伝説の雑誌の復刊に伴う前夜祭のようなもので、休刊前の本誌から抜粋した傑作選ですが、特にエッセイに古くさいものが多いのは否めません。
「『幻想と怪奇』、なお余命あり」紀田順一郎
『幻想と怪奇』創刊と終刊の経緯が簡潔にまとめられています。当事者ならではの事情がわかって興味深い。
「『幻想と怪奇』の頃」荒俣宏
怪奇幻想黎明期の事情。
「《前説》幻の雑誌、ふたたび」牧原勝志
収録作についての簡単なコメント。
「ジプシー・チーズの呪い」A・E・コッパード/鏡明訳(Cheese,A. E. Coppard,1946)★★★☆☆
――エディ・エリックはチーズの外交員だった。酒に酔わせてジプシーからチーズの処方を聞き出した。だが見返りの端金を払わなかったので呪いをかけられてしまった。あるときエディ氏は手相を占い、ブドウ酒を一杯ごちそうになり、チーズを食べた。「いらっしゃい、ネズミさん」女占師は幌馬車の外に出た。エディ氏を倉庫に押し込めると占師は消えてしまった。
チーズからの連想による単純ながら効果的な恐怖、すっとぼけたオチ、「消えちゃった」あたりに通ずるコッパードらしさがあります。
「闇なる支配」H・R・ウェイクフィールド/矢沢真訳(Monstrous Regiment,H. Russel Wakefield,1961)★★★★★
――母が病気にならなければ、父もコニーにつけ入れられることはなかっただろう。コニーは父の金と、七歳にしてはませて男性的なわたしが欲しかったのだ。あるときわたしは教会の墓所であおむけの男の彫刻像を見ていた。するとよろいを身に着けていたその彫刻像がゆっくりと頭の向きを変え、黒い目を開けた。わたしはぎょっとして父にそのことを話した。「嘘つきはコートニーさんにお仕置きしてもらわんとな」それが子守りのコニーと出会った日だった。
語り手を支配する悪女の魅力がたっぷりと描かれていますが、それとは別に彫刻像や死んだ飼い犬の怪異や「発作」など、謎めいた部分が残ります。精神科医の診断を「ぎこちない言葉を好む」と表現する専門家の言葉の意味するところは、科学的に解明できるということなのでしょうか、それとも本物の怪奇現象であるということなのでしょうか。
「運命」W・デ・ラ・メア/紀田順一郎訳(Kismet,Walter de la Mare,1895)★★★★☆
――遠くに人影が見えて、馭者は馬をとめた。「バロメアまでは遠いかね?」と旅人がたずねた。「おれもいくとこよ。乗って行かねえかね?」旅人は喜びの声をあげて馬車に乗り込んだ。「そこに腰かけなよ」馬車の床にころがっている粗布包みの箱をさした。旅人はその上に腰をおろした。馭者の顔には奇妙な笑いがひろがっていた。
奇妙な笑いの意味がわかるときの衝撃たるや、馭者の陰険な意地の悪さには慄然とします。
「黒弥撒の丘」R・エリス・ロバーツ/桂千穂訳(The Hill,R. Ellis Roberts,1923)★★☆☆☆
――私は夕暮れのぶらぶら歩きを楽しんでいた。「犠牲の丘」のことは忘れていた。ぞっとするほど美しい少年がいた。「誰もここへのぼってくることは許されてないんです。おりてください」「ばかばかしい」私は威厳をみせながら少年をやりすごそうとした。怖かったのだ。音楽がテンポを早めた。少年が歌いだし、何かを拾いあげた。薬をのまされている犬だ。首のまわりの紐の一端にナイフがあった。
どうしても黒魔術というと安っぽくてキワモノめいたオカルトになってしまいます。
「呪われた部屋」アン・ラドクリフ/安田均訳(The Haunted Chamber,Ann Radcliffe,1974)★★☆☆☆
――ルドヴィコは伯爵に招かれ、亡霊などに城の平和が脅かされないようにすると誓った。独り部屋に泊まり、本を読んで炉に薪をつぎたしたとき、椅子の背もたれの後ろから男の顔がみつめているような気がした。
名前だけは有名なゴシック作家アン・ラドクリフの長篇『ユドルフォの秘密』からの抜粋。編者自身がコメントしている通り、冗長で古くさい作品です。
「降霊術士ハンス・ヴァインラント」エルクマン・シャトリアン/秋山和夫訳(Le Cabaliste Hans Weinland,Erckmann-Chatrian,1862)★★★☆☆
