『私のいた場所』リュドミラ・ペトルシェフスカヤ/沼野恭子編訳(河出書房新社)★★★★★

 『Где я была』Людмила Петрушевская,2002/2009年。

 河出『東欧怪談集』にも四篇が収録されていた幻想作家の、日本オリジナル短篇集。
 

「第一章 不思議な場所」(Чудное место)

「私のいた場所」(Где я была,2000)
 ――命が、幸せが、愛が身体からすっと抜けてゆく。夫が若い娘を踊りに誘っていた。別荘を持っているアーニャおばさんのところに行ってみよう。幼いマリンカもいるはずだ。なのにユーリャを待っていたのは、アーニャおばさんの冷たい言葉だった。

 この作品で心を揺さぶるのは、臨死体験などではなく、主人公の繊細さと鈍感さでしょう。発作的に失踪を思い立つかと思えば、五年ものあいだ忘れていた場所に避難所を求めようとする、あまりにも不安定な精神。ドアの閉ざされた家に忍び込もうとしてわざわざ梯子を持ち出す行動力があるあたり、自分が何をやっているのかわかっていない心神喪失状態がよく描かれています。
 

「家にだれかいる」(В доме кто-то есть,2000)
 ――家にだれかいることははっきりしている。「どうしたの?」女はネコに話しかける。がしゃん! また寝室で物が落ちた。レコードの棚がベッドの上に崩れたのだ。

 さて「私のいた場所」のあとに読むと、果たして語り手が病んでいるのか、ほんとうに何かがいるのか、あっさり判断することに躊躇いを覚えます。床がなるのは上の階や下の階に人が住んでいる証拠であり、「これこそ暮らしなのよ」――それはその通りなのですが、そんな当たり前のことに到達するまでになんという回り道をしたことか。
 

「噴水のある家」(Дом с фонтаном,2000)
 ――家族そろってバスに乗っていたら爆発が起き、娘はどう見ても死んでいたが、司法上の手続きの問題で、遺体を引き取れる段階ではないという。父親は霊安室から娘を盗み出そうと心に決めた。

 やはり彼岸と此岸のあわいは不確かなれど、主人公が明確な意思を持っている、という点で、これまでの二作とは異なる作品でした。だからこの作品は、娘を救った父親の物語、のよう――ですが、それでもやはり父親の心象風景はカツサンドに挟まれた生の心臓を喰らうという異様な形を取るのでした。
 

「新しい魂」(Новая душа,2000)
 ――息子が徴兵されるという報せに、父である男は大急ぎで駆けつけた。息子の袖をつかむや、気がつくとアメリカにいて、うだつのあがらない移民グリーシャになっていた。

 比較的コメディ色の強い作品で、大筋では死んだ瞬間転生してその後ふたたび家族と再会するという話なのですが、変なアメリカの精神病院の描写があって、どこか笑えました。
 

「第二章 東スラヴ人の歌」(Песни восточных славян)

「ソコリニキの出来事」(Случай в Сокольниках,1990)
 ――飛行機が撃ち落さた夫の葬儀が執り行われたが、なんと夫は葬られてはいなかった。爆破で投げ出された際にもう戦線には戻らないと決めたのだ。ふたりはひそかに暮らし始めたが、森に捨ててきた軍装品を埋めに行かなければならないと夫が言いだした。

 冬が来て雪に埋もれない前までの、束の間の生活。とはいえ「防空壕を掘るようにとの召集令状」が来て「掘削作業」に慣れたあとでの出来事というのがブラックです。
 

「手」(Рука,1990)
 ――戦争中、大佐のもとへ妻から「寂しいの。帰ってきて」という手紙がきた。大佐は休暇を取ったが、到着する一時間前に妻は息を引き取っていた。あとで大佐は党員証をなくしたことに気づいたが、妻が夢に出てきて「私のお墓の中。キスしたときに落ちたんです」と言った。

 『東欧怪談集』所収。オルフェウスの冥府訪問の型に、飛行士たちのあいだに伝わる怪談のような怪異をミックスした作品です。妻にとっては、蛆をはらう夫の優しさよりも、蛆を見られる恥ずかしさのほうが勝ったのでしょう。死者の操縦する飛行機に連れ去られながらも、死者の世界へ持っていかれたのはヴェールをめくった片手だけだったのは、不幸中の幸いでした。
 

「母の挨拶」(Материнский привет,1990)
 ――母の死後、オレーグは自分が父の子ではないことを知った。姉の仄めかしは事実だったのだ。オレーグはショックで衰弱してしまった。軍隊では、収容所を逃げ出した犯人と間違えて別人を殺してしまった。

 『東欧怪談集』所収。ジェントル・ゴースト・ストーリーに、著者の得意とする妄想を組み合わせた作品。とはいえ、ショックで衰弱したのではなく、衰弱したからこそショックを受けるようなことを考えたのだ――ということは、オレーグ視点からでは読者にもわからず、妄想であることがあとからわかるようになっているのは、第一章の諸作とははっきり異なっています。
 

「新開発地区」(Новый район,1990)
 ――女に子どもが出来たので、ワシーリイは恋人を捨てて女と結婚せざるを得ない状況に追い込まれた。子どもは死産だったので、妻は二人目を作ろうと必死になった。娘が生まれるとワシーリイは妻を殺して指を切り取った。

