『The Albatross』Charlotte Armstrong,1957年。
「あほうどり」白石朗訳(The Albatross,1957)★★★☆☆
――部屋を間違えた酔っぱらいを、暴漢と間違え殴りつけたトムとエスター・ガードナー夫妻は、翌週の新聞でその男コートニー・コールドウェルが死んだことを知る。自分が殴ったせいで死んでしまったのでは……罪の意識にさいなまれたトムは、コールドウェルの未亡人オードリーとその妹で車椅子生活のジョーンを、自宅に招いてしばらく面倒を見ることにする。だが慇懃無礼なオードリーの態度に、エスターは苛立ちと疑惑を次第に募らせてゆく。
タイトルはコールリッジ「老水夫」より。読み返してみると、いくら罪悪感があるからと言って、トムが未亡人姉妹の落ち着き先が見つかるまで自宅で面倒を見ようとまですることに、不自然さをぬぐえませんでした。全体を通して、妻と夫の〈女の直感VS男の鈍感〉という構図は貫かれているし、それゆえに危険を誰にも理解してもらえずに孤軍奮闘するというのもサスペンスの常道ではありますが、それにしてもトムが無邪気すぎます。オードリーが悪女というよりは、トムの間抜けさばかりが際立って感じられてしまいました。そして暢気なトムと反比例するように、エスターのヒステリックなところが際立ってしまう結果にもなっていました。あるいは『銀の仮面』パターンのサスペンスというよりも、「あほうどり」という罪悪感をきっかけに、夫婦の関係に亀裂が入ってしまう過程を描いた家庭内ドラマである、と読むべきなのかもしれません。
「敵」大村美根子訳(The Enemy,1951)★★★★☆
――「くそじじい!」フレディ少年がマトリン氏に襲いかかろうとして、警官に押さえられていた。こいつはぼくらの敵だ。犬に毒を盛ったのはこいつなんだ! マトリン氏はその日はゴルフに出かけていて留守だった。不審者が庭に入ったという証言もあった。だが少年たちはほかの可能性など無視して、マトリン氏を襲撃する計画を立てていた。ラッセルは少年の担任教師に協力を仰いだ。
憶測や思い込みではなく、事実を許にして真実を見極めるべきだ――というラッセル弁護士の主張は、作中の子どもたちに対する教育論であるとともに、そのままミステリのあるべき姿でもあります。子どもたちはもちろん大人たち、とりわけ第一容疑者からして思い込みや憶測で口を開く状況では、真実など見えっこありません。聞き込みの末に明らかにされる真実は、それだけに衝撃的です。
「笑っている場合ではない」田村義進訳(Laugh It Off,1953)★★★☆☆
――ペギーはレストランにいる男を見て悲鳴をあげた。「あの人、わたしを殺すつもりなのよ」ペギーは殺人を目撃してしまったのだという。アルとリタはいつもの嘘だと言って取り合わなかったが、ジョージはペギーの怯えた様子が演技だとは思えなかった。
こういう女を放っておけない男はいつの時代にもいるものです。ヒーロー願望というよりは、ぶりっこタイプが好きなんでしょうね。ジョージの〈人を見る目〉を、さり気ない描写で切り取ってみせる場面が秀逸です。「リタのことをけっこう可愛い子だとジョージは思っていた。それが笑顔を見て一変した。笑うと、口のまわりに何重もの皺ができ、歯並びもひどく悪い」。この後もこういう感じで、気に入らないものを否定し、自己を正当化しようとしてゆきます。
「あなたならどうしますか?」牧原冬児訳(What Would You Have Done ?,1955)★★★★☆
――バスの窓から、一年も前に死んだはずの人を見たら、まして未亡人の再婚祝いを買いに行く途中だったら、その再婚相手が密かに恋をしていた男性だったら……あなたならどうしますか? エディを見かけたことを従姉のマーシャに伝えたら、妬んでいるだけだと嘘つき呼ばわりされました。メイおばさまとポールおじさまも信じてくれません。
謎解きとは別のところで、語り手のナンが人としての決断が迫られるリドル・ストーリーになっています。実際のところ、瓜二つの人間が目撃されるミステリがあれば、双子か本人か変装か錯覚か等々……真相のパターンは限られているわけで、眼目は人間の心模様にあると言っていいでしょう。妬みを根拠にナンをヒステリックに糾弾するマーシャの姿には、異様なものすら感じますが、その裏には感情的に不安定だったり後ろ暗いところがあったりという事情が隠されていました。人騒がせなエディがそうせざるを得ない環境が、マーシャたちの側にあったとも言えるでしょう。アームストロング作品なら、私立探偵ベンとナンのロマンスが成就して丸く収まるはず――そう思いたいのですが。
「オール・ザ・ウェイ・ホーム」田口俊樹訳(All the Way Home,1951)★★★☆☆
――冤罪で一ヵ月服役して以来、夫のトムは異常なほど慎重になった。その夜、トムの運転する車が人をはねた。「病院を探さなくちゃ」わたしは近所の家に電話を借りに行った。ところがその最中、トムがわたしを車に押し込んだ。「轢いたのは死体だよ。あの男は銃で頭を撃たれていた」あの家の住人以外、わたしの顔を見た者はいない。なのにその家の住人が、あろうことかわたしの勤める美容室を訪れていた。スミス夫人という偽名を使って……。
