『ボウエン幻想短篇集』エリザベス・ボウエン/太田良子訳(国書刊行会)★★★☆☆

 あまりにも訳文が拙く、文意の取れないところがかなりあります。そこにいない第三者の影が漂っているような話が多いので、直訳すると「彼が彼女に彼女の――」といった代名詞の迷宮になってしまい、日本語にしづらい作家なのかもしれませんが。日本オリジナルの Elizabeth Bowen 短篇集。
 

「ラッパ水仙(Daffodils,1923)★★★★★
 ――ミス・マーチソンは花売りの男からラッパ水仙を買った。居間に入り窓を開けた。「暗がりで宿題は直せません」生徒の書いたエッセイはどれも本の引き写しだった。ふと窓の外を見ると生徒たちが歩いていた。

 風に吹かれてスカートがふくらみ水仙の包みが揺れ、バランスを崩した自分の姿をハーレクィンになぞらえて、水仙の包みをコロンビーヌに見立てるミス・マーチソン――。夢見る乙女のきらいはあるけれど、まずは感受性豊か。そのことは乳母車を押す女性を眺め、引用で埋められた生徒の作文を論じるところからも伝わってきます。ところが――。三人の女生徒と話をしても、ミス・マーチソンには恋に恋する多感な乙女心がわかりません。ミス・マーチソンの感受性は生徒の方には向いていないし、もしかすると自分と関わりのある生きた人間にも向いていないかもしれない。そうなると果たしてミス・マーチソンと生徒たち、どちらがどちらとも言えなくなってきてしまいます。
 

「第三者の影」(The Shadowy Third,1923)★★★★☆
 ――大きな歯と飛び出た目をした小男マーティンのことも愛した女が二人いた。だが彼にとって価値のある女はプシーだけ。家はまだ漆喰の匂いがする。戸口にカーテンなどないのに、「彼女」がかけていたときの癖が抜けずに手で払おうとしてしまう。「『誰かさん』がカーテンも選んだの?」とプシーがたずねた。

 先妻の影を意識せざるを得ない後妻。考えてみると再婚とはそういうことなのですよね。初めのうちこそ何気ないふうを装って「誰かさんは」としきりに口に出していますが、いやむしろ名前を呼ばないで腫れ物に触わるようにしているのでしょう、やはり少しずつプレッシャーは恐怖を育み、部屋のなかに不吉な漂わせてしまいます。また旦那さんが先妻のことを嫌っているのが腫れ物を大きくする要因になってしまってます。
 

「死者のための祈り」(Requiescat,1923)★★★★☆
 ――スチュアートはハワード・マジェンティが死んだときはインドにいた。片付けなければならない用事を相談したい、という手紙をミセス・マジェンティからもらい、イタリアのヴィラを訪れた。「ハワードは僕にはすべて話してくれたよ」「どうしてめったに会いにきてくれなかったの?」「インドにいたから」

 友情で結ばれた男と男。そのあいだに入り込んだ女。男Aと女の結婚。そして男Aの死。残された男Bと女の邂逅。ありがちながら何とも際どいシチュエーションです。意識していない素振りをしながら、二人のあいだに何かが生まれることを期待する未練たらしさの垣間見えるところが、やるせないです。
 

「人の悪事をなすや」(The Evil That Men Do,1923)★★★★★
 ――田舎町のはずれに住んでいるご婦人が見慣れぬ筆跡の手紙を受け取った。「あなたが結婚していることは知っています。あなたは詩の朗読会でそろそろと出てきました、森から抜け出した妖精のように――」

 この話では「第三者」がいきなり冒頭で間抜けな死に方をしてしまうので、これはコメディなのだとすぐに見当がつきます。相手の運命も知らずに、許されない火遊びに興じようとする妻。幸せな家庭に破滅が訪れてしまうのか――。まったくそんな心配はありませんでした(^^。
 

「嵐」(The Storm,1926)★★★★★
 ――「そばにこないで。大嫌い!」女はルパートから離れてヴィラの部屋を通り抜けた。オレンジ色のドレスの女が通り過ぎた。あの女はどこに行くのだろう。テラスの下ではデンマーク女たちが話をしている。ヴィラの壁がグラッと傾いたような気がした。

