『怪奇文学大山脈III 西洋近代名作選【諸雑誌氾濫篇】』荒俣宏編(東京創元社)★★★☆☆

「第三巻まえがき」荒俣宏
 ――今は忘れられた「愚作」も、当時は「時流に迎合した成功作」だった場合があるのだ。たとえば一〇〇年前には、そうした発掘で陽の目を見たのがレ・ファニュである。レ・ファニュほどの宝はもう望めないかもしれないが、まずは掘り返してみることだ。この巻では、大衆に消費されることを目的としたその場かぎりの娯楽作品を再検討する。

 これまで日の当たらなかったジャンルが取り上げられているだけに、まえがきだけでもシリーズ通して最大のページ数(74ページ)ありました。しかし編者の意気込みは尊重するものの、上の紹介文にあるような作品はわたしの苦手なタイプの作品。どうなることかと読み進めてみましたが、グラン・ギニョル以外はけっこう面白い作品が多かったと感じました。
 

「枷をはめられて」スティーヴン・クレーン/青木悦子訳(Manacled,Stephen Crane,1900)★★★★☆
 ――第二幕も順調だった。主役の男が囚人服を着て怒りを見せると、二人の看守が本物の手枷と足枷をはめた。そばにいる敵役が歯を見せて笑った。その笑いをかき消し、観客から叫び声があがった。「火事だ!」その叫び声を聞いて、二人の看守役は逃げ出してしまった。「どこへ行くんだよ? 俺に枷をはめたままじゃないか!」

 編者はビアスに比していますが、それもむべなるかな。解説によれば、戦場で死を目の当たりにした著者が、実際に自分の手足を縛らせて体験した苦悶に基づいて書かれたという、迫力に満ちた作品です。これが著者の特質であるらしく、煽情的で過剰なところのない、きびきびした文体の掌篇です。アメリカのパルプ雑誌アゴーシー』と同名別物のイギリス雑誌に掲載されたよし。
 

「闇の力」イーディス・ネズビット/圷香織訳(Power of Darkness,Edith Nesbit,1905)★★★☆☆
 ――ローズは芸術家のたまり場のマドンナだった。見送りの人々が列車から離れるなか、ローズとエドワードの視線が絡んだ。ヴィンセントはそれを見逃さなかった。ヴィンセントとエドワードは友だちだ。エドワードは暗闇が怖かった。「グレヴァン博物館へ行こうぜ」ヴィンセントが言った。蝋人形館だ。

 鞘当てに蝋人形館に肝試し(?)という道具立てはさして珍しくないものの、ぐっと恐怖に引き込まれてしまうのは、暗闇が怖さを引き立たせるという事実に、読者が実感を持って共感できるからでしょう。『ストランド・マガジン』掲載。
 

「アシュトルトの樹林」ジョン・バカン/青木悦子訳(The Grove of Ashtaroth,John Buchan,1910)★★★☆☆
 ――ローソンが住むつもりにしたのは、未墾の林がつづいている場所だった。これはキリスト教の木立ではない。森ではなく、「妖精の住む樹林《グローブ》」だ。三年後、わたしはローソンが道楽をどう完成させたのかを見に戻ってきた。三年ぶりに見るローソンは、太って疲れて見え、病気かとたずねると怒り出した。その夜、ローソンがさまよっているのを見かけ……。

 政治家で『三十九階段』の著者としても著名なジョン・バカンによる怪奇小説。恐怖自体は描かれず、邪神によって変わってしまった人間と、邪神の存在を仄めかす文章のみによる、朦朧法ここに極まれりといった手法によって書かれています。アシュトルトという神に馴染みがあるかどうかでまた受ける感覚が違ってくるのではないかと思います。『ブラックウッズ・エディンバラ・マガジン』掲載。
 

