すべて初訳の日本オリジナル短篇集第一弾。
「謀之巻 はかりごと」
「儲けは山分け」高橋知子訳(Body Check,1981)★★★★☆
――「まちがいなくレイゼンウェルを殺したのか?」「一発でしとめた」「マスコミがふれてないということは、まだ死体が発見されてないんじゃないか?」おれはレイゼンウェルの自宅に電話してみることにした。
優秀な秘書がいるがゆえに――実際実務は部下がなんてのはよくある話ですが、殺し屋もそこまでは読んでいたのに、真相はもっと単純なものでした。ターンバックルものにも出来そうなネタですが、登場するのが警官と犯人ではなく殺し屋と秘書だったために、邦題のごとくなった次第です。
「寝た子を起こすな」高橋知子訳(Take Another Look,1971)★★★☆☆
――「ヘンリー、きみの仕事は二十五年以上も寝かされていた事件を再検分することだ」ブラノン夫人の悲鳴。家の裏から黒い人影。夫のデニス・ブラノンは双子の弟のところにいた。夫人には「特別な」友人がいた。
ターンバックルものの第一作。とはいえこの作品では姓はバックルです。推理小説的なものの考え方をするバックルには自明のことでも、警察や世間にはそうとはかぎりません。たとえそれが真実であっても……。しかしまあ、三十年前のそんな些細なことをほじくり返されたら、犯人であろうとなかろうと、この作品の関係者のような反応をするのが当然だとは思います。
「ABC連続殺人事件」高橋知子訳(The Alphabet Murders,1980)★★★☆☆
――最初の死体はホームレスだった。額には大文字のA。次は谷あいの産業地区で頭を殴られ、額にBのある死体が見つかった。凶器は発見されていない。翌朝、自宅の書斎で見つかった死体の額にはCと書かれていた。
この作品では犯人の方がターンバックルと同じ思考の持ち主だったために、ターンバックルの名推理は現実に裏切られることはありませんでした。しかるがゆえに事件そのものはかの著名作そのまんまな事件です。しかし推理小説的な思考回路は犯人とターンバックルのあいだだけの話。一般人には通じないところにおかしみがあります。ラルフとターンバックルのでこぼこ推理(?)合戦が楽しい一篇です。
「もう一つのメッセージ」高橋知子訳(The Message in the Message,1981)★★★★☆
――「四年前そこのボートハウスで殺された父は、床板にアルファベット全二十六文字を刻んでました。そう言えば、Zのあとにピリオドが打たれていました」
一つには、ダイイング・メッセージなど解けなくても事件は解決できるし、警察にとっても一般人にとっても無意味なものである。もう一つ、ダイイング・メッセージは解けても犯人を間違えてしまう――という点をもって、ターンバックルもののなかでも推理小説パロディ色の強い作品です。ターンバックルが学生時代にオールをかついだというエピソードの方が、作中人物にとっては(読者にとっても?)気になるようです(そりゃそうです。だって事件は……)。
「学問の道」松下祥子訳(Living by Degrees,1971)★★★☆☆
――百年近く前にヘンリー・マクスターソンの遺言によって、マクスターソンの名を持つ者を一時に一人だけ大学に行かせるための信託基金が設立された。「ここの学生になって何年なの?」「およそ三十五年だ」わたしはロニーの問いに答えた。
遺産を求めて殺し合い――ではなく化かし合い。ネタが奇抜なだけに却って真実は意外と現実的。一度は殺されかけた相手に「まあとにかく、あなたは僕を助けてくれた。」と言うほどおおらかな人たちだからこその結末です。
「マッコイ一等兵の南北戦争」松下祥子訳(McCoy's Private Feud,1967)★★★☆☆
――「壁に貼ってあるのはなんだね?」ターナー大尉の目が険しくなった。「南軍の旗であります」マッコイ一等兵は言った。「戦争に勝ったのはどっちか、いまだに頭に入ってないやつがいる」大尉は炊事場使役五日の罰を命じた。
アメリカネタが散りばめられているのでわかりづらい。思わせぶりな行動を取って相手の想像力を悪用するという復讐方法自体はありふれたものですが、それを大尉の昇進欲やマッコイの知能と結束しているところに工夫がありました。
「リヒテンシュタインの盗塁王」小鷹信光訳(The Liechtenstein Flash,1983)★★★☆☆
――交換留学生としてリヒテンシュタインからやって来たラドウィックは、背は小さく非力だが盗塁が得意だった。内野安打と四球で塁に出ればすかさず盗塁をし、ぼくらは開幕八連勝をやってのけた。
得意な勝利パターンに対策を立てられて打開策を模索するように、なるほどスポーツの試合運びは「謀」に通じますが、そこはそれ、待ち受けているのはちょっととぼけた「解決」でした。
「迷之巻 まよう」
「下ですか?」小鷹信光訳(Going Dwon?,1965)★★★☆☆