 絆のほつれかけた夫婦が、嵐と幽霊に遭遇した不安から、ふたたび愛情を確かめ合うまでが描かれます。いずこへと消えるドレスの女や、カーテンの陰から現れる修道女といった、「消えない印象を時間に刻印した」者たちの影は、何も主張してはいないし如何なる害もなしませんが、人の心を惹きつけずにはいられません。それが恐怖にせよ安堵にせよ、高ぶった感情は確かに冷やされていました。
 

「奥の客間」(The Back Drawing-Room,1926)★★★★★
 ――アイルランドの従弟を訪問し、自転車を借りて遠出したとき、タイヤをパンクさせてしまったんです。それで通りかかった屋敷の門を叩いたのですが、親しい者を入れる奥の客間に案内されると、そこに啜り泣いている女性がいたんです。

 聞き手が怪談を期待しているために、内容を先回りして口に出して話をぶちこわしにしているのがまずは面白いのですが、それにも増して空気を読めない語り手によってもたらされる静かな痛みが、いつまでも尾を引いて心に刻まれます。
 

「よりどころ」(Foothold,1929)★★★★☆
 ――「クララは見かけたかい?」ジェラルドはトマスにたずねた。「僕は一度も会ったことがないんだ」ジャネットがクララを見たのは、十一月のある午後のことだった。その幽霊は、部屋から出てきてそのまま姿を消したのだ。

 これはきついです。妻の頭がおかしいのかも、という嬉しくもない可能性さえ否定されたジェラルドの心中や察するにあまりあります。
 

「林檎の木」(The Apple Tree,1934)★★★★★
 ――ミセス・ウィングはあの学校にいた――という話だ。その夜ウィング家に泊まったランスロットたちは、サイモンとマイラ夫妻が夜中に図書室にいるのを目撃した。直後サイモンは気絶し、図書室に入ったミセス・ベタスレーは悲鳴をあげて「あれはどう見ても林檎の木よ……」と繰り返した。

 本書のなかでももっとも怪奇色の強い作品です。つらさを知っているはずなのに他人のつらさを踏みにじってしまう少女の残酷性が心を穿ちますが、それさえかすむような林檎の木の存在感と、ミセス・ベタスレーのパワフルさに圧倒されました。幻想小説の世界に土足で踏み込む現実界のおばさんという感じで。
 

「十六番」(No. 16,1941)★★★★☆
 ――ジェイン・オーツはメデューサ・テラスの十六番を訪ねた。初めての詩集をあのマクシミリアン・ビュードンが書評で褒めてくれたうえに、ランチに招待してくれたのだ。

 十五年前から有名ではなくなっていた人間が十六番に住んでいる、というのは、よく考えると、かなり怖い。この作品が幽霊や超常現象を扱った作品なのかどうかは読んでみなければわからない以上、読者としては「次は十六」という可能性を頭の片隅から追い出すことができないまま読み進めざるを得ません。
 

「森の中で」(A Walk in the Woods,1941)★★★★☆
 ――森は人でいっぱいだった。ヘンリーは外套を広げ、キスをした。カーロッタは人妻で、ヘンリーは隣人の下宿人だった。その様子をマフェットとイザベラが目撃していた。「バカみたい!」「おまけに母親みたいな年齢だし」

 若さとはそれだけで残酷なものだ、ということが痛いほどわかります。若いというだけで年老いたものを否定している、と言っても過言ではありません。他人の視線に意識されることで、盲目な恋も目を開かされざるをないというのに、若者本人には残酷だという自覚がゼロなのですよね。
 

「あの薔薇を見てよ」(Look at All Those Roses,1941)★★★★★
 ――車が不気味に揺れ始め、停車した。エドワードは三マイル先のガソリン・スタンドをめざし、ルウは薔薇に囲まれた家にお邪魔した。十三歳ほどの少女が障害者用のベッドに寝ていた。「六年前に背骨を痛めたの。父のせいで」

