『怪奇文学大山脈 西洋近代名作選 I 19世紀再興篇』荒俣宏編(東京創元社)
「まえがき」荒俣宏
平井呈一の思い出と、氏の海外怪奇文学の受容、本書の編纂意図、海外雑誌に見る怪奇小説の歴史、その日本受容史。
第I部 ドイツロマン派の大いなる影響:亡霊の騎士と妖怪の花嫁
「レノーレ」ゴットフリート・アウグスト・ビュルガー/南條竹則訳(Lenore,Gottfried August Burger,1773)★★★☆☆
――「心変わりをしたの、ウィリアム、それとも死んだの?」男は勇士たちと共に戦をたたかっていた。皇后と王は果てしない諍いに倦み、かくて戦人の群れは帰り来た。されど、ああ! レノーレは狂えるごとく地に伏した。ウィリアムがいなければ何の値打ちもないものを。されど聞け、夜闇に重い蹄の立てる音を。
解説によれば、ダンテ・ゲイブリエル・ロゼッティによって英訳され、英国のゴシックロマンス作家に影響を与え、その邦訳で日本にも影響を与えた歴史的作品を、その歴史的意義によりこれまた英訳からの重訳で。死してなお花嫁を迎えに来て、馬を疾駆させるその姿には、異様な迫力があります。現代日本の口語に訳されてしまえば失われてしまうものを、原詩が持っていたのかどうか、それすらもわたしにはわかりません。
「新メルジーネ」ヨハン・ヴォルフガング・ゲーテ/垂野創一郎訳(Die Neue Melusine,Johann Wolfgang Goethe,1807)★★★☆☆
――彼女ほど美しい女には会ったことがありませんでした。金貨の詰まった袋を渡され、小箱を大切に扱うよう伝えられましたが、約束の場所で落ち合う前に、私は金を使ってしまいました。しかし失意の底で部屋に戻ると、彼女が会いに来てくれたのです。侏儒の姫である彼女は、新しい血を入れるため私に近づいたのでした。
ゲーテ『ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代』より。魔性の女に魅入られる――というよりは、勝手に美女に入れあげて、結婚が嫌になったから逃げ出す、という駄目男の話です。いくら妖精やら女妖やらと書かれても、語り手が単なる女好きの独身主義者でしかないので、怪異でも妖異でもなくただの下世話な話にしか感じられないのが凄いところです。
「青い彼方への旅」ルートヴィヒ・ティーク/垂野創一郎訳(Das alte Buch und die Reise ins Blaue hinein,Ludwig Tieck,1834)★★★★☆
――正真正銘の中世の中頃、アセルスタンは放浪の旅を続け、やがて取り替え子である侏儒が聖具守を悪魔だと訴えている場面に出くわす。手も足も口も利けない侏儒が弁舌豊かになったのは神の奇跡であり、実は悪魔である聖具守に魔法をかけられていたのだと讒言していた。
暢気なぼんぼんの夢の旅から一転、取り替え子が現れてからは悪夢のごとき様相を呈し始めます。最後には妖精の女王が美醜論を語る観念的な内容に。著者の趣味を詰め込んだかのような絢爛豪華なごった煮でした。
「フランケンシュタインの古塔」作者不詳/南條竹則訳(The Old Tower of Frankenstein,Anonymous,1812?)
