『リテラリーゴシック・イン・ジャパン 文学的ゴシック作品選』高原英理編(ちくま文庫)★★★★★

『リテラリーゴシック・イン・ジャパン 文学的ゴシック作品選』高原英理編(ちくま文庫

 高原英理による「リテラリーゴシック」作品選。「リテラリーゴシック」については編者による宣言を読んでいただくとして、新たな試みの提示ということで、単なる傑作選というよりはゴスな特徴を捉えた作品集という趣もあります。
 

「リテラリーゴシック宣言」高原英理(2014書き下ろし)
 ――本書に集った作品群は、「ゴシックロマンス」「ゴシック小説」という狭いジャンルをめざして書かれた類型的制作物ではなく、「文学のゴシック」、たまたま文学の形で現れた現代のゴシックのとりわけ優れた諸相である。

 本書のタイトルにもなっている「リテラリーゴシック」「文学的ゴシック」とは何ぞや、という表明と、「ゴシックの名のもとに新たな文学動向を創生するための第一歩」たる宣言です。ざっくり言ってしまえば、ゴシックハートを持った作品ということになるのでしょうか。わたし自身は完璧なゴシックハートを持っているとは言い難く、例えばカバー表紙にも使われているような球体関節人形などはどこがいいのかさっぱりなのですが、作品選択の基準が「暗黒」「不穏」そして「残酷・耽美・可憐」ということなので、そんなわたしでもゴシックを感じられそうです。
 

「I 黎明」

「夜」北原白秋(1911)★★★★☆
 ――夜は黒……銀箔の裏面の黒。/滑らかな潟海の黒、/さうして芝居の下幕の黒、/幽霊の髪の黒。/……

 黒を羅列するなかに、暗闇で光る蛇の目を挟み入れて黒を引き立てたり、黒を羅列したあとで、暗い闇夜の恐怖に話題を変えたり、単純な反復のようでいて工夫が凝らされています。何より、そんな夜の何が恐ろしいのか――闇をもってしても消せない光、音、孤独が描かれた最終聯と、夜……のリフレインが余韻を残します。
 

「絵本の春」泉鏡花(1926)★★★★☆
 ――小僧が夢中で貸本を読んでいると、「おい、新坊」。この小母さん、娘の時に一度死んで、通夜の三日の真夜中に蘇生った。魔に近い。「土塀の壊れ木戸に、かしほんの貼札だ。……そんなものあるものかよ。ああ、おばけはね、悪戯をするよ。旧藩の頃にな、殿様の病気は巳の年月の揃った女の生肝で治ると言って、若い女を手に入れた侍が居てな……」

 語り手が子どものころに見聞きした、蛇づくしの怪異。鏡花作品というと何といってもその独特の文体と、その積み重ねの果てに突如として襲い来る生理的恐怖や幻想的恐怖の印象が強いのですが、この作品にはあちら側の力を持つ小母さんという魅力的なキャラクターが登場しています。小母さんが来てくれたから安心だ、という頼れる存在であり、怪談をいくつも語って聞かせる語り部でもあり、舌の怪談を語っている最中に実際に舌でぺろりとやるお茶目な人でもあり、ふと真顔で怪異の存在を断定する恐ろしい人でもあります。巳づくしの女の生肝、お嬢さんの舌を吸った男、大水で流れる「島田髷」、の三つの怪談が作中作として登場しています。貸本を貪り読む少年や魔物めいた大女など、ガロ系の漫画から抜け出て来たような風景でした。
 

「毒もみのすきな署長さん」宮沢賢治(生前未発表)★★★☆☆
 ――「火薬をつかって鳥をとってはなりません、毒もみをして魚をとってはなりません。」というのがこの国の第一条でした。ところがどうもこれを守らないものができてきました。川原のあちこちから死んだ魚が浮かんできたのです。

 死刑を前に「ああ面白かった。(中略)こんどは、地獄で毒もりでもやるかな。」と言ってのける、悪の輝きを放つ署長に、ゴシックの精神を見たということのようです。次に掲載されている乱歩の随筆で言うところの「神か無心の小児か超人の王様」とでも言うべき超然たる悪意が照りわたっています。
 

「II 戦前ミステリの達成」

「残虐への郷愁」江戸川乱歩(1936)★★★☆☆
 ――石子責め、鋸引き、車裂きなどの現実を享楽し得るものは、神か無心の小児か超人の王者かであって、現実の弱者である僕には、それほど深い健康がない。しかしそれらが一たび夢の世界に投影せられたならば、それを幻影の国的な恐ろしさで、享楽することが出来る。

