『遊戯の終わり』フリオ・コルタサル/木村榮一訳(岩波文庫)★★★★☆

 同じ岩波文庫『悪魔の涎・追い求める男』にも収録されている「続いている公園」から始まっていたので驚きましたが、本国版『遊戯の終わり』をまるごと訳した国書刊行会版をそのまま文庫化したということでした。

 『Final del juego』Julio Cortázar,1964年。

「I」

「続いている公園」(Continuidad de los parques)★★★★★
 ――彼は二、三日前にその小説を読み始めた。ドアに背を向けて緑のひじ掛けいすに腰を下ろし、たちまち小説の世界に引き込まれた。女と男が、もうひとりの男を殺す計画を練りあげていた。男はナイフを手にドアを……。

 あまりにも有名な作品です。フレドリック・ブラウンの同趣向の短篇と比べると、固有名詞や状況が固定されていない分、普遍性があります。何より特定の誰かへの「復讐」が目的だったあちらとは違い、こちらは合わせ鏡のようにどこまでも果てしなく続いてゆく結末に、高いところから下を覗くような生理的な恐怖を呼び起こされました。
 

「誰も悪くはない」(No se culpe a nadie)★★★★☆
 ――肌寒かったのでブルーのセーターを着ることにした。ねじこむように手を通すと、やっと袖口から指が一本のぞいた。頭をセーターの首のところにもっていき、両腕と頭を同時に伸ばしてみた。とたんに青い薄闇に包まれ、顔が火照りはじめた。

 正直に言うと、「袖に頭を突っ込んでしまった」と思った時点でなぜセーターを脱がずにさらに頭を突っ込もうとするのかがまったく理解できないため、少しシラけてしまいましたが、「セーターをすんなり着られない」というあるあるネタを取っつきに、日常の裂け目から恐怖が飛び出すのは、「続いている公園」と同様でした。こういう感覚は、いわゆるシャンプーの最中の背後の幽霊、でお馴染みですね。
 

「河」(El río)★★★★☆
 ――セーヌ河に身投げしてやるわ、そんなことを言っていたね。シーツにくるまり、手か足でぼくの体に触りながら、きみは眠そうな声でやりはじめる。さっきドアをバタンと閉めて出て行ったのはきみかい。でもきみがここにいるということは、きっと夢でも見ていたんだろう。

 はっきりとそう書かれているわけではありませんが、シーツのしわから川面の波にスライドしてゆく絵的な過程は容易にイメージできます。ベッドにいて川の話をしていたはずなのに、いつしか川のなかにいるという、「続いている公園」や「誰も悪くはない」にもあったような、円環・反転の感覚に恐ろしさを感じます。
 

「殺虫剤」(Los venenos)★★★★★
 ――カルロスおじさんが蟻を退治する機械をもってやってきた。巣穴にホースの先を差し込み、殺虫剤を投入れ口から入れると、花壇の横や鶏小屋の横から煙が出はじめたので、ぼくは泥をかけて巣穴をふさいだ。次の日の日曜日、いとこのウゴがやってきて、孔雀の羽を見せてくれた。お母さんにもらった大事なものらしい。次の日、隣の家のリラが遊びにきたからみんなで遊び、ぼくはリラにクチナシをあげた。翌日、おばさんがウゴを迎えにきた。そして日曜日の朝……。

 これまでの作品とはがらりと変わり、思春期前の少年の傷心が描かれた作品です。きっとまだ恋も愛も知らないだろうに、初めて感じた嫉妬や失恋という感情が恐ろしいくらいにくっきりと描かれています。本人はそれが嫉妬や失恋という感情であるということにさえ気づいていないだろうと思うのに、孔雀の羽とクチナシと殺虫剤だけで、それを表現し得てしまっています。怪奇幻想めいた作品と比べると地味ながら、著者の巧さを堪能できる作品だと思います。
 

「いまいましいドア」(La puerta condenada)★★★☆☆
 ――ペトローネは商談を終えてホテルに戻った。疲れていたのですぐに眠り込んだ。目が覚めると、昨夜は子供の泣き声がうるさかったなと考えた。隣の部屋の女が赤ん坊をなんとか静かにさせようとしているのだろう。

