『ファイン/キュート 素敵かわいい作品選』高原英理編(ちくま文庫)★★☆☆☆

 ゴシック篇だった『リテラリーゴシック・イン・ジャパン』に続いて、アンソロジー素敵かわいい篇。とにかくかわいければ問題なし、とでも言うかのように、編者による「はじめに」にも「少しつけ加え」にも解説めいたものは一切なく、ほとんど「かわいい」しか言ってません。つまりは「かわいい」と感じるか感じないか、感性が合うか合わないか、が評価に直結してしまう作品ばかりでした。
 

「1 まずはここから」

「プラテーロ」フワン・ラモン・ヒメーネス/長南実訳(Platero,Juan Ramón Jiménez)★★★★☆
 ――プラテーロは小さくて、むくむく毛が生え、ふんわりしている。手綱をはなしてやると、草原へゆき、花々にそっと鼻面をふれて愛撫する。

 はじめは馬なのかと思いましたが、結局この詩だけではプラテーロがいったい何なのかわからない(というか、何ででもあり得そう)ですね。実際には、どうやら驢馬のようです。
 

「手袋を買いに」新美南吉
 

「ちびへび」工藤直子 ★★★★☆
 ――暖っかいのだもの/散歩は したいよ/ちびへびは/おうちに鍵をかけ/ぷらぷらでかけた//こんちはというと/小鳥は ピャッと飛びあがり/……

 ちびでも蛇は蛇。だけど蛇なのにちび。そこで冒頭に戻るわけですね、なるほど。そりゃあもちろん、散歩したいでしょう。
 

「雀と人間との相似関係」北原白秋 ★★☆☆☆
 ――雀ほど人間くさい小鳥はありますまい。永世人間と同じ軒下に住み、人間と同じに起き、同じに眠って、同じに死んだり、生れたりしている、それは事実です、その交情の深切さは。

 う~ん、これは。。。雀さんの可愛さには、まったく共感できませんでした。。。
 

「2 可憐の言葉」

「誕生日」クリスティナ・ロセッティ/羽矢健一訳(A Birthday,Christina Georgina Rossetti)
 ――わたしのこころは 濡れた若枝に/巣をかけて 歌うたう小鳥のよう/わたしのこころは 枝もたわわに/鈴なりのりんごの木のよう/……

「「日記」から」知里幸恵
 ――芸術というものは絶対崇高な物で、親の為、夫の為、子の為に身を捧げるのは極低い生活だというのが百合子さんの見解だという。「しかし家庭の実生活も尊い物である事に気づかないのは百合子さんが若いのだ、かわいそうに……」と先生は仰る。

「蠅を憎む記」泉鏡花 ★★★☆☆
 ――いたづら爲たるものは金坊である。眠氣がさして仰向いたが、ふつくりとした絲卷を撮むと、絲はするすると手繰られる。やがて此の兒が何時も身震をする蠅の羽音。

 最後のさりげない姉の愛情に、心がほっこりします。
 

「追詩」室生犀星
 ――ボンタン実る樹のしたにねむるべし/ボンタン思へば涙は流る/ボンタン遠い鹿児島で死にました/……

「聖家族」小島信夫
 ――ヨセフはイエスを抱いて門口を出た。羊飼いの少年がヨセフに挨拶した。「こんばんは。」「こんばんは。」農婦がやつて来るのを見かけ、ヨセフはいヽ隣人らしい快活な声を出した。「うちのかみさんを見なかつたかね」「マリヤさんなら水汲場にゐるよ。」

 全体的にピンと来ない作品が多いです。
 

「永井陽子十三首」
 ――人ならず額に小さき角を持つものにも秋がくれたる木の実/こころねのわろきうさぎは母うさぎの戒名などを考へてをり/ふかふかのうさぎもをらず街はただあわゆきの降る春の夜なる
 

「3 猫たち、犬たち」

「スイッチョねこ」大佛次郎
 ――秋がきて、いろいろな虫が、にわへきて鳴くようになりました。ねこの母親に「虫をたべるのはおよしなさいよ。」とちゅういされていたのに、白ねこの白吉だけは虫が食べたいので木の下にすわっていました。

「子猫」幸田文 ★★★★☆
 ――子猫を二匹もらった。片方は器量よしで人なつこい。片方は眼がつりあがって人が手を出すと唸り声をあげる。庭で遊んでいても、わざわざ家のなかへ来ておしっこをする。これではいよいよ誰にも愛されない。

