『江戸の妖怪革命』香川雅信(角川文庫ソフィア)★★★★☆

 河出書房新社から出ていた単行本を削除改訂したもの。「妖怪玩具」「からくり的」の章が削除され、「妖怪娯楽の近代」後半が大幅に改訂されています。

 伝承妖怪とフィクションの妖怪のあいだに横たわる関係性を起点として近世と近代の二度にわたる「妖怪革命」を論じたもので、伝承の伝え手は犬神の姿形を知らないことや、伝承とフィクションの見越入道の違いなど、基本的ながら盲を開かれる記述も多々ありました。

 P.77で紹介されている『天狗通』に書かれた、論理的(?)な狸の正体には素直に感心させられました。

 P.79にある「化物蝋燭」など、実際に使ってみたいではありませんか。

 P.92以降では「怪談狂言」が取り扱われています。『四谷怪談』ばかりが有名になってしまいましたが、こうして時間軸に沿って説明されると、『四谷怪談』の価値がよくわかります。

 P.110には『怪談見聞実記(かいだんけんもんじっき)』(1780)なる「種明かし本」が登場。轆轤首の話など面白い。

 P.168からは『画本纂怪興(えほんさんかいきょう)』をはじめとしたパロディ本が紹介されています。『纂怪興』はパロディといえどもなかなか。本家『画図百鬼夜行』のスタイルを上手く模倣しています。

 そしてここからが面白いのです。現代の我々から見ると、『画図百鬼夜行』(1791)という「本家」があって、それから「パロディ」が出てきた――と思ってしまいがちですが、実は『百慕々語(ひゃくぼぼがたり)』(1771)という春画集、『当世故事附選怪興(とうせいこじつけせんかいきょう)』(1775)という「妖怪事典」の方が先に登場していたという事実には驚きました。妖怪図鑑とはそもそもがパロディだったのです。「妖怪画集」という観点からすると、オリジナリティにもビジュアル的な魅力にも乏しいと感じる『百鬼徒然袋』も、パロディ‐ことば遊びという流れで見ると、ああいう内容になったのは必然だったのだと何度も首肯してしまいました。

 そして最終章は近現代篇。「江戸時代の人々にとっては、死者の霊が再び姿を現わすよりも、狐や狸が人を化かすことのほうがはるかにリアルだった」が、「現代の日本人は、『妖怪』にはもはやリアリティを感じないが、『幽霊』はいまだリアルなものとして認めている」のは、「妖怪が『自然』に対する畏怖にかかわるものであるのに対して、幽霊は『人間』に対する恐怖にかかわるものであるからだ」として、「近世の怪談や随筆に記された妖怪や幽霊は、誰の目にも明らかな形であらわれ、おのが姿を目にする者の資格を問わなかった」のに対して現代では「『霊感』の強い人間が、他の人間には見えない恐ろしいもの(とりわけ幽霊)を見てしまう」という指摘は卓見です。

 さらにはオカルトという「かけがえのない私」を実現するシステムであるはずの「霊感」が、近年になると「普通の人には見えないものが見える」という以上の意味を持ちえなくなってしまった、とあります。先ごろのニュースで、幽霊を信じている人の割合が半数以上というアンケート結果が紹介されていたような時代ゆえなのでしょう。

  


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