「蝋人形小屋」グスタフ・マイリンク垂野創一郎(Wachsfigurenkabinett,Gustav Meylink,1907)★★★☆☆
 ――病みつつあったトーマ・シャルノックが子どもとともに姿を消した。ダラシェコという名家出身の男と一緒にいるのを見た人もあるという。そのダラシェコがどうしてか蝋人形小屋を開いていた。蝋の生首が瞼を開き、ぜんまいがキリキリと鳴った。ふいに銅鑼が鳴った。「生体磁気の双子だよ!」生ける溺死体のようなその子どもの顔は、シャルノックにそっくりだった。

 「蝋人形館」の邦題で白水Uブックス『ドイツ幻想小説傑作集』に収録されていました。蝋人形その実フリークス――という趣味は乱歩を思わせますが、それが誕生するにいたる経緯は、もはや理解不能。オカルトというのもためらわれる狂気に満ちていました。『シンプリチシムス』掲載。
 

「舞踏会の夜」カール・ハンス・シュトローブル垂野創一郎(Ballnacht,Karl HansStrobl,1920)★★★☆☆
 ――ヴォルフガングが出がけに蟇蛙につまづいたのが事の始まりだった。「ドーリス、どうしても行くのかい。もう僕を愛していないのかい」「そのとおりよ」ヴォルフガングは最後にドーリスを人形劇場に連れて行った。「わたくしのマリオネットは、上からではなく下から操るのです。運んできた船からペストが出ましたが、わたくしはペストなんぞ恐れません」まるで自分自身が劇のなかにいるようだった。

 鴎外訳「刺絡」で有名な著者の作品です。「刺絡」もそうでしたが、クライマックスにかけてのラストスパートがいびつで、わけのわからない世界に放り込まれたと思っていたら、気づくときれいにまとめられていました。『デア・オルキデーンガルテン』掲載。
 

カミーユ・フラマリオンの著名なる『ある彗星の話』の驚くべき後日譚」アルフ・フォン・チブルカ/垂野創一郎(Merkwürdige Fortsetzung zu der Berühmten Chronika des Camille Flammarion "Komet und Erde",Alf von Czibulka,1920)★★★☆☆
 ――人間はやがて戦争の雄叫びから卒業するだろうというその帚星の意見を、同僚ハリーも翻すことはできなかった。地球文明は黎明期から人殺しと戦争に明け暮れていたのだと言い聞かせても無駄だった。

 75年に一回の周期で実際に地球を目にしているハレー彗星と、何万年単位で軌道を回っているより大きな彗星の目から見た、地球人(の愚かしさ)が描かれています。著者は『デア・オルキデーンガルテン』の監修者。タイトルに引かれているフラマリオンとは、中世の宇宙観を偽作したり、ハレー彗星地球滅亡説を唱えたりしたお騒がせ天文学者
 

「ラトゥク――あるグロテスク」カール・ツー・オイレンブルク垂野創一郎(Latuk Groteske,Karl zu Eulenburg,1920)★★☆☆☆
 ――巨大な火花電極器の間で、ラトゥクは宙ぶらりんになっていた。百万ボルトの電流が絶え間なく脳細胞に流れ込む。電気のデーモンに感染した彼の思考力は、驚くほど明晰になった。人間が電気を発見したのではない。人類こそデーモンによって支配され誘導された自然力なのだ……。

 こちらも『デア・オルキデーンガルテン』掲載。電気の中のデーモンに人間性を支配されてしまった科学者の掌篇。
 

「赤い光の中で」モーリス・ルヴェル/藤田真利子訳(Sous la lumière rouge,Maurice Levele,1910)★★☆☆☆
 ――「最愛の妻が死んでしまい、これから先ひとり残される……ずっと……もう六か月たつのに……死んだ妻を写真に撮ったんだ……現像したいが、勇気がない……よければ、君が一緒に暗室に行ってくれれば……」

 ここからフランス篇。紹介するのはグラン・ギニョル的なものだということで、一気にB級臭が強くなります。うわべや見た目のショッキング描写が重用されているばかりで、そもそも怖いのか何なのかすらよくわかりません。
 