――たった一度でいいから君を僕のものにしたい……恋人同士の若者と乙女は人目を避けてフランケンシュタインの古塔で忍び会った。かつて怪物の犠牲となった女と子供の霊が今も塔には取り憑いているのだとか。
古くさい物語であり、『フランケンシュタイン』以前に「フランケンシュタイン」という固有名詞が登場する作品ですが、編者によれば、ピーター・ヘイニングによる偽作の可能性もあるとのこと。
「イタリア人の話」キャサリン・クロウ/青木悦子訳(The Italian's Story,Catherine Anne Crowe,1859)★★★★☆
――隠し場所から二千ポンドもの金がなくなっていたのです。ジャコボ・フェラルディ伯爵は必死になってさがしましたが、犯人の金のありかもわかりませんでした。英国の甥が資金を活用してもらいに来たのはそんなときです。ジャコボは甥を殺して二千ポンド奪いました。やがて幽霊に悩まされたジャコボは……。
由来譚と現代の幽霊譚の二部構成が面白い作品でした。ミステリ的な読み方をすると、最初に床の隠し場所から金が消えてしまうというのは一種のミスディレクションの役割を果たしていて、一度目の消失があるからこそ、二度目にジャコボの箱から金が消え失せてしまったときにも、読者はそれが霊現象だとあっさり信じてしまいます。現代パートで真相が明らかになったときには意表を突かれました。
「人狼」クレメンス・ハウスマン/野村芳夫訳(The Were-Wolf,Clemence (Anne) Housman,1896)★★★★☆
――クリスチャンは家路を急いでいた。目の前の雪に、巨大な狼の足跡を見つけ、注意深くつけていった。足跡は家の扉に一直線に続いている。思い切ってかけがねをあげ足を踏み入れると、見慣れた顔のなかに見知らぬ顔がひとつ混ざっている。白い毛皮を着た美しい女だ。
文体がぐっと現代的・小説的になりました。アンソロジー『狼女物語 美しくも妖しい短編傑作選』(→http://d.hatena.ne.jp/doshin/20111107)に大貫昌子訳「白いマントの女」の邦題で収録されていたものの別訳です。イラストは本人ではなく弟のロレンス・ハウスマンということでした。小説的にどういう意味があるのかはわかりませんが、冒頭に子どもの声で「開けて、開けて」とあるのがいやがおうにも怪異を誘います。
第II部 この世の向こうを覗く:心霊界と地球の辺境
「モノスとダイモノス」エドワード・ブルワー=リットン/南條竹則訳(Monos and Daimonos, A Legend,Edward Bulwer-Lytton,1830)★★★★☆
――私は英国の生まれだったが、社交生活を蔑み、巡礼の旅に出た。だが老いの初霜が降りるころ、英国行きの船に乗ったところ、図々しく、人をイライラさせる男と乗り合わせた。話しかけられると絞め殺したくなった。船が岩礁にぶつかったとき……。
この結末は、古くて新しい、あまりないパターンだと思いました。第二部からは心霊科学と関わりのある作品が並びますが、ブルワー=リットンは心霊科学に影響を受けたのではなく、その作品が心霊科学に影響を与えた方なのだそうです。今の目で読むと、ドッペルゲンガーものかなとジャンル分けしたくなりますが、タイトルの「Daimonos」は「ダイモーンの」という意味のようなので、男の正体は悪い精霊であるようです。
「悪魔のディッコン」ジョゼフ・シェリダン・レ・ファニュ/南條竹則訳(Dickon the Devil,Joseph Sheridan Le Fanu,1872)★★★★☆
――三十年前、相続人の老嬢たちから依頼されて、地産を分割するためにある所有地を訪れたことがある。地主のボウズ旦那は二十年も前に亡くなっていた。そこにはどういうわけか家の中では眠らない白痴がいて、悪魔という言葉しか口にしないため、「悪魔のディッコン」と呼ばれていた。おかしくなったのは二十年前――ボウズ旦那の死と同じころだった。
ディックにしてみればとんだとばっちりで、不仲な親戚に嫌がらせするために、親戚の使用人のそのまた弟に悪さするだなんて、祟りとしか言いようがありません。自分は悪くなくても非道い目に遭う、というのは、通り魔的なぞっとする恐ろしさでした。元になった言い伝えがあったのだとすればお粗末な話で、二つの出来事を無理やり因果関係で結びつけた変な話なのですが、かえって恐ろしさが増した、というところでしょうか。
「鐘突きジューバル」フィッツ=ジェイムズ・オブライエン/南條竹則訳(Jubal, the Ringer,Fitz-James O'brien,1858)★★★★☆
――鐘突きジューバルは鐘楼の窓から真っ暗な町を見下ろしていた。「この朝、アガサは結婚するのだ。俺が月よりも愛し、木の上から窓を眺め、命を助けたアガサのために、この鐘を鳴らさなければならない……心なき女よ、呪文を使ってやる」式よりも前に、鐘楼の鐘が鳴り始めた。
