「サロメ」ギヨーム・アポリネール/堀口大學訳(Salomé,Guillaume Apollinaire,1905)★★★★★
――もう一度ジャン・バプチストを微笑させる為になら/王よ 妾《わたし》は熾天使《セラヒイン》より巧みに踊りませう/母よ あなたは何故におさびしいのです/……
固有名詞がフランス語読みのままなのが不自然ではなく必然に思えてしまいます。良くも悪くも訳詩というより完璧に日本の詩、堀口大學の詩となっていました。
「セミラミス女王」中河与一(1941)★★★★★
――饗宴の夜、ニノス王の眼に、ふと一人の美咬が写った。膝の上には白鴿が乗っている。「あれは爾の妻乎」「御意」「今宵より我が睡房に入るであろう」ニノス王の死後、セミラミス女王は各地方に遠征し、至る所に記念碑を建てて凱旋した。
セミラミスの伝説に取材したこの作品の魅力は、何と言ってもその高雅な言葉遣いに尽きるでしょう。こうした言葉で飾られることで、セミラミスその人もなおいっそう凜とした姿を輝かせています。
「シリアの公女たち――ヘリオガバルスをめぐって」多田智満子(1996)★★★★★
――ローマの皇帝のなかでも、最も異彩を放っているのが、〈戴冠せるアナーキスト〉とアナントン・アルトーの名づけた少年皇帝ヘリオガバルスだろう。皇帝セプティミウス・セウェルスが星占いで占って妻としたのが、大伯母ユリア・ドムナであった。
タイトルにあるとおり、皇帝や男をあやつり政治を動かしたバッシアヌス一族の女たちが主役です。権力を求める女たちの利用価値に応じて、皇帝となり、捨てられたヘリオガバルスは、自分の地位すら考えずに好き勝手に生きていたとしか言いようがなく、まさに奇矯、まさに変人。一生をただ追うだけで物語になるような人物です。こういう人だからこそ、女たちが摂政として暗躍できたのでしょう。
「カルル大帝の墓」『ライン河幻想紀行』ヴィクトル・ユゴー/榊原晃三訳(Le Tombeau de Charlemagne,"Le Rhin",Victor Hugo,1842)★★★☆☆
――礼拝堂の暗い一室にカルル大帝の石棺がある。一一六六年のこと、戴冠式のために椅子が必要となったフリードリッヒ・バルバロッサがこの墓所に入り、やはり王冠を戴いたこの遺骸と対面した。
カルル大帝からナポレオンにまで至る、ユゴーによる英雄讃歌。お茶目なジョゼフィーヌと対比された厳粛なナポレオンが輝いています。
「ボアブディル王」『アルハンブラ物語』ワシントン・アーヴィング/江間章子訳(The Court Of Lions/Mementos of Boabdil,"The Tales of Alhambra",Washington Irving,1832)★★★★☆
――あるとき私は〈ライオンの中庭〉でボアブディルの身の上を聞いた。狂人のような父王がまだ少年だったボアブディルを牢屋につないだ。王の不幸な運命はその死でやっと終止符を打つことになる。
塔に幽閉されていた王子を、ともに幽閉されたいた王妃がストールを投げ落として逃がした、という神話だとしか思えないようなエピソードが紹介されていますが、15世紀の実在したグラナダ王のようです。ユゴー「カルル大帝の墓」同様、過ぎ去りし日を見つめる著者の視点が郷愁を誘います。
「王妃イザボー」ヴィリエ・ド・リラダン/釜山健訳(La Reine Ysabeau,Villiers de l'Isle-Adam,1883)★★★★☆
――酒の上とはいえ、当時イザボーの寵臣だったモール司教代理は、大胆にもエスカバラ卿の娘を落としてみせる、という言葉を吐いたのである。問題の言葉は、ルイ・ドルレアンのさしがねで王妃に伝えられた。
本当の権力者は命令したりはしないし、嫉妬したりもしない――少なくとも、そうした感情を表には出さない。マリー・アントワネットらが断頭台で泣き叫ばなかったように、そういう教育を施されて来たのであろう、本物の王侯がいました。
「シャルル十一世の幻想」プロスペル・メリメ/杉捷夫訳(Vision de Charles XI,Prosper Mérimée,1829)★★★★☆
――大広間の窓が光に照らされているように見えた。スウェーデンのシャルル十一世は広間へはいった。雲霞のような大衆が喪服を着けている。玉座には王家の紋章のついた着物を着た死骸が戴っている。右には王冠を戴いた子供。
メリメは冒頭に『ハムレット』を引き、王の見た未来視をあくまで実話だとして絵解きします。過去を見つめるユゴーらの視線とは違い、その時代の現場に分け入って生きているように見つめる視線で、夢のなかの夢というべき不思議な臨場感をたたえていました。