「物音・足音」野尻抱影(1958)★★★☆☆
 ――「恐怖小説」という文字を初めて活字にしたのは、たぶん私である。大震災直後、雑誌のプランが行きづまり、米雑誌の書評でポウの系統を引くモーリス・ルヴェルという名を知った。なるほどぞうっとする陰惨な物語ばかりだ。

 東京創元社『世界恐怖小説全集』月報。紹介されている作品内容がどれもことごとくB級臭にまみれています。最初に紹介されている、目印の客がずれてしまうサーカスの自転車乗りの話はどこかで見聞きしたことがあります。有名な型なのか元ネタなのか。
 

「悪魔を見た男」ガストン・ルルー/藤田真利子訳(L'Homme qui a vu le diable,Gaston Leroux,1911)

「わたしは告発……されている」アンドレ・ド・ロルド/藤田真利子訳(On m'accuse...,André de Lorde,1928)

「幻覚実験室」アンドレ・ド・ロルド&アンリ・ボーシュ/藤田真利子訳(Le Laboratoire des hallucinations,André de Lorde et Henri Bauche,1916)

「最後の拷問」アンドレ・ド・ロルド&ウジェーヌ・モレル/藤田真利子訳(La Dernière torture,André de Lorde et Eugène Morel,1904)

 ルルー原案のグラン・ギニョル劇と、戯曲作家による反駁文、およびグラン・ギニョル劇二篇。グラン・ギニョルについては水声社の『グラン=ギニョル傑作選』でお腹いっぱいなので今回は読みませんでした。
 

「不屈の敵」W・C・モロー/青木悦子訳(His Unconquerable Enemy,William Chambers Morrow,1889)★★☆☆☆
 ――わたしは外科治療のためインド中央部の藩主へ呼ばれていた。使用人たちの中に、驚くほど悪意に満ちたネランヤというマレー人がいた。癇癪を起こして小人を刺し殺したため、罰として刺した方の手を切り落とされた。それを恨んで藩主に襲いかかったため、左手も切り落とされ……。

 ここからアメリカ。ただただ残酷さだけを追求した作品ですが、四肢を切断されてからの行動はさすがに荒唐無稽と言わざるを得ず、残酷というより馬鹿げていました。『アーゴノート』掲載。
 

「ジョン・オヴィントンの帰還」マックス・ブランド/夏来健次(John Ovington Returns,Max Brand,1918)★★☆☆☆
 ――同名の曾祖父ジョン・オヴィントンは、あるとき出奔して二度と戻らなかった。従軍中に恋仲だった隣家のベアトリス・ジャーヴァンが心変わりをし、ほかの男と逃げるところを止めようとして、撃たれた後に国外に出てしまった。その子孫のオヴィントンの許に、同じく同名のベアトリスから、曾祖父に届けられたのと同じ手紙が届いた。

 古式ゆかしいゴースト・ストーリーのようなたたずまいを持ちながら、最後は取ってつけたというか書き飛ばしたというか、理屈も雰囲気もへったくれもなく予定調和な結末にひとっ飛びでした。『オール・ストーリー・マガジン』掲載。
 

「唇」H・S・ホワイトヘッド夏来健次(The Lips,Henry St. Clair Whitehead,1929)★★★☆☆
 ――マーティン船長は艀に乗り込もうとしている黒人の女を蹴りつけた。すると女はなにごとかつぶやいてマーティンの首筋に噛みついた。傷の手当てをした一等航海士のパウンドは、醜い傷を見て顔を青褪めさせた。傷は痛みを増すばかりだった。「跳びこめ! 海へ跳びこめ!」という声が耳許で聞こえてくる。

 ホワイト「こびとの呪(ルクンド)」でもお馴染みの人面疽《ルクンドゥ》譚です。怖い、というよりも、傷口(唇)の不気味さが頭から離れなくなる作品でした。『ウィアード・テールズ』掲載。
 