逆恨みが二篇続きますが、本篇のよいところは、何と言っても滅びの美学です。鐘の音とともにすべてが崩れゆくカタストロフには、様式美すら漂っています。風見鶏から語り始めて風見鶏で終わることで、単に鐘だけでなくもっとスケールの大きなものの滅びになっていました。
「仮面」リチャード・マーシュ/青木悦子訳(The Mask,Richard Marsh,1892)★★★★☆
――「わたくしのこの顔が、仮面でない理由がありますかしら?」ミセス・ジェインズという美しいご婦人の話を聞きながら、わたしはホテルで警官を待っていた。旅行中に列車のなかで、男に勧められた酒を飲み眠ってしまい、そのあいだ強盗にあった夢を見たのだ。目が覚めると実際に身のまわり品を盗まれていた。その時に見たのは、悪魔のような顔と、けだもののような叫びだった。
エイクマンの祖父という、サラブレッドの血筋の大本です。列車強盗の正体が幽霊であったならばありきたりの鉄道怪談なのですが、薬によって眠らされるという時点で人間の手が介入しており、ミステリあるいはオカルトの匂いがぷんぷんします。それでいながら「悪魔の顔」「けだものの叫びか咆哮」という不気味な要素や、消えてしまった男という超常的な要素が描かれ、もしかすると語り手に精神的な症状が現れているのではないかと不安になります。しかしながら最終的にはサイコはそっちではなかったという真相が明らかになりました。全篇を通してとにかく胸がつかえるような不安で不確かな息苦しさに満ちた作品です。
第III部 欧州からの新たなる霊感と幻想科学小説
「王太子通り《リュ・ムッシュー・ル・プランス》二五二番地」ラルフ・アダムズ・クラム/青木悦子訳(NO. 252 RUE M. LE PRINCE,Ralf Adams Cram,1895)★★★★☆
――パリに来たわたしは、旧友のダルデッシュの親切心に身をゆだねることにした。おばからかなりの財産を受け継いでいたのだが、そのおばというのが黒魔術を好んでいたらしい。わたしたちは近所から“地獄の口”と呼ばれている家で一夜を過ごすことにした。
後半に訪れる、すわクトゥルーかグロホラーかという怪異の恐ろしさが一頭地を抜いていました。例えばゴーストハンターなどでは対応できない、人間の理解や能力を超えたこうした怖さには、理性では処理しきれない生理的な恐怖を感じます。
「使者」ロバート・W・チェンバーズ/夏来健次訳(The Messenger,Robert William Chambers,1897)★★★★☆
――三十八個の髑髏が発掘されたが、犠牲者は三十九人いるはずだった。最後の髑髏は、フランスを裏切り処刑された黒魔僧のものだった。いつか自分の墓を暴くイギリス人と村人を呪って死んでいたため、村長たちは髑髏を見つけることを恐れていた。だがわたしが何気なく蹴飛ばしたのは、石ころではなく髑髏だった。そのうえ蹴ったはずの髑髏が足許に戻っていた……。
羽根に髑髏模様があることからその地方では「死の使者」と呼ばれている蛾がタイトルの由来です。迷信に凝り固まった村人たち、忍び寄る僧の影、不気味な蛾の来訪……と、正統的な盛り上がりを見せながら、冒頭の「やってはいけないことをやってしまう」ところや、終盤の家から森まで続く血塗れの跡、あるいは主人公夫婦のロマンスさえも、怪談というよりもホラー映画に近い味を感じました。蛾というのは単なる象徴ではなく、動物怪談でもありました。
「ふくろうの耳」エルクマン=シャトリアン/藤田真利子訳(L'Oreille de la chuette,Erckman-Chatrian,1857)★★★★☆
――ガイアシュタインの遺跡は、螺旋階段が底に向かって広がっていた。その遺跡に幽霊が出たと知らされて行ってみると、服がぼろぼろの小男が出てきた。「何の権利があってわしの研究を邪魔するんだ!」筋が通らないことしか言わないので、牢屋にぶちこんだが、翌朝になって役場に連れていこうとすると、男は天窓の格子からネクタイで……。
これは怪奇小説の文脈というよりは、フランス幻想SFの文脈で説明したほうがしっくり来そうな作品でした。至高を夢見る科学者だったのか、理想を求める狂人だったのか、いずれにしても理知的な科学というよりは鉱物美のようなロマンチシズムの色濃い作品でした。
「重力が嫌いな人(ちょっとした冗談)」コンスタンチン・ツィオルコフスキイ/大野典宏訳(Грёзы о Земле и небе,Константин Эдуардович Циолковский,1895)★★★☆☆
――我が友人の一人に変わった人物がいる。蛇蝎のごとく地球の重力を嫌っていた。「重力から解き放たれた環境では、車輪のない快適な馬車によって貧困と富有の彼我が無くなる。地面が必要なく、どんな規模の家であろうと好きな場所に建てられる」「どこにそんな環境があるのですか?」「実際に小惑星群の環境はこのようなものだ」
SFというより学習まんがの博士と助手のやり取りみたいでした。それもそのはず著者は実際の科学者で、現実の宇宙開発に多大な影響を与えたのだとか。
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