待望の――というより、もはや期待もしていなかった円紫師匠と〈私〉シリーズの最新作です。――が、何と言っていいのやら。
カバー装画は高野文子……なのですが、現在の高野文子の作風の絵なんですよね。当たり前ですが。
作中の時間も現実と同じように流れていました。〈私〉も中学生の一児の母になっています。これには人の親である北村薫氏なりの切実な理由があるのかもしれませんが、わたしにはわかりません。それでもひとつ言えることはあります。この作品には現実の固有名詞が頻出します。又吉直樹や川上未映子の言葉を引用したいと思ったのなら、現代を舞台にするしかないでしょう。
この作品には謎も解決もありません。名作『六の宮の姫君』のような広い意味での謎すらなく、ひたすら〈私〉による小説談義が続くのみです。「太宰治の辞書」が何だったのかという「真相」はありません。「唯一無二の答えが出るようなら、小説とはいえない」という円紫師匠の言葉は、けれど「逃げ」ではないはずです。
乱歩らとの座談会における三島のピエル・ロチ発言や、芥川「舞踏会」における『お菊夫人』という訳題、太宰「女生徒」のなかで席を取られるシーンの不可解さ、そして「女生徒」が参照する「辞書」にあるまじき語釈の謎……などを通して、精読の楽しみを教えてくれるのは間違いありません。
それでも不満は残ります。〈私〉シリーズにする意味がない。エッセイでいいのではないか――。謎と解決という部分は置いておくにしても、時をひと息に飛び越えてしまったせいで、成長物語という側面すらなくなってしまいました。
少なくとも作品を読むかぎりでは〈私〉は著者よりも年下であるはずなのに、作中で披露される知識が一世代前のもの(つまり〈私〉のものではなく著者である北村薫のもの)であるという矛盾も、細かいところですが気になります。
何よりの不満は、一話目の「花火」には、みさき書房の社員が登場するだけで、円紫さんが登場しないのです。
それでも、第二話「女生徒」に登場する正ちゃんは、文字通りまったく変わっていませんでした。お腹の肉が気になりだしたらしい〈私〉と同じく、肉体的精神的に変わってはいても、正ちゃんはどこまでも正ちゃんでした。
第三話「太宰治の辞書」でようやく円紫師匠が登場します。「生れて、すみません」の著者や心中する太宰への眼差しや、「もう、ふたたびお目にかかりません」に関する〈私〉への問いかけには、相変わらずはっとさせられます。
[amazon で見る]
文庫