 大筋には同意しますが、具体例として挙げられている大蘇芳年月岡芳年)の無惨絵がチト苦手なので、諸手をあげては同意しづらいところです。芳年は無惨絵以外の絵にも恐ろしい迫力があり、それらにも「あり得ないけれども真実なる姿態」「写実でないからこそレアル」という文言は当てはまるところでしょう。
 

「かいやぐら物語」横溝正史(1936)★★★☆☆
 ――わたしは神経の安定感を喪い、温暖な海辺にある空別荘で療養することになった。明るい日中の直射光線は刺激が強すぎるため、深夜の散歩にさまよい出ると、思いがけずも貝殻を吹く女がいた。「貝殻を聴くことを教えてくれた青年がいました……療養中の令嬢と恋に落ち、心中を誓ったのです」

 横溝作品のなかではグロテスクや怪奇よりも幻想性の勝っている作品ではありますが、腐りゆく死体に蠅の群れが集まってくる場面の過剰なまでの凄まじさなどに、幻想だけでは終わらない肉体的な生々しさを感じました。白骨から覗く偽眼という光景を具体的に想像してみると、やはり目は表情を形作る一部だからでしょうか、骸骨よりも偽眼のほうに気持ち悪さを感じてしまいます。
 

失楽園殺人事件」小栗虫太郎(1934)★★★☆☆
 ――天女園癩療養所で奇怪な殺人事件が起こった。漂流していた婦人の頭蓋腔中に螺旋菌を注入し、擬神妄想を企てていた院長が死体で発見された。懐妊中に大腹水症を発せしめた婦人の死後、院長は膜嚢数十個を取り出し、標本にしていたのだが、院長の死体の周りにはその膜嚢が放射状に散らばっていた。

 院長によるグロテスク趣味よりも、むしろ法水麟太郎という特異な探偵によるいびつな探偵行為こそが、頽廃した論理の廃墟のようで面白い。犯罪と関係者の中心にあったコスター聖書という道具立ては、(双子の片割れという暗喩はあるにせよ)無意味に飾り立てられた装飾でしかなく、作品世界のいびつさを後押ししています。そしてまた、犯行に用いられた曲線と直線に、いびつな美を感じるのでした。
 

「III 「血と薔薇」の時代」

「月澹荘綺譚」三島由紀夫(1965)★★★★★
 ――四十年前に焼失した月澹荘について、以下は私が老人から聞いた話である。勝造が月澹荘の生活に近づいたのは、侯爵家の嫡男の遊び相手としてであった。嫡男の照茂は、何一つ自分の手を汚そうとしなかった。蜻蛉を釣るにしても、勝造に釣らせて、それをただじっと見ている。

 じっと見つめている両の目が、脳裡に焼きついて離れません。イメージのなかでは、その瞳は無表情のまま瞬きもせず見開いていて、読み終えたあともずっと自分が見られているような嫌な気分がつきまといます。まかり間違って漫画化などされてしまったら、記憶から払うのにしばらくかかりそうです。だからむしろ、この結末にはほっとしてしまうのです。
 

「醜魔たち」倉橋由美子(1965)★★★★★
 ――ぼくは貝のなかにとじこめられた醜魔だった。だがそのぼくを《愛》という釣針で現実世界に釣りだした少女がある。Mはよく別荘にやってきた。ぼくはMのかわりに彼女のコリイを憎悪の眼で刺した。彼女はぼくの眼のなかに嫉妬の色を読んだふりをしたのである。台風が去ったあとの砂浜に、ぼくらは発見した、死体を。

 言葉を尽くして偽りの愛を詳述するその徹底ぶりに驚愕しますが、これが韜晦や愛の不在でないのは、例えばQとの同性愛を「女たちが(もちろんMをふくめて)白い皮膚で包んでいるあの不気味なくらやみを外側にもっているのだ」「くらやみの表皮を切り裂いて果肉のなかに熱い硫黄のような意識をそそぎこむ」といったように肯定的に描写していることからもわかります。
 

僧帽筋塚本邦雄(1974)★★★★★
 ――遙太の二度目の義父は何かと言えば「この耳が聞こえたらあんたに協奏曲でも吹いてもらうのに」と溜息をついてみせた。二枚目だった前二代とは違い、如是は潰れた鼻と厚い僧帽筋と鋭い運動神経が三十六にもなって衰えていない。補聴用のイア・フォーンは滅多に使わない。その昔はドラムを叩いていたというが、能ある鷹の爪は随時随所に陰顕して遙太の心を快く引掻いた。