――ぼくたちの形而上学の教師ハンス・ヴァインラントが、或る朝ぼくの部屋に入って来た。「クリスチャン、新しい教授を探したまえ。私はパリに出かけるんでね」「パリに?」「私は今朝、クランツ副官の腹に三尺の剣を突き立ててやったんだ。きみのパスポートを貰いたい。二人とも赤毛で痩せているからね」それから十五ヶ月後、ぼくは学問の仕上げのため大学総長からパリに送られた。窓から外を眺めていると、追いはぎのような男が声をかけてきた。「やあ、クリスチャン」
昔の作品らしい理屈っぽさの果てに訪れるおぞましいテロルは、恐らく何かの譬喩か諷刺なのでしょうがわかりません。青色の神がマハーデーヴィーとカーリーの神(シヴァ?)であり、黄色の神がヤハウェであることは明示されているので、東洋による西洋への叛乱ではあるのでしょう。肉体から抜けて旅した魂が現実の災厄を連れて来るという何でもありの状態が,恐ろしさを増幅させます。
「夢」メアリ・W・シェリー/八十島薫訳(The Dream,Mary W. Shelley,1832)★★☆☆☆
――うら若い美貌のコンスタンスには高貴な家名と宏大な領地が遺されていたので、国王はコンスタンスがそれを由緒ある生まれの者に与え、その妻になることを切望した。だがコンスタンスは修道院に隠遁する覚悟でありますと答えた。そして今、かつて永遠の貞節を誓った恋人ガスパールが目の前に立っていた。かつて憎み合った互いの一族の最後のひとりだった。
メアリ・シェリー版ロミオとジュリエット。そこに聖カトリーヌの奇跡という要素が加わります。古くさいのは否めません。
「子供たちの迷路」E・ランゲッサー/條崎良子訳(Das Labyrinth der Kinder,Elisabeth Langgässer,1949)★★★★☆
――子供は庭に寝そべり空を見た。またあの飛行機が通るだろう。爆撃機の音が地下ごうのなかにいても聞きとれる。でもここにいる限り危険はない。そのころ母親は鍋のふたをあけてじゃがいもをフォークで突いた。びくびくしながら買い出しに行ったかいがあった。今年はきっと収穫がある。小さなラウラは人形のロージーに話しかけた。「あそこにいる人があたしのママだなんていっちゃだめよ。あたしのママは魔女のガルゴックスなんだから」
よくある空想の友だちものだと思っていると、母親とラウラと人形が渾然一体となって、果たして何が現実で何が空想なのかわからなくなってしまいます。弟にブラザーとルビが振ってあるのは、恐らく原文もそこだけドイツ語ではなく英単語なのでしょうけれど、それの意味するところが何なのかなど、解説が欲しいところです。
「別棟」アルジャナン・ブラックウッド/隅田たけ子訳(The Other Wing,Algernon Blackwood,1915)★★★★☆
――彼がよく頭をひねったのは、暗くなると誰かが寝室のドアのかげからちょっとのぞき、また引っこめてしまうことだった。しかし彼は恐ろしさを感じなかった。母親に話すと、「誰かがおまえのことを気にかけて確かめに来てくれるなんて、けっこうなことじゃないの」と言われた。ほどなく彼は独自の結論をくだした。眠りとそのお供の夢は、閉ざされた別棟に住んでいるんだ。
ステッキが凄まじい力で挟まれて葦になってしまう場面にはぞっとしましたが、当初の子どもの空想通りそれは善きモノだったことがわかり、ほっとしました。イギリスらしい、幽霊と共存しているジェントルな幽霊屋敷ものです。ブラックウッドは苦手な作家ですが、「地獄」「まぼろしの少年」のように時々いい作品に出会えます。
「夜窓鬼談」石川鴻斎/琴吹夢外訳(1889)★★★☆☆
――天地の間に人間というものが居る。およそ呼吸している物のうちで人間より智脳のすぐれたものはない。宇宙の間に鬼神というものが居る。およそ無形のもののうちで、鬼神より霊力のすぐれたものはない。そして鬼神もまた人間のうちにすぎない。
「鬼神を論ず」「牡丹灯籠」「冥府」を訳載。
「鬼火の館」桂千穂(1974)★★☆☆☆