「秦王飲酒」李賀/須永朝彦訳(生791-没817)★★★★☆
――秦の王者は虎に騎り、宇宙の涯に遊ぶ/剣の光芒は空を照らし、天自づから碧し/羲和が日輪を鞭敲てば、玻璃打つが如き音あり/……
とんでもないスケールの漢詩です……が、結局は酒かい、というのが何とも中国らしい。
「文信王」『子不語』袁枚/木下杢太郎訳(生1716-没1797)★★★☆☆
――夢に使者が現れて沈さんを連れてゆきました。前世で軍監の役を務めていた際、総大将が五百人の捕虜を殺した件で、地獄の裁判官・文信王に喚れたのです。
これは変わり種の、地獄の王様の話です。
「還らぬ御幸――随煬帝逸遊召譴」『醒世恒言』馮夢龍/辛島驍訳(隋煬帝逸遊召譴,1627)★★★☆☆
――周の位をうばい、陳を亡した随の文帝は、太子の勇を東宮に立てたが、后の独孤はそれを喜ばなかった。嫡妃をないがしろにした勇よりも、弟の広を推したのだが、この広には裏があり表面をつくろうたちであった。
王や王子の一生を追って比較的短い収録作が多いなかで、本篇はそれなりの長さを持ちます。一国の主たるものを描くのにはやはりある程度の長さがあったほうがいいのだろうと思っていたのですが、不思議なもので間延びしてしまう印象はぬぐえません。煬帝というと暴君というイメージがあったのですが、ここに描かれいてる広は狡賢く自分勝手で野放図ではあるものの、暴君というほどには感じられませんでした。
「実朝」安西均(1958)★★★★★
――その目は煙らない/その目は寂しい沖にとどく/遙かなる実存の小島へ/その目は ずい! と接近する/それから島のまわりで/波が音もなくよろめいているのを/……
源実朝の詠んだ著名な歌「箱根路をわが越えくれば伊豆の海や沖の小島に波の寄る見ゆ」「大海の磯もとどろに寄する波割れて砕けて裂けて散るかも」を元にしたであろう詩。この歌を詠んだ実朝が実際にどのように小島や波を眺めていたのか、憧れと怨嗟に満ちた実朝の視線を追体験することで、その昏々とした眼差しに戦慄を覚えます。
「天皇異聞」『古事談』源顕兼/須永朝彦訳(1212-1215)★★★★☆
――称徳天皇は道鏡の陰茎をなお不足と思し召し、薯蕷を以て陰形を作り給うた。/晴明は那智の千日の行人である。花山院が御在位の時、頭風を煩い給うた。
天皇の威光や奇談や怪異体験をいくつか抜き出したもの。遺体を仇敵に見せたくないという鳥羽院の気持は、譲れないプライドなのか醜い争いなのか。
「三つの髑髏」澁澤龍彦(1979)★★★★☆
――ごく若い時分からの持病である頭風が花山院を悩ませた。晴明はすでに七十数歳だったはずであるが、年齢どころか性までも分明ならざるものになっていた。「おそれながら前生の小舎人の髑髏が竹林に落ち込み、竹の根が髑髏を突きたてまつっているのでございましょう」
伝記エッセイから地続きですうっと小説に滑り込むので、まるで本当にあったことであるかのようにさえ感じられます。「頼朝公十四歳の髑髏」を(怪奇幻想小説的に)現実として処理した作品です。自分の体験談を自分の前世と重ねるというより紛ううちに、とうとう時間自体がねじれてしまう――というよりも、初めからすべては幻だったのか――。
「花山院」三島由紀夫(1941)★★★★☆
――弘徽殿の女御に急逝され、うちしめったご様子の十九歳の帝に、道兼は「わたくしもお供して仏門に入りますから」などと殊勝げに騙り奉った。帝がたまたま晴明の家の前をお通りになったとき、中から晴明の声が聞こえた。
花山院を描いた三作が続いています。早々と退位させられてしまった天皇であるだけに、名君とも暴君とも評価されることなく、澁澤にしても三島にしても見つめる視線はとても優しい。そして院にとっては出家した方が幸せだったという思いも共通しています。
「二代の后」『平家物語』須永朝彦訳(鎌倉時代成立)★★★☆☆
――故近衛院の后にて、後に太皇太后宮と申し上げた方は、先帝に先立たれ給うた後は、九重を退かれ、近衛河原の御所に移り住み給うた。然し、天下第一の美人との聞えが高きゆえ、主上は色にのみ耽り給う御心から、御艶書を贈り給うた。
伝記的事実がつらつらと書き連ねられたあとに、后の感情が語られ、そして二つの和歌が挟まれるという、徐々に気持が高まってゆく構成が取られていました。地の文は長い詞書きのようなもので、こんなところに歌物語もまだ生き残っていたようです。
「草枕の露――最後の群行 緂子内親王」山中智恵子(1993)?????