 その様変わりには、映画『ユージュアル・サスペクツ』のラストシーンを思い出しました。愚鈍な善人から自信に満ちたアンチ・ヒーローへと、同じ体格の意味するところが最初と最後ではまったく違って見えてしまいます。騙されていることに気づいているどころか、冷徹に分析しながらも絡み取られてゆく滅びの美学のような空気が甘美でした。
 

塚本邦雄三十三首」★★★★★
 ――「月光の中より垂れて鞦韆がわが前にあり 死後もあらむ」「五月来る硝子のかなた森閑と嬰児みなころされたるみどり」「復活祭まづ男の死より始まるといもうとが完膚なきまで粧ふ」

 あの世への扉や架け橋や案内人を生前に幻視してしまうように、あの世へと連れて行ってくれる乗物としてのぶらんこを見ていたはずだったのに、死んだあとも目の前にあって消えないとしたら、それはいったい何のためにあるのか、どういった存在なのか、その謎と不安が永遠に続くとしたらこれほど怖いことはありません。嬰児殺しとくれば瞬間的にヘロデ王と幼子イエス(あるいは後出のジル・ド・レ)を連想しますが、これは「五月」「森閑」「嬰児/みどりご「みどり」と緑づくしで、満開の桜の下が恐ろしい景色であるように、都会の窓から眺める遠くの森の万緑の奥には、人知れぬ何かがあるのかもしれません。「復活祭が男(イエス)の死から始まる」――何の他意もない事実をしたためた記述でしかないはずなのに、いもうとがこれから「男」を殺しに行くような、不穏な気配を感じずにはいられません。
 

「第九の欠落を含む十の詩篇高橋睦郎(1966)★★★★★
 ――こころとは 怖ろしい市街である/人影の死に絶えた白昼の市庁広場/閉ざされた幾枚もの鏡扉の奥/廊下の遠近法の はるかな前方/天井にみのる青ざめた枝付電灯をうつす/磨きあげた会議卓のむこうで/いましも 冷やかな殺人がおこなわれる/……

 悪徳の町ソドムとゴモラのその肝心な滅びの「最後の一日」が欠落している、という形で描かれる、魔術的日本語詩。特に「その六」における「呼ばわる者の声がする」のリフレインには、いよいよ何かよくないことが近づいて来たらしき禍々しい響きが満ちています。さらに幼な児が「母親の腿を」「偸む」という譬喩は秀逸で、単なるレトリックの美しさに留まらず、眠りこけた母親にしがみつく幼児というイメージを的確に表現していると思います。解説でも触れられていますが、山尾悠子が『幻想文学』のインタビューで著者のことを(たしか)「わが言葉つくりたまえる師」と呼んでいたのが印象的でした。
 

「僧侶」吉岡実(1958)★★★★★
 ――四人の僧侶/庭園をそぞろ歩き/ときに黒い布を巻きあげる/棒の形/憎しみもなしに/若い女を叩く/こうもりが叫ぶまで/一人は食事をつくる/一人は罪人を探しにゆく/一人は自涜/一人は女に殺される/……

 表面的にはマザー・グース「十人のインディアン」を借りており、原典に劣らぬ不気味で不条理な内容となっています。それどころか、すでに死んでいる者も生者と並記されているあたり、クリスティ『そして誰もいなくなった』をも視野に入れているのではないか……と妄想してみたり。「こうもりが叫ぶ」とは「にわとりが叫ぶ」の対義語であり朝ならぬ夜の時を作る謂でしょうか。後の聯ではこうもりならぬ「巣のからすの咽喉の中で声を出す」のが死んだ僧侶自身であることが明らかにされます。そして「鐘をうつ」のも死んだ僧侶。ここでは僧侶が時を支配している――ようにも感じますが、思えば昔は教会の鐘が一日を支配していたことを考えれば、さして意味のないことなのかもしれませんが。「罪人を探しにゆく」とはブラックですが、「赦す」ことが僧侶の務めの一つであるならば、赦すべき罪人がいなければ商売あがったりなのも事実です。
 

「薔薇の縛め」中井英夫(1976)★★★★★
 ――人外。たまたま手に入れた『薔薇綺譚集』の一編をここに記す。エグジール侯が領主の地位についてから、農民の評判は上々であった。だが領主夫妻が人前に出ることを極度に嫌ったことから、黒い噂が囁かれ出した。強靱な蔓薔薇が美少女と青年の裸身を犇々と縛て血をしたたらせる宴を楽しんでいるのではないか。