――結婚して一年もたたないのに、一枚の召集令状で夫は死者の国へ追いやられてしまった。父も亡夫の弟も、わたしに疎開するよう説得に来た。だがわたしは義弟と同じ工場に勤める技術者と、夜の逢瀬を重ねていた。それでも口づけ以上の間柄へは進まなかった。かすかな足音や気配を感じたからだ。死んだ夫なのだろう。わたしは彼の自転車のライトが暗闇に浮かんでくるのをいつも待っていた。彼に召集令状が届いた夜も。口づけ以上の間柄になるつもりだった。その夜は大空襲があった。
最後が駆け足すぎます。足音の正体についての告白も唐突で説明的すぎましたし、その後の夫の運命もそうなるまでの経緯をもうちょっと書いておいてくれないと、ドアを開けた途端に爆発して煤で真っ黒になるギャグみたいにしか感じられませんでした。
「誕生」山口年子(1974)★★★★☆
――鋭い悲鳴が続けて起こった。響子だ! またあの病気だろう。「何に愕いたのかね」「ヤ、ミ……」「闇?」「真昼にだって闇は姿を現すのです」「おとうさまにはおわかりになりませんわ。闇は私にだけ近づいてくるのですから」「そのいい方は、闇が生きているように思えるが」「ええ」「闇は何というのかね?」「こいっていうの」
アーサー・マッケンのようなおぞましいホラーで、譬喩や実体化したものではなく闇そのものが襲い来るというラヴクラフト的な恐怖も味わえます。闇を生むという発想
「人でなしの世界 江戸川乱歩の怪奇小説」紀田順一郎(1973)
乱歩の怪奇小説に対する好みとスタイル、「人でなしの恋」とジェイムズ「ポインター氏の日録」の構造の比較。
「我が怪奇小説を語る」H・P・ラヴクラフト/団精二(荒俣宏)訳(1923)
ラヴクラフトがフランク・ベルナップ・ロングに宛てた手紙。
「FANTASTIC GALLERY 挿絵画家アーサー=ラッカム」麻原雄解説(1973)
アーサー・ラッカムのカラー口絵と解説。
「日本怪奇劇の展開―闇の秩序を求めて―」落合清彦(1974)
歌舞伎を始めとした怪奇演劇を概観していますが、ところどころに当時の世相を絡めてくるので古くさくなっています。
「閉ざされた庭――または児童文学とアダルト・ファンタシィのあいだ――」荒俣宏(1974)
人形劇『パンチとジュディ』の残酷性とナンセンスに寄せる子どもの目から書き起こし、児童ファンタシィとアダルト・ファンタシィの関係について論じているのですが、現状分析というものは当時から時代が下ってしまうとやはりわかりづらい。
「FANTASTIC GALLERY 囚われし人 ピラネージ」麻原雄解説(1974)
「地下なる我々の神々 1~4」秋山協介(鏡明)(1973)
コミューンとかサタン教会とか、これも時代がかってます。
「ホラー・スクリーン散歩 リチャード・マシスンの激突!」瀬戸川猛資(1973)
相変わらず一歩間違えば与太に間違えられかねない瀬戸川節です。
「ホラー・スクリーン散歩 怪物団」石上三登志(1974)
怪物団とは『フリークス』の公開時の邦題です。
「幻想文学レヴュー」山下武・石村一男・瀬戸川猛資・紀田順一郎
「編集後記 Not Exactly Editor」
「誰もやっていないことを(インタビュー)」桂千穂
「『幻想と怪奇』の時代」安田均
ここまでが『幻想と怪奇』傑作選で、ここからは1964年に発行された前身誌『THE HORROR』全4号の復刻です。
『THE HORROR 第1号』
「解説 平井呈一と“THE HORROR”の思い出」紀田順一郎
「古城 怪談つれづれ草1」平井呈一
「怪奇小説のむずかしさ」L・P・ハートリー/平井呈一訳(L. P. Hartley,1956)
「廃墟の記憶」H・P・ラヴクラフト/紀田順一郎(Memory,H. P. Lovecraft,1919)
「裏庭」ジョセフ・P・ブレナン/島内三秀・大伴秀司訳(Canavan's Back Yard,Joseph Payne Brennan,1958)
『THE HORROR 第2号』
「なぞ」デ・ラ・メア/紀田順一郎訳(The Riddle,Walter de la Mare,1903)
「恐怖小説全集の展望」紀田順一郎
「森のなかの家」オーガスト・ダレット/平井呈一訳(The Pool in the Wood,August Derleth,1949)
「だれかがエレベーターに」L・P・ハートリイ/島内三秀訳(Someone in the Lift,L. P. Hartley,1955)