巻頭の「あほうどり」にしても、「笑っている場合ではない」にしても、登場人物たちが「どうしてこんなアホなことしてしまうんだろう?」と言いたいような行動を取っていましたが、この作品はそれを逆手に取った形になっており、この並びで読むと変な意外性がありました。ただしあまりにも偶然が過ぎるし、語り手の策が意図通りに進むのも出来すぎという感はあります。
「宵の一刻」大村美根子訳(The Evening Hour,1950)★★★☆☆
――ディック・ハンターと妹のマージョリーは急いで駆けつけた。コンパニオンをしている母親のハンター夫人が殺人に巻きこまれたのだ。ギトンズ氏が撃たれ、死にかけていたギトンズ夫人が、撃ったのはハンター夫人だと証言していた。弁護士のマイク・ラッセルは考えた。ギトンズ氏が先に死ねば、遺産は妻の息子に。妻が先に死ねば、遺産は夫の息子に……。
子離れできなかったギトンズ夫人の犯行か――という仮説が立てられたあと、原因は夫への愛情(ゆえの誤解)だったという真相が明らかになり、ハンター兄妹の母離れで幕を閉じるという構成がきれいでした。ラッセル弁護士の存在が場違いにも思えますが、母離れできない息子娘たちに対して、「母」も「女」であるという事実に気づかせるには、やはり必要な存在なのでしょう。銃を撃ったのはハンター夫人ではないことがわかる証拠には、さほど意外性がない――というより「気づけよ」と思ってしまいましたが。息子が母親のことを「彼女」と呼ぶ無神経な翻訳にいらだちます。
「生垣を隔てて」大村美根子訳(The Hedge Between, 初出Meredith's Murder,1953)★★★☆☆
――十五歳の少女メレディス・リーは、八歳のころに殺人事件に遭遇していた。現在意識不明、犯人は黙秘。ラッセルは少女が書いていたノートを開いた。……叔父の家に来ている。隣家との境には途方もなく大きな生垣が設けられていて、〈邪悪な未亡人〉といった感じの女性がいた。旦那さんが背中を撃たれて殺されたとき、未亡人と叔父はお互いに相手が犯人だと思ってすれ違ってしまったに違いない……。
ラッセル弁護士シリーズは、どういうわけか知りませんが、子どもの成長をテーマにしているようです。ませた子どもが知恵を絞って出した答えとは別に、大人たちは経験によって直感的に真相を見抜いていました。とはいえその子どもの勘違いがきっかけで、大人たちには手段がわからなかった事件が動き出します。まさか不可能犯罪ものだったとは。
「ポーキングホーン氏の十の手がかり」田村義進訳(Ten Points for Mr. Polkinghorn,1956)★★★★☆
――ポーキングホーン氏、四十九歳、敏腕探偵ダニエル・ディーンの生みの親。留守のはずの隣家のカーテンから指がのぞいているのを見つけ、警察に通報した。囚人帽が落ちていたことからも、三人の脱走兵のうちの一人がいたに違いない。ポーキングホーン氏は、謎めいたメモや結ばれたネクタイから、推理を始める。
現実なんてそんなもの、何とも即物的な証拠から真相が明らかになりますが、事実は小説ほど奇ではないかどうかは、今のところ保留にしておきましょう。細部ははずしていても的ははずしてないあたり、パロディといえども嘲笑ってはいないところに、アームストロングのあたたかさを感じます。
「ミス・マーフィ」田口俊樹訳(Miss Murphy, 初出And Already Lost,1957)★★★★☆
――ミス・マーフィは副校長補として社会の側に立つ人間だったが、自分とは正反対の四人の生徒を見ると奇妙な思いを感じた。札つきとはいえ力と魅力を持っているのは素晴らしいことではないか……。その夜、電話ボックスのドアが開かなくなって閉じ込められたとき、四人が外にいるのが見えた。助けを求めたのに四人ともこっちを見ようともしない。
真面目一筋ゆえに不良にあこがれる――にしても、ちょっと中二病が過ぎる教師です。ある出来事をきっかけに、ようやく本質を見抜くことができたミス・マーフィの、極端な変わり身も、すがすがしいほどです。「でも、手遅れね」の言葉が小気味よい。
「死刑執行人とドライヴ」直良和美訳(Ride with the Executioner, aka A Gun Is a Nervous Thing,1955)★★★☆☆
――それは不幸な事故だった。父親が銃を見せなければ。その銃を家に忘れて行かなければ。弾をこめっぱなしにしていなければ。九歳のダニー・マリオットが銃の正しい知識を持っていれば。ダニーは即死だった。だが父親はそうは思わなかった。死んだのは担任が適切な処置をしなかったせいだ。イヴ・エイムズを殺してやる……。
校長先生の家に電話がないためイヴの所在が誰にもわからなくなる――というのは、当時としてはリアリティがあったのでしょう。日本と違って、先生のことを「校長先生」ではなく「ミス・○○」と呼ぶ習慣もあって、犯人がイヴのことを校長先生だと勘違いしてしまうところも、現代とも日本とも違う点です。とにもかくにも、かくして「死刑執行人とドライヴ」となるわけですが、生きるか死ぬかのサスペンスのさなかにあって、自分が助かる道だけではなく、犯人の苦しみを理解し犯人の命さえ救おうとするイヴの善良さが、サスペンスの足を引っ張っているのは事実です。地味ながら子どもが活躍する物語ですね。イヴを救うきっかけになるジーノしかり、ロマンスの仲介になりそうなテリーしかり。
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