 サディズムの話を高踏にして傲岸たる陽の陰だとするならば、マゾヒズムの話はその性質から陰の陰たるじめじめした印象をどうしてもぬぐえません。本篇ではそうした欠点(?)が、サディズムマゾヒズムに転化させるという構成によってクリアされていました。同時にそれはミステリ的な意外性にも通ずるわけで、見事というほかありません。噂を逆用したとも取れますが、そもそも噂自体の出所が領主である可能性も大で、とすれば「薔薇の縛め」なる、実際の効果や現実の美しさよりもイメージ優先な拷問にも納得がいくというものです。
 

「幼児殺戮者」澁澤龍彦(1966)★★★☆☆
 ――蝶の羽をむしる子供や、兎の肉を引き裂く虎は、怪物ではない。ジルは中世世界に遅れてやってきた、古代的人間だったのかもしれない。中世の貴族社会においては、労働は奴隷の持ち分であり、貴族たる者は自由に遊びすなわち戦争を楽しまねばならない。しかしジルの生きていた時代は徐々に変化を起しつつあった。

 エッセイ集『異端の肖像』より、ジル・ド・レについての文章。バタイユの引用による、「夜がなければ、犯罪は犯罪ではない」という極めて観念的な、現実的に考えればほとんど暴論こそが、しかしゴシックの世界観を端的に表現しているのは事実です。そしてそれが、「城に棲んでいたのは悪い仙女ではなく、血に酔った一人の男であった」とか、「ジルが、一四三一年、少女将軍が焼き殺されてから、どのような行動をとったかは謎とされている」といった感傷的なレトリックで澁澤によって再話されると、現実のジル・ド・レがどのような人間であったのかなどということはどうでもよくなってきます。
 

「IV 幻想文学の領土から」

「就眠儀式 Einschlaf-Zauber」須永朝彦(1974)★★★★☆
 ――藍とも縹ともつかぬ空に弓張の月が懸かり、私は何処とも知れぬ曠野に迷い込んでいた。かすかな楽の音。「ああ、チェンバロ……」と思い至った時、霧は晴れて、眼前に忽然と東欧風の屋敷が顕れ、金髪碧眼の青年が見下ろしていた。「路に迷ってしまったのです」「ここはトランシルヴァニア……」

 冒頭から古めかしい日本語を用いた美しい文章を披露しながら、そこは日本ではないという、野心的ともいえる書きぶりが試みられています。始めから「就眠」「ヴァンパイア」という言葉を隠そうともしていないのだから、「夢」「吸血鬼」譚なのは当然として、(襲われている自分を鏡で見て、そこに自分以外が映っていない、という)いかにも絵的な襲撃シーンには様式美のような美しさがありました。
 

「兎」金井美恵子(1972)★★★★★
 ――私は散歩の途中、大きな白い兎が走るのを見たのだった。その少女は小百合といい、兎の変装をするにいたった経緯を話しはじめた。「父親は食用の兎を飼っていて、一日と十五日には一匹殺して料理を作るのです。首のへし折られた死体が小屋の前の地面に置かれるのを、あたしは二階の寝室から何度も眺めたことがあります……」

 アリスへのオマージュがアリスを超えられないことが多いなか、アリスで始まりながら軽々と飛び越えているのが爽快です。キグルミ少女という乙女チックな存在を導入に語られる、グロテスクで耽美な告白。お腹がいっぱいになるとローマの貴族のようにお腹を空にしてまた食べはじめるという、異様な執着と美意識に、まずは心をつかまれました。寝ることを「さあ、ゆっくりと死ぬか」と表現する父親の微笑ましい冗談をかろうじて日常の最後にして、小百合(姫百合)が分け入った異常な世界は、しかし恐ろしいほどに幸せそうでした。
 

「葛原妙子三十三首」★★★★★
 ――「アンデルセンのその薄ら氷に似し童話抱きつつひと夜眠りに落ちむとす」「水かげろひしづかに立てば依らむものこの世にひとつなしと知るべし」「この子供に繪を描くを禁ぜよ大き紙にただふかしぎの星を描くゆゑ」

 あの儚さや残酷さを一度「薄ら氷」と表現されてしまうと、アンデルセンを表する言葉はもうそれしかないと思えてしまいます。「水かげろひ」の歌には、日常の風景が日常のまま突如として揺らぐ、眩暈のような、悪夢のような、幻惑を感じます。「ゆきずりの麺麭屋にある夜かいまみし等身のパン焼竈を怖れき」「夕雲に燃え移りたるわがマッチすなはち遠き街炎上す」などもその系列に属するものでしょう。あるいは「この子供に」の歌も、子どもが描いた意味不明の絵に凶事を幻視した、同じタイプの歌なのかもしれませんが、そうした理屈や現実を超越した、甘美なまがまがしさに溢れています。
 

