『Liberty Bar』Georges Simenon,1932年。
戦前に邦訳されたきりだった『自由酒場』の新訳完訳。
メグレはアンティーブの駅で列車を降りた。紺碧海岸《コート・ダジュール》の雰囲気はヴァカンスを感じさせる。メグレはいささか特殊な指令を受けていた。「ブラウンという男がアンティーブ岬で殺された。あまり波風を立てるなよ。戦争中に軍情報部で仕事をしていたんだ……」。地元の刑事ブティーグによれば、三日間路上駐車されていたブラウンの車が急発進して岩に衝突、中から同居していた〈妻〉ジーナ母子が逃げ出したのだという。所持品からは金と貴重品、庭からはブラウンの死体が見つかった。ブラウンの死を通報しなかったのは警察を毛嫌いしていたから、金を持って逃げたのは正式に結婚していなかったからだとジーナ母子は証言した。ブラウンがいつも二千フランを持って出かけ、数日してから酔っ払って帰宅すると聞いたメグレは、自由酒場《リバティ・バー》という酒場を探り当てる。太っちょのジャジャという女が経営している居心地のいい酒場だった。そこにはシルヴィという若い娼婦もいた。
メグレものというと、メグレや部下や判事たちのキャラクターは印象に残っているのですが、その印象が強すぎるためか、一部の例外を除いて犯人や被害者や関係者のイメージがあまり記憶に残っていません。
ところがこの作品は、出張中ですからもちろん部下は登場しませんし、メグレ自身も影が薄い。その一方で関係者が(特に女性陣が)強い印象を残します。ブラウンはこんな女二人と十年もいっしょにいたのか、とメグレに同情されるほど面倒臭いジーナ・マルティニと母マルティニ夫人。酒場の経営者らしく気さくで包容力のあるジャジャや、薄倖そうなシルヴィによって、「自由酒場」という酒場が、ひいては紺碧海岸の姿が、伝わって来るようです。そして何より最終章に登場するメグレ夫人!
メグレを前にした犯人の発作的な感情の爆発も忘れてはなりません。隠されていたコンプレックスを一挙に噴出させたうえ、その場だけに留まらず、その後の病院のベッドの上でさえ感情を露わにする姿には、同情も共感も出来ませんが感情を突かれるのは確かです。
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