 これも「誰も悪くはない」同様あるあるネタといえそうです。洋服ダンスで壁のドアを隠している安ホテルというのも、赤ん坊のぐずり声で眠れないというのも、あれだけうるさかった声がなくなると途端に喪失感に襲われるというのも、確かにうなずけるよくあることですが、この作品ではその後に、よくあるとはいえないことが起こるのでした。
 

バッカスの巫女たち」(Las Ménades)★★★★☆
 ――ぼくは今夜のプログラムを見てにやっとした。マエストロは聴衆の好みを心得ている。ぼくの隣には音楽狂で知られるホナタン夫人が座っていた。「ほんとにすばらしいわ……」夫人は泣いていた。今夜の演奏はぼくにはそうは思えなかった。左の席の方で、赤い服の女が指揮台の下まで駆けていくのが見えた。

 集団心理による狂気と暴動が描かれています。この作品自体には恐ろしさはありませんが、同じ心理が容易に魔女狩りになり得ることを考えれば、実は怖い話でもあります。もう少し(かなり)スラップスティック色が強ければ筒井康隆が書きそうな話でした。
 

「II」

「キクラデス諸島の偶像」(El ídolo de las Cícladas)★★★☆☆
 ――あの日、ソモーサとモーランは島で彫像を掘り当て、彫像はソモーサがしばらく預かっておくことになった。ソモーサがテレーズにただならぬ目つきをしているのに気づいたモーランは、早くパリに帰ることにした。やがてソモーサは彫像の複製を作り始めた。

 偶像の呪いが次々に伝染し……という怪奇小説の型にきっちり嵌った作品です。
 

「黄色い花」(Una flor amarilla)★★★☆☆
 ――ぼくたちは不死の存在なのだ。バスに乗っているときに十三歳くらいの少年を見かけた。しばらく見ているうちに、その子が自分に、つまりあの年頃の自分にそっくりだということに気づいた。

 転生のタイミングがずれたため(と語り手は信じている)のですが、これをもってして「不死」という、ゆるやかな不死観であるところがポイントで、荒唐無稽の一歩手前ぎりぎりのところで、そういうこともあるかもね、でもそれを偶然と考えるか不死と考えるかは……聞く人次第。ただし酔っぱらいのたわごとですが。
 

「夕食会」(Sobremesa)★★★☆☆
 ――「モラエス殿。楽しい夕食会が終わった数時間後にこのような手紙を受け取られて驚かれたことでしょう。ロビローサとフネスのあの件に、あなたは本当にお気づきにならなかったのでしょうか……」「ローハス殿。驚かせてやろうというつもりならあの手紙は大成功です。数週間後に夕食会を持ちたいと考えて招待状を書きかけていたのですから……」

 こちらも時間がずれている話。
 

「楽団」(La banda)★★★★☆
 ――ルシオは見逃した映画を見たくてオペラ劇場に入ったが、舞台を見て目を疑った。そこには女性ばかりの大楽団が並んでいたのだ。従業員と家族のための催しだったんだ。帰ってやろうと思ったんだが、映画が見たいんで我慢したんだ。

 みたびあるある。何もないところに怪異を幻視しそうになる結末の考え方が魅力です。
 

「旧友」(Los amigos)★★★☆☆
 ――ロメーロをバラすことにしたナンバー1は、ナンバー3にやらせることに決めた。数分後にベルトランが指令を受けた。ロメーロと最後に会ったのは競馬場だった。いつの間にか二人は違った道を歩むようになった。
 

「動機」(El móvil)★★★☆☆
 ――モンテスが町はずれで殺られた。裏切られた女が男に金をつかませてやらせたらしい。死ぬ間際に言った「刺青」という言葉から、犯人は船員だろうと見当をつけて、おれは渡航手続をした。
 

「牡牛」(Torito)★★★☆☆
 ――倒れたら最後だ。よってたかってロープ際に追いつめ、お前を散々な目に遭わせるぜ。ボスはおれのことを坊主って呼んでいたな。坊主、アッパーだ、坊主、ボディだってね。