高柳重信十一句」★★★★★
 ――「身をそらす虹の/絶嶺/処刑台」「過失致死罪/わが身に犯し/さあさはじまる/華麗な服罪」「森の奥では/しすしすしす/ひとめをしのぶ/蛇性の散歩」

 現代俳句。個人的にはこういうタイポグラフィックな「詩句」は著者の自己満足な小細工めいていて好きではないのですが、虹のアーチを「身をそらす」と表現してしまえる詩人の目には心酔せざるを得ません。即物的に考えれば、自分で自分を殺したから死刑(すでに)、という話でしかないのですが、見世物のショウめいた「華麗」な死とはいったいどんな死だったのか。例えば車で衝突してフロントガラスから飛び出す景色をこう詠んでしまえるのだとしたら、やはり素晴らしいの一言です。「蛇」の散歩であれば、「しすしすしす」という擬音語だけで終わってしまいますが、「蛇性」となると途端に不気味な句に変じます。蛇性とくれば女であり、嫉妬に狂った女が人目を忍んで森のなか静かに散歩しているさまを想像すると、目的や状況がわからないだけに、背中がぞわぞわとします。
 

「大広間」吉田知子(1974)★★★☆☆
 ――眼隠しをはずせ、と声がした。広大なテーブルの横に背の高い四人の男女がいた。小人たちが私の手を引っぱったので私は身をかがめた。すると彼らは私の首に三センチ幅の首輪をはめた。どうやら細い針金を何十本も使って織った特殊なものらしい。中に短い尖った針金が混じっていた。

 手をつかまれている語り手が、「私の拳のどんな凹凸にも隙間なしに貝の肉のようなものが密着していた」と語った描写は、気持ち悪さと的確さに於いて、ベスト級の表現でした。もともとがボンデージ系のゴシックで、わたしの苦手な部類に属している作品なのですが、サドが描いた王族の饗宴のような、二人の侏儒や枷や鎖などの悪趣味な嗜好は、こうしたタイプの作品の原風景のようで、どこか懐かしくもありました。最後の最後で「やっちゃった。。。」という印象。読み終えてから振り返ってみれば、なるほど「ハツ」がないとか「タン」が余っているとはよく言ったものです。そしてそれが「兄」ということは、堕天使めいた何かなのでしょうか。
 

「紫色の丘」竹内健(1968)★★★★★
 ――少年は冷たい家に一人で住み、喘息にかかっていた。少年の楽しみは、望遠鏡で街を見ることであり、パパの書斎につまっている本を読みあさることだ。望遠鏡の先に、白い杖をついた少女がいた。あの子は盲なんだ!

 シュペルヴィエルの魂が乱歩に乗り移ったような、リリシズムと肉体欠損による哀しいメルヘン。子どもの空想が現実とリンクすることで、現実との距離が実感され、残酷さが際立ちます。この作品の場合、空想が破れたこと(というかそもそも存在しなかったこと)をはっきりと描いているのが効果的でした。ただしこの作品では蛆虫さえも美しく、夢破れてなお美しいところが、甘さなのか救いなのか、それとも却って残酷なのか。
 

「花曝れ首」赤江瀑(1975)★★★☆☆
 ――嵯峨野めぐりの観光客が往き来する真昼間の道であった。『おきなはれ。もう忘れてしまいなはれ』と、耳もとで低い艶やかな声がした。――春之助さんね? 『かなんなあ。まだわたしの声、おぼえてくれはらへんのかいなあ。秋童どす』

 再読。→http://d.hatena.ne.jp/doshin/20070712。男にふられた傷心旅行で、かげ子の霊二体につきまとわれる話ですが、読み返してみると執拗な京都弁が鼻についてしまいました。
 

「藤原月彦三十三句」★★★★☆
 ――「土牢に老いて美貌の鉄仮面」「焚刑の伯母より紅き夜の椿」「水中花死者の眼にまず秋は来て」「秋逝くと箪笥にもどる一族よ」

 なぜ「伯母」なのかと考え出すとわからなくなりますが、火と椿の「赤」――(おそらくはうつぶせに浮かぶ)水死体の目を通した水中花(を見ている「壜」の外側の視線)――など、鮮烈なイメージが目を惹きます。
 

「傳説」山尾悠子(1982)★★★★★
 ――憂愁の世界の涯ての涯てまで、累々と滅びた石の都の廃墟で埋まっている。まずはそう思え。神々の没落をとうに見送り果てた筈のこの世界に、或る日変化が起きたと思え。動くものが現れたのだ。人間、それも二人。長身の男と年若い女