――消防士たちが眼下で救助ネットを吊るしはじめている。「飛び降りることで解決しようとしている悩みは何だ?」私にしゃべらせつづけるのも、この刑事の仕事なのだ。「悩みなどない。私は凡人であり落伍者だ」「カミさんのことで悩んでいるのか? おれの女房なんか――」
説得のはずがいつしか本気の駄目自慢合戦に。そこまでなら予想の範囲内でしたが、まさかその先まで本当に行ってしまうとは。衝撃的ではありますが、ちゃんと一行目から伏線はありました。ただでさえ可哀相なのに、こんな駄目な人に同情されてしまうのがさらに可哀相です。
「隠しカメラは知っていた」高橋知子訳(The Quiet Eye,1964)★★★☆☆
――ミス・ダンカンが行員をしている銀行が強盗に押し入られた。警報装置は怖くて踏めなかったが、監視カメラの作動ボタンを踏んだので、一部始終が撮影されているはずだ。わたしは鑑識にフィルムを届けに向かった。
本格ミステリ作家が雪密室で四苦八苦しているなか、雪にはこんな使い方もあったんですね。本格プロパーではないからこその発想です。
「味を隠せ」高橋知子訳(Kill the Taste,1964)★★★★☆
――ノラは夫のそばにあるテーブルにグラスを置いた。「薬よ、ハロルド」 ハロルドはグラスを手に取った。「何がはいっているんだ?」「レモン果汁よ」「そのほかにだ」「ただの薬よ。飲んだって毒にはならないわ」
まさしく嘘偽りなく「味を隠す」話なのです。
「ジェミニ74号でのチェス・ゲーム」小鷹信光訳(Gemini74,1966)★★★★☆
――「われわれは人工衛星の軌道上で競われる初めてのチェス・ゲームを開始しようとしています」と、オルロフ宇宙飛行士が宣言した。「チェスのことはよく知らない」とわたしは言った。「最初の勝利を得るのは誰か? アメリカ人なのか、ロシア人なのか?」
オチには先例があるそうです。アメリカとロシアだからこそ、いったん「えっ」と思わせたあとだからこそ、のオチなので、フレドリック・ブラウンの方がどう料理しているのかも気になります。
「戯之巻 たわむれ」
「金の卵」高橋知子訳(The Golden Goose,1982)★★★☆☆
――「マグレガー氏が三十五年前に勘当した娘がいまどこにいるのか捜してほしい。マグレガー氏は昔を悔いて、遺産を娘と孫に遺したがっていえる。前金として二千ドル渡しておこう」マグレガー氏の弁護士はそう言った。
ちいっとばかし調査を水増ししようとするような小悪党の話で、こんなオチが待ち受けているとは、まさか思いませんでした。
「子供のお手柄」松下祥子訳(By Child Undone,1967)★★★★☆
――ヘンリー・ウィルソンが深夜帰宅したとき、背後から一発撃たれ、死亡した。ジョージ・クリントンは翌日の夜、同じように死亡。やがて警察署に手紙が届いた。「念のため勧告する。弾丸を比較してみろ。同じ銃から発射されたものだ」。二人は知り合いだったのか? 共通点の見つからないまま、第三の殺人が起こった。
まさしく子どもだからこその知識です。子どもを絡めなければ、ただの隙間知識クイズになりかねないところですが、いかにも子どもはこういうことを知っていそうというのがこの作品のポイントだと思います。
「ビッグ・トニーの三人娘」松下祥子訳(Big Tony,1966)★★★☆☆
――「うちの三人娘もそろそろ嫁にいく年ごろだ。その実現はおまえに任せる」ビッグ・トニーは右腕のオブライエンに命じた。娘は三人とも美人に育った。恋人もいる。だが成り上がりものの悪人ビッグ・トニーの娘を嫁にとることに賛成する親がいないのだ。
編者の小鷹氏は「ロマンス小説」と名づけていますが、特に分け隔てる必要はない知恵と頓知にあふれた軽妙な作品です。その対象が犯罪か、それとも三人娘の嫁ぎ先か、という違いはありますが。
「ポンコツから愛をこめて」松下祥子訳(Approximately Yours,1965)★★★☆☆
――観光客の女の子が絵葉書を書いている。「これ、なに?」「自動車」ホールディングはむっとして答えた。「あなたがこいつを組み立てたの?」この創造物を「こいつ」呼ばわりされるなんて。ホールディングは咳払いして立ち去った。ところがおぼれかけたところをその娘に救われて……。
はじめはいがみ合い、次にすれ違い……という典型的なラブコメですが、なれそめがおよそ奇っ怪な改造車だというのがふるっています。
「驚之巻 おどろき」
「殺人境界線」小鷹信光訳(Killing Zone,1966)★★★☆☆
――「ハリーをどこでカタづけようか? イリノイでは死刑は電気椅子、ウィスコンシンには死刑制度がない」「監房で死ぬまで暮らすことに比べれば、電気椅子なんぞへっちゃらだ」「俺は電気椅子はごめんだ」言い合うビッグ・ジョーとライリーにおれは頼んだ。「最後におふくろに手紙を送りたい」
