『第七官界彷徨・琉璃玉の耳輪 他四篇』尾崎翠(岩波文庫)★★★★★

第七官界彷徨(1931)★★★★★
 ――よほど遠い過去のこと、秋から冬にかけての短い期間を、私は、変な家庭の一員としてすごした。そしてそのあいだに私はひとつの恋をしたようである。私はひとつ、人間の第七官にひびくような詩を書いてやりましょうという目的を抱いていた。私を炊事係に命じたのは兄の小野一助で、それに賛成したのは従兄弟の佐田三五郎であったと思う。ほかに小野二助と私・小野町子の合計四人分の炊事係である。三五郎は音楽学校の二度目の受験を控えており、一助は分裂心理学を研究しており、二助は部屋でこやしを煮て二十日大根を育て、蘚をいくつも育てていた。

 赤毛の癖毛をしたやせっぽちの少女・町子が思春期を過ごした、ひとときの風景。一助や二助や三五郎によって交わされる蘚や音楽や恋についてのいっぷう変わった議論には、往時の小説の議論好きな趨勢をしのばせます。町子はそれを怪訝がるでもなく、第七官にひびく詩を書こうと思い立ったり、二助の論文(傷心旅行がきっかけで頼まれた土壌改良や、蘚の恋愛についての研究)をひそかに読んで人には隠したりする感性の持ち主ながら、そうかと思えば「音楽家になるためには失恋しなければならないし、私が第七官の詩をかくにも失恋しなければならないであろう」という乙女としか言いようのない一面も併せ持っています。こうした、非日常と共感が同居する感覚が、愛されるゆえんの一つだろうな、と思います。髪にコンプレックスを抱きながら、切られればやはり泪を流したりもします。後日、ほとんど粉となった髪の切屑を見て町子が哀愁をそそられる場面は、「もの」を通して人間の心情をあますところなく描いた名場面です。
 

「歩行」(1931)★★★☆☆
 ――夕方、私が屋根部屋を出てひとり歩いていたのは、まったく幸田当八氏のおもかげを忘れるためであった。夕方にお萩を作ることを思いついた祖母が、松木夫人の許に届けるよう私に命じた。恋愛劇の台詞を朗読させ、発音の仕方によって人間心理の奥ふかいところを究めるつもりのようだ。私が道草しているうちに、松木家の夕食は済んでしまい、卓上には雑誌と一罎のおたまじゃくしが戴っていた。

 「第七官界彷徨」に出て来る心理病院医員・柳浩六が幸田当八と名を変えて再登場、語り手は小野一助の妹となっていますが、「第七官界彷徨」とは別の世界と捉えた方が良いようです。「第七官界彷徨」と比べるとやや現実寄り。語り手の失恋は茫漠としたものではなく実際に女心をもてあそばれ、語り手のものではないとはいえ実際に詩が登場し、詩人は薬に依存しています。そんななか祖母だけは平常運転。突然お萩を作ったり、そもそも戯曲が読めずに幸田氏の目論見を失敗させたり。
 

「こおろぎ嬢」(1932)★★★★★
 ――名前をあかしても、私たちのものがたりの女主人を知っている人は、そう多くないであろう。聞くところによれば、褐色の粉薬の常用者だという。ごく小さい声で打明けることにしよう。私たちのものがたりの女主人は、悪魔の製剤の命ずるままに、このごろ一つの恋をしていたのである。一日、こおろぎ嬢は、ふとしたことから一篇のものがたりを発見した。うぃりあむ・しゃあぷ氏という詩人がいて、時の女詩人ふぃおな・まくろおど嬢に想いを懸けてしまった。けれどここに一つの神秘は、人々がついぞまくろおど嬢のすがたを見かけなかったことである。

 うってかわって、パンを食することからすら逃れたがっている、浮世離れしたこおろぎ嬢のお目見えです。そんな浮世離れした人間にふさわしく、存在しない女性との魂の恋愛譚に心を惹かれ、地下食堂の隣人に声には出さずに語りかけたりする、まさしく内的世界の住人なのです。
 

「地下室アントンの一夜」(1932)★★★☆☆
 ――おたまじゃくしの詩を書こうとするとき実物を見ると、詩なんか書けなくなってしまうんです。恋をしているとき恋の詩が書けないんです。僕を一人の抒情詩人にしようと思われたら、僕の住いに女の子の使者なんかよこさないでください。

 「歩行」の続編であり、土田九作と松木氏から見たいきさつが語られています。小説技巧としては抽斗が増えレベルアップしている――と見るべきなのかもしれませんが、少女視点というのが尾崎作品に欠かせない魅力であるとも再認識させられれもしました。
 

「アップルパイの午後」(1929)★★★★☆
 ――兄「お前くらい男に似た女はないぞ。存在理由を獲得するには恋なんだ。こい。リイベ。ラヴ」、妹「やかましいわね(書いていた紙を伏せる)」、兄「何を書いているんだ。『お怒りになっちゃいやよ。でも今日いらして下さらないのは……』。僕は嬉しいよ。相手は誰なんだ」、妹「受取り手はいないの。こんな作文を書いて女らしい気持を味わおうと思ったの」

 印象的なタイトルは、アップルパイを愛する妹と、兄の友人・松村に由来します。恋愛論を交わし「哲学の化粧法」なる表現を用いる兄妹たちは、まぎれもなく『第七官界彷徨』と同じ世界の住人たちです。しかしながら、「架空の恋人に宛てた手紙」といういかにもガーリーな趣向が裏返る意外性も有していました。
 

「琉璃玉の耳輪」(1927執筆)★★★★☆
 ――耳輪を残して母に捨てられた瑶《よう》、王瑩《えい》、葰《しゅう》の娘三人を、探してほしい――。探偵岡田明子のもとを訪れたベールの婦人はそう言った。櫻小路伯爵の息子・公博に振られ傷心の明子は、仕事に飛びついた。ある娘は変態性欲者の犠牲となり、ある娘は地下の阿片密売所で暮らし、ある娘は掏摸となってたつきを得ていた……。

 映画のシナリオ懸賞に応募した(が最終的に入選を逃した)未発表作。映画シナリオということもあり、ほかの作品とは趣のだいぶ違った探偵小説でした。何より主人公が、失恋しても探偵という現実の活動に次の行動を見出すアクティブさの持ち主なのです。それでいながら退廃的な雰囲気も漂わせており、十蘭『魔都』や一連の作家の大陸もののような魅力もありました。登場人物はさほど多くないのに、梗概を一読しただけでは人物関係と内容がすっきり頭に入りませんでした。

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