 廃墟のジオラマのような、百鬼夜行のような、来迎のような、映像以上に視覚的なこの世ならざる風景には溜息が出ます。自分が神の視点に立って見下ろしているような錯覚を束の間味わえます。
 

「眉雨」古井由吉(1985)★★★★★
 ――この夜、凶なきか。独り言が韻文がかった日は用心したほうがよい。雲の中に目がある。夢だったかもしれない。女人の眉だ。「虹、朝方に掛かるのを見たことはないか」「さて、朝焼けのひどいのなら。人を起こそうと思ったほどでしたが、この世の終りではあるまいし」

 どちらかと言えば美文が多かったこれまでとは違い、ひっかかりのある文章に、流し読みを断固として拒むような、脅迫めいた意思を感じます。「なかった過去まで寄せて、濃い覚えに煮つめる。そして未来へ繋げる。」いわば嘘つき宣言のような文章を蝶番にして聞こえる太鼓の音は、当然この世のものではないような。
 

「春の滅び」皆川博子(1986)★★★★★
 ――七人、殺したのよ。叔母は、やわらかい笑顔で、そう言ったのだった。毎年、一人ずつ。今年、八人目。最後の一人を殺すの。そうして一年前の三月四日に姿を消した叔母に代わり、今年はわたしが列車に乗っていた。叔母の言葉が、床の間の雛人形を見たとき、はっきり理解できた。

 やや卑怯めいている気もしますが、やはりこの導入は素晴らしい。雛人形の物語は、語り手を陶酔させる物語の名手である「叔母が紡ぎ出した絵空事」だ、と断じるくだりでは、陶酔するような物語なら小栗判官雪の女王に負けるものかという著者の自負を感じさせて、小気味よい。八年にもわたって続けられてきた儀式だからこそ、自分が酔える物語でなければ、どうして他人を酔わせることができるものか、と思うのです。
 

「人攫いの午後 ヴィスコンティの男たち」久世光彦(1987)★★★★☆
 ――その男は随分大きかった。じっと私を見下ろしている。濁った嫌な目である。私は嫌な匂いのする落葉の窪に埋まって、穴のふちに立っている男を見上げていた。その男は、いまで言う変質者であったに違いない。私たち子供は、その男のことを〈人攫い〉と呼ぶように教えられていた。

 著者のいう被虐快感こそ感じないものの、「腰まで腐葉土に埋まった小児と、生臭い息を吐きながらそれを見下ろしている巨きな男」という絵には、見過ごせない何かがあります。試みに、被虐快感とはすなわちホラー作品を愉しむ感覚だ、と言いかえるならば、その魅力がわからなくもありません。
 

「V 文学的ゴシックの現在」

「暗黒系 Goth」乙一(2001)★★★★☆
 ――夏休みが過ぎたころ、ひさびさに森野と顔を合わせた。森野はポケットから手帳を取り出した。「五月十日。駅前で楠田光恵という女と知り合う。年齢は十六。声をかけると車に乗り込んできた」……僕は楠田光恵という名前に見覚えがあった。「私が思うに、この手帳は楠田光恵を殺した犯人が落としたものだと思うの」

 再読。『GOTH』の一篇。おそらくは、ホラーファンではない人間に、ゴスロリやゴシックパンク以外の「ゴス」という言葉を広めた功績者、だと思います。幻想や耽美や業や美文などなくとも、日常と地続きのまま、ホラー映画を見るように現実の死に触れることもできるのだと知らしめました。ライトではあってもファッションではなく、スピリットだけは確実に抽出しています。
 

「セカイ、蛮族、ぼく。」伊藤計劃(2007)★★★★☆
 ――「遅刻遅刻ぅ〜」と甲高い声で叫ぶその口で同時に食パンをくわえた器用な女の子が、勢い良く曲り角から飛び出してきてぼくに激しくぶつかって転倒したので犯した。ひどい話だと思う。なんでそんなことをしたかというと、ぼくが蛮族だからだ。

 世界と切り離されたセカイとは即ち蛮族の住む辺境である、ということを文字通りに体現してしまった作品です。その意味では、パロディではあっても必然でもあるはずです。
 

「ジャングリン・パパの愛撫の手」桜庭一樹(2007)★★★★★
 ――戦争が終わり、生きて帰ってきたジャングリンには腕がなかった。雑貨屋の娘とジャングリンは雑貨屋の二階に所帯を持った。――夜が更けると「それ」がやってきた。半透明に消えつつあるジャングリン・パパが若い夫婦のベッドに潜り込み、二人が情熱的に抱きあえば、ないはずの腕が生えるのだった。