 『東欧怪談集』所収。これも「どこそこの建築現場には死体が埋められている」というような都市伝説のようなネタが扱われています。罪の意識に耐えかねて――ということなのでしょうが、娘への愛情を喩える比較表現のなかで初めて殺人に触れられる時点ですでにいろいろ狂っている――というより、その後娘が出てこないことを考えると、殺人を導くために娘への愛情を引き合いに出したふうがあり、著者もいろいろ狂っています。
 

「小さなアパートで」(В маленьком доме,1990)
 ――ヴェーラという娘は、許婚ヴィーチャが戦死したと触れ回っていたが、これが許婚でもなんでもなく同じアパートの住人にすぎなかった。ヴェーラはさも許婚だったかのように話し、今ではボイラー焚き女のスチェーシャが住んでいる彼の部屋からラジオや蓄音機を持ち出そうとするようになった。

 『東欧怪談集』所収。なぜ椅子と踊っていたヴェーラが新年と同時に固まったのか、スチェーシャは軍の曹長に何を話したのか、床や鍵穴から吹き出した血はいったい何なのか、謎があり怪異は解決されたように見えるものの、細かいところでわからない部分が残ります。
 

「復讐」(Месть,1990)
 ――ある女が、アパートの隣に住むシングルマザーを憎んでいた。子供が大きくなるにしたがって、女はまるで偶然のように熱湯や苛性ソーダ液の入った容器を置いたりするようになった。

 収録作のなかではかなり現実寄りの作品で、隣人へのいわれなき嫌悪はどこにでも潜んでいそうです。
 

「第三章 お伽噺」(Сказки)

「母さんキャベツ」(Матушка-капуста,1993)
 ――ある女にそれはそれは小さな女の子がいて、キャベリーナという名前だった。成長しないため医者に診せたところ、隠者を紹介された。「その子を拾ったところに戻さねばならん」

 赤ん坊はキャベツから生まれてくる。それをそのまま描いた――わけではなく、かぐや姫型のお伽噺にいったん落とし込んでから、結局はやっぱり赤ん坊が生まれるという、不思議な遠回りの作品です。
 

「父」(Отец,1989)
 ――あるところに、どうしても自分の子供を見つけられない父親がいた。おばあさんに言われ駅に向かったが、雪が激しくなってきたため農家に横になった。ドアを叩く音が聞こえて、入ってきたのは小さな男の子だった。

 子どもの存在は、結果ではなく、あらかじめ定められた未来に向かって収斂するゴールのようです。著者のこうした生命観は「新しい魂」にも見られました。
 

「アンナとマリヤ」(Анна и Мария,1993)
 ――助けた魔女に男は言われた。「誰でも助けることができるが、愛する人だけは助けることができない」夏がやってきた。愛する妻が死にそうになった。優しくて美しい善良な妻アンナである。

 果たして何をもって「その人」だとするのか。結局のところ男は妻を助けることはできたのでしょうか。愛についてはもちろん、人間とは何かをも問い直されることになる作品でした。運命に翻弄される妻のはかなさと、妻を思う夫の一途な気持に打たれます。
 

「老修道士の遺言」(Завещание старого монаха,2000)
 ――その若者は判事の息子であったため、盗みや殺しを働いても見逃された。夫を殺された母親はどうすることもできずに物乞いをしていたが、そこに修道士がやってきた。「明日の朝、大きな岩のあるところで会おう。私はナイフを持って横たわっているだろう……」

 本書のなかでは当たり前の(に思えてくる)奇跡譚。
 

「第四章 死の王国」(Царство смерти)

「ふたつの王国」(Два царства,1990)
 ――リーナはこれほど長時間、遠くまで飛行機で旅行したことはなかった。ここではみながワーシャと同じような格好をしていた。やがてリーナが現地の人と同じように飛ぶ技を身につける時がやってきた。

 この第四章で、第一章のような生と死のあわいを往還する作品に戻ります。
 

「生の暗闇」(Тень жизни,1993)
 ――ジェーニャはおとなしくて感じのいい子に育ち、若い男ができたが、ジェーニャの存在を知った奥さんが言うには、夫が一時的に別居しているのは性病にかかったから。検査結果は異常なしだった。人の生には獣じみた秘密の部分があって、お母さんは「生の暗闇」に足を踏み入れてしまったのではないだろうか。

「奇跡」(Чудо,1995)
 ――ある女の息子が首を吊った。医者は狂言自殺だと言った。スーツケースの中身が空になっていた。「息子は私のお金を盗んだんです」

「黒いコート」(Черное пальто,1995)
 ――娘はトラックに乗せてもらった。運転手の連れの顔はフードに隠れてまったく見えない。娘にお金の当てはない。最初に開けた部屋に入れたのは運がいい。「助けてください」「奥へは行けないわ。歩いたらマッチが消えちゃうもの」「私、マッチ持ってます」「目覚められればいいんだけど……」

 祈りで終わるこの作品で締めくくられるのがとても居心地がいい。

 怪談好きなので「東スラヴ人の歌」のほか、あまりにも哀れで悲しすぎる「アンナとマリヤ」が好みでした。

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