第1部 西洋怪奇のジャパネスク
「分身――ジェイムズ・ホッグと芥川龍之介」金津和美
ジェイムズ・ホッグ自身の言葉と、ホッグ作品の登場人物の言葉を重ねて、ホッグの「多面性」を明らかにするところまではともかく、そこから「第二の自我としての分身の幻影」に怯えた芥川には、結局つなげきれずに曖昧なままに終始しています。
「美しき吸血鬼――須永朝彦による西洋由来の吸血鬼の美的要素の結晶化」下楠昌哉
一九六〇〜一九七〇年代前半にかけての吸血鬼は、「美しい吸血鬼」ではなかったという指摘自体が目から鱗でした。日本における「美しき吸血鬼」の誕生を、須永朝彦を中心に、萩尾望都、『インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア』に求めています。あとドラキュラにかぎっては、「伯爵」という響きが、宝塚チックな貴族観に冒されたせいもあると思います。
第2部 驚異から幻想へ
「幻想のアマゾン族――古代から中世への変遷」大沼由布
ギリシアの敵としてのアマゾン族から、キリスト教の味方としてのアマゾン族へと、辺境の蛮族が大国の都合によって存在する意味を変えられてきた様子を、文献や美術を通して明らかにしています。
「神の祝福か、悪魔の呪いか――魔術師マーリンの予言」小宮真樹子
単なる予言者から、魔術師へ、そして悪魔の子、時代が下って善良な側面が加えられるまでの変遷が描かれています。
「舞台に現れた死者たち――初期近代イングランド演劇に見る〈幻想〉の萌芽」岩田美喜
プロテスタントによって「煉獄を含むカソリック教義を否定」された背景に則して、『ハムレット』をたどり、残虐で大衆的だとされていたジョン・ウェブスター作品も同じく煉獄とカソリックに則してたどってゆきます。「はっきりと「それ」を亡霊と認識して」いるのはハムレットのみであることや、母の言葉以降は「亡父への言及を極端に減らしてしまう」ことなど、『ハムレット』研究家にとっては常識だと思われる事実も、門外漢にとってはためになりました。
第3部 ゴシックとファンタスティック
「アン・ラドクリフ『イタリアの惨劇』における幻想性と怪異感」小川公代
ゴシック小説に現れる権力や古城が、「フランスの「圧政」の象徴バスティーユ監獄を彷彿させるという解釈は定番中の定番である」そうです。
「血と病と男たちの欲望――トマス・ハーディ「グリーブ家のバーバラ」の彫像」金谷益道
ハーディ「グリーブ家のバーバラ」は単独で読むと「女性嫌悪《ミソジニー》の是認」とも受け取られかねないが、短篇集『貴婦人たちの物語』を通して読めば、そうした男たちの「偏狭さを揶揄しているのだ」という、当たり前といえば当たり前な内容。
「殖民地の逆襲と、あえてその名を告げぬ民族主義――オスカー・ワイルド「カンタヴィルの幽霊」の喜劇性、ゴシック性、政治性」多々良俊樹
……。
「超自然のもたらす「リアリティ」――ウィリアム・シャープの「ヒラリオン神父の激情」とフィオナ・マクラウドの「森のカハル」をめぐって」有元志保
シャープとマクラウドは同一人物の別名義。「聖職者が信仰と欲望との間で揺れ動いた末に棄教する」という二者の共通点に着目しつつ、共通点と相違点をあぶりだしますが、それで超自然のもたらすリアリティという話になるのはちょっとよくわかりません。
第4部 幻想と怪奇の現代
「クローン人間創世記――カズオ・イシグロの『わたしを離さないで』」臼井雅美
切り口が「幻想と怪奇」ではなく、架空世界が舞台の作品を論じた、オーソドックスな作品論でした。
「幽霊たちのいるところ――エリザベス・ボウエン「猫は跳ぶ」に見る幽霊屋敷の系譜」桃尾美佳
ボウエン「猫は跳ぶ」において、「別世界に置かれていたはずの」ゴシック的閉鎖空間が「日常の延長線上」に移されたのは何故か――アイルランドでは英国より一足遅れでゴシック小説が隆盛しており、その理由を明らかにすることで、前述の問いに答えていました。さらには、三種類の「ハロルド」表記をもとに解き明かされる幽霊の実在についての推論は圧巻です。
「恐怖と欲望の操り人形――アンジェラ・カーターのカーニヴァル劇場」高橋路子
日本を題材にした「レディ紫の情事」の作品論。
「ブックガイド」
「執筆者紹介(東雅夫によるメール・インタビュー)」
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