解説にもあるとおり『ミステリマガジン』2013年9月号掲載作と同じネタが用いられています。殺人を扱った本編よりも誘拐を扱った掲載作の方が説得力があってスマートでした。
「最初の客」小鷹信光訳(Businessman,1965)★★★★☆
――品物に値段が記されていないことに気づいた。「少々お待ちください」私は客に告げた。「三十六セントです」そのあと私は野菜売り場へ近づき、今夜最後の客が買い物を終えるのを待った。「ほかには何か?」「そうだな」男の手には拳銃が握られていた。「レジを空っぽにしてもらえるかな」
あるいは、小売店で働いている人なら、なにかおかしいと瞬時に気づいてしまうのかもしれません(パン屋の店員のレジ打ちを見るにつけても)。が、そうではないわたしは、さり気ない描写に舌を巻かざるを得ませんでした。
「仇討ち」松下祥子訳(The One to Do It,1954)★★★★☆
――やぶの陰に隠れて発砲姿勢を取った。カービン銃をしっかり固定しておきたかった。ジム・ベイリーを一撃で仕留めたかった。今なら撃てる。そうすれば、兄を殺した男が死んだと満足して、父の牧場に帰れる。だが、ふとためらった。背後から撃ちたくはなかった。
決闘は認められても殺人は認められていないという時代を背景に、殺すことへの良心の咎めと、晴らせなかった恨みへの心残りを描いた、西部小説。最後に仕掛けられた小さなサプライズも、西部小説だからこそより効果的になっています。
「保安官が歩いた日」高橋知子訳(When the Sheriff Walked,1974)★★★★☆
――「つまりジョーイ・リーは死んでるってことかい?」男は大仰に肩をすくめた。「そう考えてる者はいる。いなくなったのは一週間前で、関連がありそうなのはパトロールカーのタイヤについた泥くらいだ」「どうして公にしない?」「保安官は性根が腐ってる。やつにたてつこうなんて誰も思わない」
行間を読み取るという無意識の行為を逆手に取った作品で、読者はもちろん探偵役も、それどころか当事者たちも騙されている(信じ込んでいる)ところが面白い作品でした。シリアスな作風なだけにそれがいっそうの効果を上げています。パトカーを私物化している保安官がその日に限って歩いたという疑惑も魅力的です。「ジョーイ・リーのことは誰にもいっさい訊いてない。それどころか、こっちのほうがこの町に足を踏みいれてからずっと質問攻めにあっている」という台詞がハードボイルドな台詞でも何でもなく、文字通りの意味だったことも驚きです。いかにも田舎暮らしの住民らしい噂好きのたまものなのですが、田舎というのにもしっかり意味があったことがわかるオチが秀逸です。
「怪之巻 あやし」
「猿男」松下祥子訳(Ape Man,1955)★★★☆☆
――通りすがりの女子高生がおれを見て目を丸くした。おれは部屋で休み、そのあとアリーナへ行った。リングの上で相手はおれと目を合わせようとせず、足を神経質そうに前後させている。誰もがおびえきって出てくる。いやになる。
単なる「美女と野獣」ではなく、野獣の側も戦略的に非文化性を打ち出しているのが現代的です。
「三つ目の願いごと」小鷹信光訳(The Rules of the Game,1981)★★★☆☆
――川に目をやると、明らかに溺れている人の姿があった。「大丈夫かね?」「まあ、とにかく命を救ってくれました。三つの願いごとを叶えてさしあげます」私は左右に目を配った。テレビ・カメラはどこに隠れているのか?「手始めに体を乾かしたいものだね」
お馴染み「三つの願い」のバリエーションですが、知恵を絞った願い事の叶え方よりも、すっとぼけた導入のほうに魅力を感じました。そりゃあ魔人だって黙って待っちゃいられないもの。
「フレディー」松下祥子訳(Freddie,1974)★★★☆☆
――運転中に神経痛に見舞われ、居酒屋兼ホテルで車をとめた。ビールにはアレルギー気味だが、飲み干しても影響はなかった。夜中に目が覚めた。チャーリーと呼ばれていた客がいた。「ご出発ですか?」「みんなが眠っているあいだにね」チャーリーはドアを開け、中へ消えた。明かりは消え、建物は闇に包まれた。
穏やかな余生を送らせてもらう見返りに、最後には痛みも意識もなく宇宙人の食料となる――自分がそのとき置かれている条件によっては、魅力的でしょうか。宇宙人がいい奴であればなおのこと……。
「ダヴェンポート」小鷹信光訳(The Davenport,1979)★★★☆☆
――「ご主人がいなくなってからどれくらいたつのですか?」「けさの十時からよ。いつものようにそのダヴェンポートの上で横になってたわ。郵便受けを見に行って、戻ってきたらいなくなってたの」
びっくりするほど何のひねりもないのですが、絵に描いたようなおばちゃんとやる気のない警官のやり取りがあるからこそ、警官は横になってしまうわけで、だからこそこのオチがあるわけで、ひねりがないながらしっかりとした構成です。