「悪魔の娘」E・ホフマン・プライス/夏来健次(Satan's Daughter,Edgar Hoffmann Trooper Price,1936)★☆☆☆☆
 ――リードは発掘の戦利品を検分しはじめた。それは官能的な唇に笑みを浮かべた女人像だった。「それは悪魔サタンの娘《ビント・エル・ハレト》だ」と怯える従者をリードは落ち着かせようとした。その夜、女人像に似ているどころかまったく同じ女が月を背にして立っていた。

 悪魔像が発掘されてしまった始まりこそ、『エクソシスト』の冒頭を思わせる展開でわくわくしましたが、ストーリーはもちろん何よりも文章が超B級でした。著者は『ウィアード・テールズ』の常連ですが、この作品は『スパイシー・ミステリー・ストーリーズ』掲載です。
 

「責め苦の申し子」ワイアット・R・ブラッシンゲーム/夏来健次(The Prince of Pain,Wyatt Rainey,1938)★★★☆☆
 ――日が沈んでしまったのでフォールは船を下りて、最初に見つけた家の戸を叩いた。ぶ厚いガラス窓に爪を立てているような音が聞こえる。髭面の顔が埃の上から「HELP」と記していた。フォールがなかに入ると、男は足にひどい火傷を負わされていた。「いったいどうしたんだ!」そのとき明かりが灯り、後ろから声が聞こえた。「拳銃を捨てろ」

 まえがきで散々に書かれていたパルプ作品でしたが、文章もストーリーも単純明快な分、肩を凝らさずに楽しめました。確かに拷問の被害者や拷問の様子も記されていますが、恐怖というよりも殴り合いの痛快さが印象に残りました。『ダイム・ミステリー・マガジン』掲載。
 

「死を売る男」ロバート・レスリー・ベレム/夏来健次(Dealer in Death,Robert Leslie Bellem,1938)★★★☆☆
 ――絞首人はジプシー女リアラの家を訪ねた。反逆罪で有罪判決を受けた女を、明日吊るさなくてはならない。助けるために不死の薬を調合してもらうのだ。リアラの母を売り渡した金で……。

 これも単純明快、人を密告して小金を稼いでいた絞首人が、身から出たさびで破滅する話です。愛する者を自らの手で殺させるというのは残酷な手口の一つですが、この主人公の場合は一方的な一目惚れの片思いなので、残酷度は低いです。『スパイシー・ミステリー・ストーリーズ』掲載。
 

「猫嫌い」L・ロン・ハバード野村芳夫(He didn't Like Cats,Lafayette Ronald Hubbard,1942)★★☆☆☆
 ――ジェイコブは猫が好きではなかった。「あっちへ行け!」猫めがけて蹴りを入れた。たいした勢いではなかった。狙い澄ましたわけでもない。だが猫は路上に落ち、走っている車の車体がガツンと震えた。みじめな悲鳴が尾を引いた。

 猫の祟りを描いた作品ですが、随所に見られるオノマトペがことごとく幼稚でまったく効果をあげていませんでした。著者はサイエントロジー創始者というトンデモさんです。『アンノウン』掲載。
 

「七子」M・E・カウンセルマン/野村芳夫(Seven Sister,Mary Elizabeth Counselman,1943)★★★★☆
 ――「七人目の女の子は魔力をもつんじゃ!」ファンおばさんの言葉を真に受けた父親のドティは、赤ん坊をトウモロコシ倉庫に寝かせた。黒人連中から信頼されている深南部人のキャプテン・ジムは、それを見てドディを責めた。「この子はただのアルビノだ」。それでもドディは気が気ではなかった。七子がいつ“魔力”のきざしを顕しはじめるのか――。

 縁起の悪い七番目の子どもであり、黒人の子なのにアルビノで肌が真っ白だったため、呪われていると虐げられてしまう末っ子の話です。一つ一つの出来事は偶然で済ませられないこともありませんが、一番初めに「呪い」が発動した場面――指鉄砲で「バン、バン」と撃つと鳥が落ちる場面には、心底恐怖を覚えました。『ウィアード・テールズ』掲載。

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