 再読。『道徳という名の少年』の一篇。生きているのに透明な父親に、南米マジック・リアリズム。舞うように愛撫する手と足に「ビアンカの手」。それに性愛怪談に、メイ・シンクレアの諸作――といったさまざまな先行作を自家薬籠中のものにしているのは、読書家の著者ならではです。口が利けなくなったことが一種の契約のように作用して「願い」が叶い、やがて解けてしまうという仕掛けも見事でした。それにしても「溶けたバターみたいに黄色がかっていた」目玉、とは、薄気味悪い譬喩を考えついたものです。溶けたバターならかろうじて透明がかった琥珀色ですが、凝固してしまえば不透明に濁った死人の目を連想せざるを得ず、目の描写が何よりも怖かったです。
 

「逃げよう」京極夏彦(2008)★★★☆☆
 ――変なものに追い掛けられて逃げた。翠色だった。わりと大きくて、意外に速い。がむ、がむ、がむと意味の解らない言葉か、そういう声かで啼く。迚も厭なものだ。

 怪談専門誌『幽』に連載されている著者の一連の作品は――というよりも、京極夏彦のくどい文体が苦手です。京極堂シリーズみたいに内容自体が濃ゆい作品ならそれもいいのですが。粘っこくて読み終えたあともいつまでもまとわりつく、という意味では、良質の怪奇作品なのでしょうけれど。そして本篇の場合は、そのまとわりつきが、「逃げよう」というテーマとも関わっている点が素晴らしいと思うのです(……が、作品自体はどうしても好きになれません)。
 

「老婆J」小川洋子(1998)★★★★★
 ――大家のJさんは年老いた独り暮らしの未亡人だった。私がJさんから野菜をもらったのは、野良猫がきっかけだった。「全く手に負えないだから」Jさんは一通り猫の悪口を言い終わると、勝手口から私の部屋に入ってきた。「小説家なんだってねえ」「ご主人は何をなさってたんです?」「ただの酔っ払い。私がマッサージ師で稼いだ金で、何とかやっていた」

 コリア「みどりの想い」等をはじめとして、実ならざるものが生るのは怪奇小説の定番ですが、本作でも、枝からぶらさがるキーウイに「深緑色のコウモリが何匹も何匹も、ゆさゆさと丘を揺らしている」空想を見てしまう冒頭から、たちまち妖しい魅力に引き込まれてしまいます。そして大量の松葉、人の手の形をした人参、と描かれると、植物というものがこれほどまでに薄気味悪いものだったかと、ぞっとするというよりはむしろ陶然としてしまいました。
 

「ステーシー異聞 再殺部隊隊長の回想」大槻ケンヂ(2005)★★★★☆
 ――十五歳から十七歳までの少女たちが、次々と息絶え、一度は命尽きながら、生きる屍……「ねぇ、私の再殺の権利を、もらってくれない? うふふ」 ステーシーは発生しだい再殺部隊によって百六十五以上の肉塊に分割される運命にあった。それでも少女たちは、せめて好きな人に百六十五分割されたいと願うのだった。

 ゾンビではなくステーシー。なるのは少女たちのみ。ゴシックがポップカルチャーと出会ったという点でエポックメイキングな作品(かもしれない)。特にこの番外編は少女と少年の青臭い恋愛未満が描かれていて、絵に描いたような青春を打ち砕く装置として残虐描写が機能しているところに、ホラー映画というまた別のポップカルチャーの作法を感じました。
 

「老年」倉阪鬼一郎(1998)★★★★☆
 ――テレビでは夜桜中継。確かに夜桜は美しい。だが、何度も見た。真昼の桜はその何倍も美しいだろう。ビデオではない、本物の桜は。電話が鳴った。山本の次に親しい編集者からだった。昨年に出た翻訳の売り上げが上々である。戻ると妻が待っていた。「山本さん、ノイローゼってことになるのかしら」

 パロディめいた作品が続きますが、続いてはシルバー怪異譚。かつてこれほどまでに枯淡としたモンスター小説があったでしょうか。そして最期に向かっていながらも、夜の闇ではなく光に向かって開いている(当然といえば当然なのですが)というのが、また妙な感慨を催させるのです。
 

「ミンク」金原ひとみ(2007)★★★★★
 ――大声で叫びながら体当たりをする私。線路の上へ落ちた男はうつ伏せに倒れもがいている。真下を覗き込むと、私の頭が大根おろしのようにすり下ろされていく。いかにも、今これから神経科へ向かおうとする神経症の女性、的な主人公になったつもりで電車を待っている私は、実際これほどの神経症ではなく、これは私の演技による、ただの想像だ。