 かわいさの詰まった作品集のなかに紛れこんだ、「かわいくない」子猫の話。「かわいい」と感じるということは、対象に向かって愛情を感じるということなのだ、ということがよくわかりました。著者のまなざしがとても優しい。
 

「ピヨのこと」金井美恵子 ★★★☆☆
 ――猫のあしのうらの、人間でいえば指にあたる部分を、アズキと呼んでいたが、これが一般的なものかどうか知らない。アズキといえば、わたしが子供だった頃に飼っていたピヨという猫は、煮ていたアズキの飛沫を浴びて頭のてっぺんを火傷したことがあった。

 キュート……でしょうか? 最後のひとことに、著者らしい突き抜けた意地の悪さを感じてしまったのですが。愛猫家ならあるいはこれを意地悪いとは感じず全面的に賛成してしまうのかなあ。
 

「私の秋、ポチの秋」町田康 ★★★☆☆
 ――私ももう二歳半です。人間の二歳半といえばまだぐにゃぐにゃの赤子ですが、私はもはや青年です。秋の空に向かって、わわわわわん、と無駄吠えすることもできます。一方、主人・ポチは、というと、来年の一月で四十八になる、先の知れたおっさんです。

 ポチというのが犬ではなく主人の方で、語り手が犬なのです。
 

「おかあさんいるかな」伊藤比呂美 ★★★★☆
 ――ああ、ほんとに、急いで書かないとタケのいのちに置いていかれそうだ。タケの寝相が、どんどん死体っぽくなってくる。この寝相、どっかで見たなと思うと、うちの父だ。タケはこないだ私を起こしに来て、足を踏みはずして階段から落ちた。

 タケがかわいいかどうかは措いておき、「寝相が、どんどん死体っぽくなってくる」といった言葉のチョイスや、それが父に似ているといった発想の飛躍がキュートです。
 

「アリクについて」カレル・チャペック伴田良輔(O Alíkovi,Karel ?apek)
 ――こっちを見て、ダーシェンカ。さて、むかしむかしあるところに、アリクという名前のフォックステリアがいた。ある暑い日のこと、アリクが食べた草の中に、魔法の植物の葉が混じっていたんだ。
 

「4 幼心のきみ」

銀の匙(抄)」中勘助
 

「少女と海鬼灯」野口雨情
 ――ある日、みつ子さんがお縁側で、お友達の千代子さんと遊んでゐますと、お庭の土の中から唄が聞えて来ました。「わたしは 海の/鬼灯よ/わたしは お庭へ/捨てられて/今では お庭の/土の下」

「ぞうり」山川彌千枝
 ――私はぞうりなんです。お嬢さんが外へお出になって、しまうのをお忘れになったんです。そこへころ(犬)ちゃんと、はっちゃんが来たんです。

「夕方の三十分」黒田三郎
 ――コンロから御飯をおろす/卵を割ってかきまぜる/合間にウィスキーをひと口飲む/折紙で赤い鶴を折る/ネギを切る/一畳に足りない台所につっ立ったままで/夕方の三十分
 

「5 キュートなシニア」

「杉崎恒夫十三首」
 ――若からぬわれらのイブにたべ余す砂糖でできたサンタクロース/地図にない離島のような形して足の裏誰からも忘れられている/いくつかの死に会ってきたいまだってシュークリームの皮が好きなの

「月夜と眼鏡」小川未明
 

「マッサージ」東直子 ★★★☆☆
 ――生き返れないのなら、家の中のモノにとりつきたい。マッサージ器があるんですよ。あれにとりついたら、おれが家族をマッサージしてあげられる。……「お母さん、お腹すいたよ」言いながら、美穂がマッサージ器のおれを蹴った。「じゃまっけなんだよ、これ」

 死んでも仕事のことを考えているのがおっさん。一方的に家族のことを考えているのもおっさん。ある意味おっさん萌え。たまたま家族もいい人たちだったから、作品自体もほっこりしたものになりましたが。
 

「あけがたにくる人よ」永瀬清子
 ――あけがたにくる人よ/ててっぽっぽうの声のする方から/私の所へしずかにしずかにくる人よ/私はいま老いてしまって/若かった日のことを千万遍恋うている

「妻が椎茸だったころ」中島京子 ★★★★☆
 ――妻がくも膜下出血で亡くなってから二、三週間過ぎた夜、娘から電話があった。「明日はお母さんが申し込んでいた杉山先生のお料理教室だったわ。人気があってキャンセルできないからお父さん代わりに行って」断るつもりで電話を入れると、「明日は椎茸のみ、煮たものをお持ちくださいませ」

