「大金持ちの婦人の事件」アガサ・クリスティー/乾信一郎訳/若竹七海選・解説(The Case of the Rich Woman,Agatha Christie,1932)★★☆☆☆
――ライマー夫人がパーカー・パイン氏の部屋へ案内された。「わたしにお金の使い方を教えてちょうだい。贅沢にも慣れっこになっちまってね。夫の具合が悪くなって、お医者さんたちにたっぷりお金を払いましたけど、どうすることもできないんですね。わたしがまだ持っていないもので、買えるようなものが思いつかないんです」「いい換えると、あなたは生活が面白くない。なんの楽しみもないと。コンスタンチン博士をご紹介します」。魂の病を治す東洋の治療を施され、目覚めると農家にいてハンナと呼ばれていた。新聞によってハンナと自分が入れ替わっていることを知り、財産横領目的で嵌められたのだと考えた。
読者はパーカー・パインが探偵だと知っているので、ライマー夫人が騙されているとは考えず、パーカー・パインが依頼を実行したのだと思うだけです。そんな見え見えのお約束のシリーズだということなのでしょうけれど、若竹氏をはじめとして、パイン氏シリーズ前半の独自性を評価している方がけっこういるのも事実です。
「読み替えと逸脱、破壊と創造~クリスティー映像化の昨今~」小山正
イギリスITV版ミス・マープルは、マープルもの以外の作品をマープルものに改変している――と聞けば、普通は探偵役が変更されたと思うのですが、『親指のうずき』ではトミーとタペンスと共演しているそうです。『親指のうずき』は回想の殺人ものなので、ミス・マープルと相性がよいといえばよさそうではありますが。
「私の妄想キャスティング」大矢博子・高殿円・山崎まどか・他
日本人には馴染みのない古代エジプトの話を、漫画『日出づる処の天子』でお馴染み聖徳太子に置き換えてみるという高殿氏の発想はけっこう現実的かも。日系ロシア人のポワロBLとかいう妄想は何の漫画なのかわかりませんが。山崎氏は『茶色の服の男』をアイドルの登竜門映画としてキャスティング。俳優だけでなく監督まで考えるところにこだわりを感じますし、ハリウッドと日本の幅広い年代を妄想しているのも、本当に妄想が楽しいのが伝わってきて、読んでいて頬がほころんできました。
「ミス・マープルの紅茶外交」貝谷郁子
「砂に書かれた三角形」アガサ・クリスティー/小倉多加志訳/霜月蒼選・解説(Triangle at Rhodes,Agatha Christie,1936)★★☆☆☆
――エルキュール・ポアロはロードス島の白い砂浜に腰をおろして、きらめく青海原を見渡している。「人間くらいおもしろくて、底の知れないものはないと思うんですけど」横に坐っているパメラ嬢が言ったが、ポアロは「そんなことはありません。人間なんて想像以上に同じことを繰り返すもんですよ」と答えた。チャントリー夫妻がやって来た。派手で裕福なヴァレンタインの五番目の夫は海軍中佐だった。また別の一組が浜辺へおりてきた。ゴールド夫妻だ。ゴールド氏がヴァレンタインに色目を使い、トニー・チャントリーが激怒して、マージョリー・エマ・ゴールドが嘆いているのをパメラは面白そうに評していたが、ポアロは「心配だ……」と呟き、ゴールド夫人に島を離れるよう忠告した。
霜月氏は、長篇型の作家だったクリスティーの作品のなかで「『クリスティーのミステリとは?』という問いに最小限の文字数で答えるのが、『砂に書かれた三角形』なのだ」と評しています。さすがにポワロの思わせぶりなミスディレクションは強引すぎて説得力のかけらもありませんでした。どう頑張ってみたって【ネタバレ*1】には読めません。霜月氏は「そのいびつさと不器用さ含め」と書いていますね。
「数日後の夜に」リヴィア・ルウェリン/高橋知子訳(One of These Nights,Livia Llewellyn,2019)★★★☆☆
――ニコールの父親はわたしたちを車から降ろした。「自動販売機用に一ドルくれない、パパ?」ニコールがねだる。「友達のジュリーに頼め。小銭は全部、あの子に渡した」ミスター・ミラーは鼻であしらった。「あのお金はどういうこと、ミスター・ミラー?」わたしは彼を見つめる。「ジュリーがほしがったからあげた。きみにもあげてもいい」「今ここで? 待ちきれないの?」彼はわたしからあの言葉を引き出そうとしている。ジュリーはわたしとニコールがこう振る舞いたいと憧れていたタイプの女の子だ。でもやがて、そう見えるのとそうであるのとは違うことに気づいた。わたしはプールに向かう。浅い側を通り過ぎて、中央のレーン付近のあたりがニコールとわたしにはちょうどよかった。自信を失えば、あるいは自信過剰になれば、溺れてしまう場所だ。
2020年MWA短篇賞(エドガー賞短篇賞)受賞作。大人への憧れと押し潰された現実のなかでもがく少女たち。よくできてるけど、ありがちだと思います。
「おやじの細腕新訳まくり(20)」
「悪魔の犬」ジャック・ロンドン/田口俊樹訳(The Devil-Dog,Jack London,1902)★★★★★
――バタールは悪魔だった。飼い主のブラック・ルクレールも悪魔だったので、よくできた組み合わせだった。一腹の子犬の中から取り上げたとき、バタールはルクレールの手にその幼い牙を食い込ませようとし、ルクレールは片手で子犬の首を絞めて殺そうとした。それから五年このペアは旅をした。バタールの父親はシンリンオオカミだった。バタールとルクレールの歴史は戦争の歴史と言える。怒ったバタールが一度ならずルクレールの咽喉をめがけて飛びかかり、そのたびルクレールの犬鞭の柄で殴られ、痙攣する羽目になった。
「The Devil-Dog」はヒッチコック編のアンソロジーに収録された際のタイトルのようで、初出名「Diable --A Dog」で単行本収録時「Bâtard」です。いずれにしてもタイトルのうえでは犬がメインなんですね。実際には一人と一匹の悪魔の話です。相手を害することだけを互いに常に考え合っている腐れ縁のような関係が、まるで歪んだ友情のようですらありました。
「ミステリ・ヴォイスUK(121)三毛猫と言霊」松下祥子
「迷宮解体新書(118)川瀬七緒」村上貴史
「BOOK REVIEW」他
◆周浩暉『死亡通知書 暗黒者』は華文ミステリの傑作ということですが、あらすじは「欧米や日本の警察小説とさほど違わない」ためあまり食指を動かされません。
◆イアン・リード『もう終わりにしよう。』は、シャーリイ・ジャクスン賞の最終候補作。変な小説のようですが、実験小説的なのでしょうか。
◆デイヴィッド・ミッチェル『ボーン・クロックス』は、スティーヴン・キングが大絶賛した世界幻想文学大賞受賞作。
◆復刊・新訳からはクリスティー『ポケットにライ麦を』、クイーン『エラリー・クイーンの新冒険』他。『ライ麦』の方は細かい訳語を除けばさほど大きな違いはありませんが、「神の灯」は読みやすくなった結果、家を消した理由(の無さ)のアラが目立ってしまった模様。
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*1犯人への警告