 ここまでくるともはやどこがゴシックなのだかよくわかりませんが、病んでいる少女(?)の妄想であれば、確かにゴシックロマンスと一脈通ずるところもあるのは事実です。激しい思い込みと過剰な防衛本能と場当たりな思いつきにがんじがらめになりながらも、壊れてしまわないどころか、ちょっとおかしな店員さえも取り込んでしまえるバランス感覚は、驚嘆に値します。削られた脳みそと煎餅とお尻の温もりと店員との駆引きといったことが、語り手の頭のなかではすべて同じレベルなのですから、読者の常識も揺さぶられる異化効果が発揮されていました。
 

「デーモン日暮」木下古栗(2009)★★★★☆
 ――突然ゴミ箱から人間が現れた。ゴミ箱がタイムワープの出口となって、原始人がやって来たに違いない。男は地面を蹴って決死の体当たりを浴びせた。火照った皮膚に、恐怖を浄化する汗がどっと噴き出る。「温泉」と書かれた看板が目に飛び込んできた。

 クライマックス(らしきもの)の連続の果てにたどり着いたのは、筒井康隆めいた不条理ホラーでした。熱い相撲も、迫真の戦いも、謎めいた女も、なぜそんなことをしているのかそんなことが起こったのかは問われないまま、閣下と相撲で繋がっているように見えるのは、たぶん偶然です。
 

「今日の心霊」藤野可織(2013)★★★★☆
 ――のちにmicapon17という名で知られるようになる彼女が、その稀有な才能をはじめて開花させたのは、まだ二歳と十ヵ月のときであった。みかが撮ったのは三十六枚のうち二枚だった。一枚には左目の眼球をぶらさげた中年男の首が、ばっちりカメラ目線で焼き付けられているのだ。

 心霊写真というと重要なのは場所であったり、あるいは写真を見る側の見方の問題であったりするわけですが、この作品では撮る側に原因が求められています。それというのも、一見すると心霊写真の話のようでいながら、自覚なく問題を起こして疎外されたブロガーが、狭い仲間内のコミュニティに取り込まれてひとまずの(偽りの)居所を得るという、ネット世界のよくある縮図の物語だからなのでした。
 

「人魚の肉」中里友香(2012)★★★★★
 ――あなたがいなくなったら僕はもうなにをしでかすかわからない。あなたは病身の妹の美羽に優しく尽くしているにすぎないのに、あなたを身内のように感じてしまったんです。妹が亡くなって、僕はあなたを追いかけてもよかったはずです。覚えていますか――友人の縣を。その頃の縣は、美羽を熱心に好いていました。

 再読。なかなか要領をつかませない語りは、死ぬと言って想い人の気を引こうとする主人公の覚束なさにも重なって、ふらり、ふらり、曖昧な心地よさに揺られて漂わされます。それもそのはず主人公自身も繭弓に再会するまで気づいていなかったというのだから恐れ入ります。謎がパタパタとたたまれた末に明らかにされた真相――の向こうにある驚愕。――とはしかし、何だったのでしょう? 思わせぶりな結びの言葉に、ドキリとさせられました。
 

「壁」川口晴美(2006)★★★☆☆
 ――壁には苦しみがしるされている。その建物には入ってはいけない。そのような忌まわしい場所へ、足を踏み入れてはいけない。ホラームービーのヒロインにはそれがわからない。子どものころ、うすい壁の向こうに姉妹が住んでいた。

 散文詩。ホラームービーについて、「アルコールや薬を求めるみたいに」欲しかった「パッケージされた恐怖」という表現が秀逸です。それこそが怪奇小説や映画の魅力であり、しかしながら「リテラリーゴシック」とは重ならない部分なのでしょう。
 

「グレー・グレー」高原英理(2008)★★★★☆
 ――灰色だ。この空模様は長い。降ったり止んだりしながら何週間か。死んだあとも完全に腐り果てるまで生前の暮らしを続けようとする人もいる。物陰から噛み付いてくる奴もいるので、路地は路地で危険だ。コンビニでドライアイスを勝って、和花に会いにゆく。

 非日常と対峙するのではなく日常をいかに維持するかに意識が注がれたゾンビもの。例えば猫が。『ブレードランナー』以降の伝統となった、暗く湿ったディストピアでありながら、湿気=腐るというゾンビにとっては天敵ともいえる環境が、儚さを際立てていました。

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