飼い慣らせるという持論を持つVernは、一匹のkalgooを連れて惑星に向かった。だが原住民に怒ったkalgooが口から赤い霧を噴き出した。
それが地球で竜の伝説になりましたとさ、という、本書のなかでももっとも単純な話でした。
「Match contre Vénus」(金星との戦い,1958)★★★☆☆
――Valianは金星を憎んでいた。金星で五年も過ごせば誰だってそうなる。暑くて湿っぽく、人間の住むところじゃない。あと数日で地球に帰れるというある夜、騒ぎに気づいて目を覚ました。どう言えばいいのかわからない。集落は滅茶苦茶になり、炎があがっていた。Valianは手近にあったカヌーに乗り込み逃げ出した。そして手漕ぎで空港を目指している。水がない。水の木と呼ばれる木を見つけて何とか渇きをしのいだ。ようやく空港。だがカウンターには一人しかいない。「どうしたんです?」「聞いてないんですか? 地球で核戦争が起きたんですよ」
金星に対する憎しみやカヌーでの川下りといった、内心の葛藤やサバイバル・サスペンスには信頼できる著者なのですが、安易にオチに核戦争を持ってくる悪い癖があります。
「Le Cube」(キューブ,1959)★★★★☆
――雨が降り続き、水がすべてを飲み込んでいた。やがて水が引くと、被害にあったCerney家の庭で、次女のMarieが四角い箱を見つけた。洪水で流されて来たのだろう。Marieはその箱が願いを叶えてくれることに気づいたが、秘密を知られるのが怖くて誰にも言わずにいた。だが乱暴者のMaximeに侮辱され、Marieは復讐のため夜中にMaximeを呼び出した。Maximeに惚れている姉のLouiseに尾けられているとも知らずに……。
終盤になるまで台詞がなく、冒頭で豪雨による川の氾濫の場面が続くのを読むと、これは災害による破滅を客観描写で描ききった傑作か――と思っていたのですが、豪雨は願いの叶う箱を届ける役目を受け持っていたのでした。もちろん豪雨(川)は最後の場面にも活かされていますが。Marieが願い箱によってそれほど大それたこともしなければ極端な葛藤もないだけに、最後の最後になって立ち現れる台詞の応酬と残虐描写が際立っています。
「Les Derniers jours」(最後の日々,1958)★★☆☆☆
――Manは洞窟から出て来ない。身体も洗わない。私が食べ物を持っていく。昔はPaと三人で暮らしていた。私とPaが食料係。核戦争が始まりそうになり、私たちは町を離れることにした。だが「あいつら」に襲われて、Paは死に、Manは口を聞かなくなった。あいつらさえいなければ……。
著者による核戦争ものはもううんざりです。
「Le Brouillard」(霧,1957)★★★★★
霧が漂っていた。初めはLatour爺さんだった。船に服だけ残して姿を消したので、溺れたのだろうと判断された。次いで、Martin医師が目覚めると、ベッドにパジャマだけを残して妻と娘が消えていた。そして夜ごとに人が消え始めた。Jacquelineが夜道を歩いていると、犬が怯えて走って来た。そこで懐中電灯を向けると……。
人知れず忍び寄る白い影。肉体のあるモンスターも生理的な嫌悪を引き起こしますが、こうした無定型の無生物は防ぎようがないという点で心理的な恐怖を呼び起こします。もっとも、この作品の場合は正体がわかってしまえば対処法があるのですが、もちろん登場人物には人が消える理由は当初わかりません。怯える住民と、妻と娘の敵を討とうとする医師の煩悶につり込まれてしまいます。静寂、それを破る犬の吠え声が奇怪な雰囲気を醸し出していました。
「Rue du Loup-Pendu」(狼縊り通り,1986)★★★★★
――通りの名前の意味も今は失われてしまった。楢通りには木がないし、聞雨通りには錆びた標識があるだけ。だが狼縊り通りだけは別だ。物音に気づいて後ろを振り向くと、巨大な狼がいた。それからも私はその狼に幾度も会った。だがやがて開発の波が……。
Googleで確認すると「Loup Pendu」という地名は実際にあるようです。滅びゆく時代や町並みを懐古した掌篇で、思わずほろりとさせられます。地名の意味を忘れられるどころか、地名そのものすら改称されてしまう日本のことを思うと、悲しくなりました。
「Mon copain Jick」(親友ジック,1957)★★★★☆
――Jickが僕だけに見せてくれた。宇宙船に忍び込んで拾って来たのは、見たこともないほど美しい青い蝶々だった。宇宙の生物は何があるかわからないから危険だ、と僕が言ったせいで、Jickと喧嘩してしまった。幼いCissyが行方不明になってしまったので、安全のためそれきり外にも出られなくなってしまった。【※ネタバレ 「Buny、来てくれないか」窓からJickに呼ばれてついていくと、Jickがナイフを取り出した。「こんなことはしたくないんだ。でもこいつがね、君を殺せって言うんだ」「こいつ? 誰のことだ」「この虫だよ。君が虫のことを危険視するから、殺してしまえって」「Cissyたちを殺したのも君なのか?」「うん。卵を産みつけるんだって」ナイフで腕を切られながら、僕はつるはしをJickの頭に打ち下ろした。逃げ出そうとする青い昆虫を石で何度も何度も何度も何度も押しつぶした。僕は親友を殺してしまった。やらなくてはいけないのは一つだけだ。立ち上がって友人のかたわらを通って外に出て、このことを艦長に報せにいくだけ。なのにそれができなかった。しなくてはならないのに。】
デビュー作「Les Bulles(あわ)」に続く第二作です。「あわ」が少女の一人称だったのに対して、こちらは少年の一人称、しかも友情もの、とあっては期待しようというものです。宇宙からやって来た昆虫がよからぬことをしでかすのだろうということは自明です。しかしこの作品の読みどころは、すべてが終わったあとにありました。最後の一段落で綴られる、少年の苦悶。しかも最後の一文の泣けることと言ったら――「やらなくてはいけないことは一つだけなのに、それができなかった。立ち上がり、Jickのそばを通り、扉を開け、友人の死体を陽のもとにさらすこと。できなかった。でもやらなくてはならないのだ。やらなくては。」本当の最後の最後「Oh maman !」は余計ですけどね。
巻末の短篇リストを見ると、「あわ」の続編「Le Recommencement」という作品があるようです。いずれこれも読んでみようと思います。