 この三篇はどれも雰囲気が似通っていて、アルゼンチンのチンピラやボクサーが主役の、人生の一コマといった内容です。どれも面白そうなのにスケッチといった軽い感じに留められており、傑作になり損ねたようなところがあります。人生いきあたりばったりという感じの「動機」が笑えました。
 

「III」

「水底譚」(Relato con un fondo de agua)★★★☆☆
 ――細い道を抜けて川辺に出ると、足が泥の中にずぶずぶめり込んでゆく。その時、一体の水死体が川上から流れてきて、向こう岸の灯心草にひっかかりそうになった。その顔を見たとたんに、ぼくはわっと叫び声をあげて目を覚ましたんだ。

 いかにも精神分析の対象になりやすそうな作品ですが、夢魔のようなおぞましい何かが語り手を水に引き込もうとするイメージには、そうした賢しらな解釈など吹き飛ばしてしまう怖さがありました。
 

「昼食のあと」(Después del almuerzo)★★★★★
 ――父さんと母さんが、昼からあの子を散歩に連れて行きなさいといった。この時間だと、市電はかなり空いている。あの子を窓際に座らせれば、あまり人に迷惑をかけることもないだろう。だが隣に座っている婦人が降りようとしても、あの子は聞こえないふりをするだろう。

 描かれているのは確かに幼い妹か弟を散歩に連れて行くだけの話であるはずなのに、読んでいるうちに「あの子」が果たして人間なのかどうかすらあやふやに感じられてきてしまいます。大人の目から見た子どもの恐ろしさや、子どもの目から見た世界の不思議さを描いた作品は数あれど、子どもの目から見た幼い子どもというものがかくも異様なものだったとは。「何だかわからないもの」に対して、当の「被害者」がどういう反応をするのかが読者には予想もつかないのですから。
 

山椒魚(Axolotl)★★★★☆
 ――ぼくは山椒魚に取り憑かれていた。水族館に出かけて、じっとうずくまっている様子を観察したものだ。今では、そのぼくが山椒魚になっている。彼らは単なる動物ではなかった。

 邦題は「山椒魚」ですが、日本に棲息するような黒くぼてっとした山椒魚ではなく、日本語では一般に「ウーパールーパー」「アホロートル」で知られる一群のことのようです。「ぼく」だったはずの語り手がいつしか「彼」になっていることに慄然としましたが、顧みれば「水底譚」も「続いている公園」も、コルタサルの一部の短篇群は、同じ現象を外側から描いたものと考えられなくもありません。
 

「夜、あおむけにされて」(La noche boca arriba)★★★★☆
 ――彼がオートバイでドライブしていると、女が信号を無視して飛び出してきた。目が覚めると、数人の男がオートバイの下敷きになった彼を引き出していた。彼はあおむけにされて薬局に運ばれ、担架に移された。夢にしては妙だった。匂いがする。人間狩りに来ているアステカ族の戦士たちから逃れなくては。当然のようにそう考えた。

 あおむけにされて身動きできない彼の許に、ナイフを手にした男が近づいてくる……というシーンが重なり時空を行き来する、ミステリー・ゾーンふうのアイデア・ストーリーです。仰向けに固定された状態という無防備な体勢が恐怖感をあおります。切り替わる場面に仰向けという状態を選んだのがコルタサルのセンスだと思います。
 

「遊戯の終わり」(Final del juego)★★★★☆
 ――暑くなると線路がわたしたちの遊び場になった。レティシア、オランダ、わたしは、くじを引いて、たとえばオランダがくじに当たった場合には、ほかの二人が装身具を選んだ。くじに当たった人は列車の前でポーズを取り、彫像や活人画を作った。ある日、男の子が列車の窓から手紙を投げて寄こした。

 少女たちと少年の淡い恋(が始まる前)とその終わり。恋の終わりではなく「遊戯の終わり」なのは、少女たちが大人への階段を上り始めた謂なのか、少年とのやり取り自体がまだ恋愛〈ごっこ〉に過ぎなかった謂なのか。少女たちもまた少年に対して「工業学校」の学生ではないという夢を持ち、少年のまたレティシアの現実を知って離れてゆく、恋に恋する淡い感じが

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