――斎宮は元弘三年に卜定された後醍醐天皇皇女祥子内親王をもって廃絶したが、まことに群行を遂げて、伊勢へ赴いた斎王は、後嵯峨上皇皇女緂子を内親王をもって終焉する。
大半を引用が占めるという奇っ怪な略伝です。
「君主との交友」サン・ジョン・ペルス/多田智満子訳(Amitié du prince,Saint-John Perse,1924)★★★★☆
――そしてあなた、精神の刃にふさわしい以上に痩せておられる、われらの間にあって鼻翼の薄いお方、おおいとも痩せた、鋭敏なお方! 包帯を巻いた樹のように、警句を身にまとうた君主よ
散文詩。交友というよりも一方的な讃歌であり、語り手が何者なのか、君主とは何を指しているのか、如何様にも解釈しうるよな作品でした。
「王様の背中」内田百間(1934)★★★★☆
――王様の背中が急に痒くなりました。初めは手を入れて掻きましたが、痒いのは手のとどくところよりもつと下のやうでした。犬が自分の足で掻いて居るのを見て、王様は犬がうらやましくなりました。
赤い洗面器のような、内容が気になって仕方がないという型の話というのがありますが、これもタイプは違えどかゆさが気になって仕方がない話です。しかも王様ときたら困るのは自分の背中だけでいてくれたらいいのに、鴉や鮒はかゆくなったらどうするんだろう?などという新たな謎まで提出してくれちゃいました。
「夜の好きな王様の話」稲垣足穂(1927)★★★☆☆
――憂鬱病を癒すための若い王の度外れな道楽がようやく非難の的になっていた。若い王は、自然の祭壇に「夜」を送りこんで、自分は「朝日の国」へ旅立とう、と決心した。
掌篇集『ヰタ・マキニカリス』より。
「ハーマン癇癪王」サキ/中西秀男(Hermann the Irascible,Saki,1911)
ちくま文庫『ベスト・オブ・サキI』にて読んだことがあります。
「若い王」オスカー・ワイルド/西村孝次訳(The Young King,Oscar Wilde,1891)★★★☆☆
――戴冠式の前の晩のことでした。若い王は夢を見ました。貧しい織り子が王様の服を織っていたのです。礼服や王冠を身につけぬといわれ、廷臣たちは唖然としました。
群衆のひとりが言った台詞に、公共事業で雇用促進しかできないどこぞの国を連想してしまいました。この世の理では受け入れられないほどの美しい心の持ち主だったのでしょう。
「死の勝利」ヒョードル・ソログープ/昇曙夢訳(Победа Смерти,Фёдор Сологуб,1907)★★★★☆
――王妃の腰元マリギスタは娘のアリギスタを跛のベルタ王妃の代わりに輿入れさせようと企み、まんまと入れ替わりに成功する。だがベルタの兄エテリベルトが歌うたいを装って王に近づき……。
カール大帝の母親に関する伝説をもとにした戯曲。報われない美は死をもって完結す。自分に酔っています、よねえ。
「ツーレの王」ヨーハン・ヴォルフガング・ゲーテ/竹山道雄訳(Der König in Thule,Johann Wolfgang von Goethe,1774)★★★★☆
――昔ツーレに王ありき。/奥津城までもと契りにし/嬪《きさき》は黄金の杯を/遺してあはれみまかりぬ。/こよなき宝と惜しみつつ/宴の度に乾しにけり。/……
詩。これもまた実際の伝説か何かをもとにしているのでしょうか。個人のセンチメンタルな感情に過ぎなかったものが、王家の歴史に連なるような象徴になってゆくのを見ると、庶民には真似できない大きさを感じます。
「月の王」ギヨーム・アポリネール/鈴木豊訳(Le Roi-Lune,Guillaume Apllinaire,1916)
ちくま文庫の『幻想小説神髄』で窪田般彌訳を読んだばかりなのでパス。
「白鳥王の夢と真実 ルートヴィヒII世とオペラ」須永朝彦(1989)★★★★☆
――一八八三年、リヒャルト・ワーグナーが功成り名遂げてヴェネチアで客死した時、バイエルン国王ルートヴィヒII世は「世界中の人々がその死を悼んでいる偉大な芸術家を最初に認めたのは私だ」と廷臣に語ったという。
ルートヴィヒ二世についてのエッセイ。国王には音楽の才能がなかった、というのがいかにも何ともな話です。
「戴冠詩人」森鴎外(1914)★★★★☆
――古来帝王后妃と云われる方方が同時に詩人を以て聞えたと云うことは、極めて罕である。現今のところで他の国々を見渡すに、ルウメニアの妃Carmen Sylviaと云う方が只一人詩人の誉れを有しておられるだけである。
乃木希典と親交があったという、軍人としての森鴎外を知ることのできる一篇。
「カイゼルの白書」久生十蘭(1939)
久生十蘭全集で既読。
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