 タイトルと冒頭だけ読むと何だか不条理小説のようですが、定年直後に妻に先立たれた男の再生(というと大げさですが)の物語です。料理を通して亡き妻とまた会話ができるというのはいいものです。
 

「6 キュートな不思議」

「雑種」フランツ・カフカ池内紀(Eine Kreuzung,Franz Kafka)
 ――半分は猫、半分は羊という変なやつだ。父からゆずられた。ろくにニャオとも鳴けないし、ネズミには尻ごみする。もっぱらミルクをあてがっている。

「二つの月が出る山」木原浩勝・中山市朗
 ――彼女が小学生の頃、学校まで八キロもある山道を毎日通っていた。村につくまでに日が暮れてしまうこともある。そんな時、途中の山に月が二つ出ることがあった。

「一対の手」アーサー・キラ=クーチ/平井呈一(A Pair of Hands,Arthur T. Quiller-Couch)★★★☆☆
 ――それはあたしが南海岸の閑居に住んでた時のことなのよ。十二時ごろだったかしら。小説を読んでいると、水がチョロチョロ流れる音が聞こえるのよ。あたし、部屋着をひっかけて、蝋燭を持って、忍び足で食器部屋へはいって行ったの。

 けなげ、という言葉がぴったり来ます。好感を持った人に一生懸命に尽くそうという小さな子どもの頑張りが伝わってくるようでした。
 

「鳥」安房直子 ★★★★☆
 ――ある町に、耳のお医者さんがいました。おおいそぎでやってきた少女がさけびました。「あのね、ひみつが、あたしの耳の中にはいってしまったんです」そして少女はこんな話をはじめました。あたしが、その少年にあったのは、夕ぐれの海の、ボートの上でした。

 耳のなかに秘密が入ってしまった――その言葉、その発想、その映像喚起力に尽きます。その後の挿話などただの付け足しでしかないような、山ほどの魅力が凝縮された場面でした。
 

「7 かわいげランド」

「チェロキー」斉藤倫
 ――「おのれ目にモノ見せてくれるわー」/「歯にキヌ着せてくれるわー」/「手に職つけてくれるわー」/って、いたれりつくせりじゃないですか/と捨て犬チェロキーは公園の水飲み場の前にうずくまったままいった

「マイ富士」岸本佐知子
 ――小さい小さい富士山が欲しい。手に入ったらどこに置こうか。やっぱり枕元に置いて、飽かず眺め暮らしたい。目覚めたら富士。お茶を飲みながら富士。おやすみなさい富士。

池田澄子十三句」★★★★☆
 ――じゃんけんで負けて蛍に生まれたの/これ以上待つと昼顔になってしまう/セーターにもぐり出られぬかもしれぬ/ピーマン切って中を明るくしてあげた/舟虫のあつまりづかれしておる

 散見されるあるあるネタのような句のなかで、「集まり疲れ」という言葉のチョイスが光ります。
 

「電」雪舟えま ★★★★☆
 ――侍女の早手が走ってきた。「姫さま! 文でございます! 殿方からの、はじめてのっ」ひらいた手紙には、こんな歌が書きつけてあった。「竹取のかがよふ君といふ人の胡坐は月の習ひなりしか」 「なんじゃあこりゃあ」わたしは叫んだ。「なんでしょう、この歌……」「あぐらをかいてるところを見たんだろうよ」

 平安の世に解き放たれた現代っ子――というのが譬喩や言寄せではなく、どうやら電姫は現代の記憶を持っているらしいのですが……。現代においても浮いているような乙女チックな乙女が、平安に放り込まれることで、却って浮くことなく魅力を発揮していました。
 

「水泳チーム」ミランダ・ジュライ岸本佐知子(The Swim Team,Miranda July)★★★★☆
 ――わたしは二十二歳で、町の人たちはわたしの名前をマリアだと思っていた。八十を超していたその三人を知っていたのは、わたしが彼らに水泳を教えていたからだ。ここがこの話の一番のミソで、だってその町には海も川も湖も、プールだってなかったのだ。

 出オチといってはあれですが、プールのない町の水泳教室というのは破壊力があります。それにかぎらず冒頭からつっこみどころ満載の文章で(でもギャグではないので)、常識が揺さぶられます。
 

「うさと私(抄)」高原英理

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