『THE HORROR 第3号』
「カンタービルの幽霊」より/オスカー・ワイルド
「オハイオの愛の女像」アドーブ・ジェイムズ/紀田順一郎訳(The Ohio Love Sculpture,Adobe James,1963)★★★★☆
――ぼくの趣味は好色本の蒐集なんだ。ぼくがはじめてその彫像のことを知ったのは、友人のトルコ公使館員アリからだった。アリが情報を得てオハイオの田舎の納屋に行くと、持ち主が「あれは売り物じゃねえ。けえれ、でなきあぶち殺すぞ」と銃をかまえたんだと。それを聞いたぼくはすぐさまジエツト機でオハイオに向かった。「こんなすばらしい彫像は、秘密の場所に隠して、君はそこの守衛になればいい」
好色本の蒐集という脱力ものの冒頭から、売るのを拒否する持ち主から如何に入手するかというコンゲームめいた面白さを経て、アメリカ特有の猟奇事件で終わるという冷や水を浴びせられたような後味の悪い切れ味が魅力です。
「恐怖小説アンソロジイの展望」紀田順一郎
「聴いているもの」ウオルター・デ・ラ・メア/平井呈一訳(The Listeners,Walter de la Mare,1911)
「ムーンライト・ソナタ」ウールコット/島内三秀訳(Moonlight Sonata,Alexander Woolcott,1931)★★★☆☆
――医者のオーバン・バラックがケントの古い友達を訪ねた。邸の主は出かけていたが、バラックは待たずに食事をした。庭師はジョン・スクリプチュアという名で、気違いの父親に時々仕事を手伝わせていた。食事を終えるとバラックは眠りにおちた。眼が覚めると部屋の中でなにかゞうごめいている気がした。
アドーブ・ジェイムズの「オハイオの愛の女像」もそうでしたが、1964当時というとサイコや猟奇やシリアル・キラーが新機軸だったのでしょうか。ブロック『サイコ』が1959年ですね。幽霊屋敷もののような佇まいながら、幽霊の代わりにサイコが出現するというのはいま読んでも却って新鮮です。
「ある夏の夜に」ビアス/島内三秀訳(One Summer Night,Ambrose Bierce,1906)
「出版 小泉八雲作品集」
「とびら」A・ブラックウッド/紀田順一郎訳(Entrance and Exit,Algernon Blackwood,1914)
『THE HORROR 第4号』
「東西怪談・恐怖小説番附」
「死刑の実験」ジョージ・ウエイト/島内三秀訳(The Electric Chair,George Waight,1925)★★☆☆☆
――エインズワース博士が死について話すと、「死よりも異様な神秘に直面した場合、人は死を選ぶということですか。大変疑問です」と大脳生理学者が言った。すると軍人が口をはさみ、「ドイツ軍がスパイを捕まえて、二つのドアの一つは銃殺刑、一つは何があるかは教えなかった。スパイはみんな拷問や生体解剖を想像して、銃殺のほうを選んだ」という話をした。若い作家のシンクレアは納得できなかった。「そいつらは未知の恐怖に立ち向かう勇気がなかったんだ」後日、シンクレアはエインズワース博士に招かれ……。
ストックトン「女か虎か」こそ1882年の作ですが、スタンリイ・エリン「決断の時」に先駆けること30年前の作品です。しかしながら、究極の選択にしては選択肢に隙があって破綻しており、そのせいで緊迫感もありません。症状が現れた時点で自殺すれば、苦しまずに済むのは電気椅子と一緒なら可能性に賭けるでしょう。エインズワースに信念があるわけでもなくただの悪戯のつもりなのも、却って異常さを際立てています(が著者にはそんな意図はなかったのでしょう)。
「試作のこと」M・R・ジェイムズ/平井呈一訳(Stories I Have Tried To Write,M. R. James,1931)
「新刊紹介」
「M. R. James 全著作目録及び解説」紀田順一郎
「夢にみた家」アンドレ・モーロワ/紀田順一郎訳(La Maison,André Maurois,1946)
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