 薔薇、薔薇、薔薇の命の饗宴を見てしまうと、その命の源がどこにあるのか、を想像するのはいたしたかのないところです。そんな妄想が補強される(果たして補強されているのか?)ラストにぞっとします。母親の目に耐えきれず小道を去った過ちを犯した父親(という妄想)に、ガソリン・スタンドまで歩いていったエドワードを重ねて、もしかするとそのまま戻ってこないのではという不安に駆られるルウ――不安が花咲く何でもないきっかけがどれも印象的で、本書のどの作品にもそうした何気ないけれど忘れがたいシーンが存在していました。
 

「五月はピンクのサンザシ」(Pink May,1945)★★★☆☆
 ――「あの幽霊、よくあたしの寝室に入ってきたんだ。引っ越したのはそのせいじゃないの。ネヴィルが神経質になっててね」「でも君は神経質じゃなかったんだ?」「あたしはハッピーだった」

 幽霊であれ人間であれ、第三者に触れることによって決定的な何かが変わってしまう瞬間を静かに描いているボウエンですが、この作品はピリピリムードがかなり露骨です。
 

「恋人は悪魔」(The Demon Lover,1941)

 金原瑞人編訳『南から来た男 ホラー短編集2』「悪魔の恋人」を読んだばかりなので今回はパスしました。
 

「緑のヒイラギ」(Green Holly,1945)★★★☆☆
 ――ミスタ・ランクストックは幽霊を見た。「羽毛の襟巻きをしていたのは確かです」。ミス・ベイツとミスタ・ウィンタスロウが歌い出した。「やっと何か始まったわね」「あれはヒイラギが風にゆれているだけですよ」「しかし風はありませんよ、今夜は」

 時代遅れの幽霊たちに、クリスマスを祝う老人たち。けれどディケンズの「クリスマス・キャロル」とは違い――そして他のボウエン作品とも違い、誰もがみな驚くほど何も変わりません。
 

「幻のコー」(Mysterious Kôr,1944)★★★★★
 ――満月の光が街を濡らし、偵察していた。一人の娘と一人の兵士が歩いている。「幻のコーだわ。汝が城壁は人知れず聳え立ち……。誰もいない都市なのよ」ペピータは女友だちと二人で住んでいた。コーリーには、今晩ぐらいは外出してやろうという機転がない。

 何気ない出来事による心理的変化を描くことに天賦の才を持つボウエンですが、なかでもこの作品は、引き締まった美しく恐ろしい風景描写による心理描写が冴えに冴えています。
 

「陽気なお化け」(The Cheery Soul,1945)★★★★★
 ――到着すると僕はまずおばさんに会った。レインジャートン‐カーニイ家の三人は留守だった。キッチンには紙が一枚。『三人はここで頭を茹でるがいい』。「コックと怨恨がらみのトラブルでもあったんですか?」

 西崎憲訳「陽気なる魂」とは語り手の性別が違っています。男か女かはともかくとして、ボウエン自身が序文で「登場人物は一人だけが――『幻のコー』のこと――兵士である」と書いている以上、語り手は「クリスマス休暇が出た兵士」ではあり得ないでしょう。ただし終盤は太田訳のほうが読みづらいけれどわかりやすかったです。
 

「闇の中の一日」(A Day in the Dark,1965)★★★★☆
 ――あの四番のテラス・ハウスにミス・バンデリーは住んでいる。借りていた雑誌の返却と、薔薇の花束を届けにと、叔父に頼まれて伐採機を借りに来たのだ。叔父と一緒にいると、性すれすれの絆が切なかった。

 ここにきて意外なほどに乙女な。乗り「損ねた」バスに背を向け、一歩歩み出す語り手の姿が、映画のラストシーンのように胸を打ちます。ここまではっきりとした象徴的な行動が描かれるのは本書では初めてではないでしょうか。
 

「短篇集『恋人は悪魔、その他』序文」
 

「短篇集『セカンド・ゴースト・ブック』序文」
 

「『エリザベス・ボウエン短篇集』序文」
 

「短篇集『闇の中の一日、その他』序文」

 選集である翻訳集ではなかなか読めない序文も収録してくれたのは嬉しいけれど、せめて収録作も併記しておいてほしかった。「短篇のすべては実験なのだ」と言い切っているのが印象的でした。

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