『The Smoking Room and Other Stories: A Collection』Shirley Jackson。
死後発見された未発表原稿および単行本未収録作品を集めた『Just An Ordinary Day』から、水準に満たない作品を除く短篇23篇およびエッセイ5篇・序文・エピローグを選び再編集したものです。
「序文 思い出せること」(Preface: All I Can Remember)★★★★☆
――十六歳のころのことで覚えているのは、読んでいた本が物足りなくて、いら立ちが高じるあまり、いっそ自分で書いてやろうと決意したことだ。推理小説ならいちばん書きやすいし読みやすいだろう。犯人はくじ引きにする。結末直前まで書いてから、家族に読んで聞かせた結果は、かんばしいものではなかった。二度と小説なんか書くものか。
若い頃の思い出話から始まり、作家になるきっかけ作家にならないという決意をするまでにいたった、著者のユーモアが堪能できるエッセイです。
「スミス夫人の蜜月(バージョン1)」(The Honeymoon of Mrs. Smith (Version I))★★★★☆
――食料雑貨店に入ったとたん、スミス夫人には、たった今まで自分と夫のことが噂されていたことがわかった。ラムチョップを三本買った。一本は自分のため、二本は夫のため。三十八歳のオールドミスだって、結婚することができるんだから。夫人が店を出ようとすると、店主が「いずれだれかが教えてやらんと――」と言いかけた。
短いスケッチのようなあっさりとした掌篇ですが、これはこれで、知らぬは本人ばかりなりのサスペンスを楽しめました。
「スミス夫人の蜜月(バージョン2)――新妻殺害のミステリー」(The Honeymoon of Mrs. Smith (Version II) The Mysteryof the Murdered Bride)★★★★☆
――食料雑貨店に入ると、みんなが熱心に聞き耳を立てているような気がする。スミス夫妻はおかしな関心の的になっていた。夫は新聞に載ってた男にそっくり。妻をころ――。夫に夢中なわけではないし、最初に声をかけられたときも、下品な男だと思ったものだ。
バージョン1とは違い、夫人自身も早い段階から夫の正体には気づいていますし、そもそも結婚に浮かれてもいません。随所に夫人の屈折した思いが書き込まれており、夫人の抱えている倦怠や諦念が見て取れます。自分がしてきたつもりのパターン通りの生活が死んだ父親のものだったと気づいて無意味なものとなったとき、プロポーズした相手に「何度もくり返されてきた企みが、完璧なパターンを作りあげていることを見てとって」プロポーズを受諾したという記述には、哀れを通り越して恐怖さえ覚えました。
「よき妻」(The Good Wife)★★★★☆
――ジェイムズ・ベンジャミンは郵便物を確認した。妻が自室で暮らし始めてひと月になる。ベンジャミン氏は鍵をひねり、ドアをあけた。「お母さんと、ジョーニーという女性から手紙が来てたよ。ほかにはなかった。ファーガスン氏はきみを忘れてしまったのかな」「そんなひと知りませんわ」
病身の妻と暮らす夫の話――だと思ってしまいましたが、まったく違いました。途中まではそうも読めるように書かれているのが意地が悪い。暴力によって自我を踏みにじられ、うちに閉じ籠もることでもう一つの生き方を見つけようとするのは、「スミス夫人の蜜月(バージョン2)」や『ずっとお城で暮らしてる』にも共通する部分だと思います。
「ネズミ」(The Mouse)★★★☆☆
――マルキン夫妻がアパートに引っ越してくると、妻ならではのユーモアで書斎の壁をネズミ色に塗らせた。マルキン氏は妻が好きだった。ネズミの一件までは。ネズミに怯える妻に、ネズミとりの購入をすすめたが、家に帰ると妻は……。
何かがきっかけになってリミッターがはずれてしまった、女心の恐ろしさ。妻が夫にマザコン的な干渉をし、子どもを持たせないようにし、存在しない家族の通帳が見つかり、子持ち状態のネズミが殺され――と連ねて考えてゆくと、あるいは夫妻には過去に死んでしまった我が子か何かがいたのでしょうか。
「逢瀬」(Lovers Meeting)★★★☆☆
――長く孤独な夜が始まり、フィリスは夜通し冒険して、ついには……部屋を出て人けのない通りに出てはじめて、背後の足音に気づいた。恐怖は感じたかもしれないが、驚きは覚えずにフィリスは歩き続けた。
旅の終わりは恋人たちの……というわけで、最終的には出会ってしまうことはタイトルから歴然としています。追いかけていたのは、出会ってしまったのは、死神なのでしょうか、それとも別の何かなのでしょうか。
「お決まりの話題」(The Story We Used to Tell)★★★★☆
――これはYとわたしのお決まりの話題、夜の静けさの中で語り合った話……Yの夫の葬儀から一月ほどたったころ、わたしたちはベッドに腰かけ、広い屋敷を包む悲しみを忘れて笑い声を上げた。Yの寝室には屋敷の絵がかかっていた。祖父が改修する前の古くて美しい屋敷だった。「ガラスがあってよかったわ。あの丘が地滑りを起こして押し寄せてきたら大変!」
この作品にも、『ずっとお城で暮らしてる』を思わせるような、危うい語り手による語りが採用されており、それが魅力ともなっています。死者を殺してもなお解けない呪いよりもさらに、元に戻るのではなく、ミイラ取りがミイラに――「悟った」という一語が怖いです。
「なんでもない日にピーナツを持って」(One Ordinary Day, with Peanuts,1955)★★★★★
――ジョンスン氏は朝の陽射しの中へ出ていった。世界とはすばらしい。新聞とピーナツを忘れずに買い、歩き出した。引っ越し準備をしている母子を見かけ、ピーナツを差し出して男の子の面倒を見た。野良犬にピーナツを食べさせ、仔猫を撫でようとかがみこんでいると、急ぎ足の若い女性がまともにぶつかってしまった。ジョンスン氏は笑いだし、「もう遅刻しているんですから、残りの時間をわたしにくださいませんか?」
これぞシャーリイ・ジャクスンの真骨頂。度を越した善意の人のなかに宿る、人間の闇が露わにされています。ジョンスン夫妻のやっていることは、どちらも表向きは「いいこと」です。夫人の正義はクレーマー的な正義ではありますが、悪いこととは言い切れない。とは言え、いずれにせよ、どちらもひとりよがりな善意の押し売りであることも間違いありません。役割を交替云々という夫婦の話からすると、そもそも悪意が善意の表象を纏っているだけである可能性もあります。
「悪の可能性」(The Possibility of Evil,1968)★★★★☆
――ミス・ストレンジワースは町じゅうの人間と知り合いだった。食料雑貨店に入り、一人一人にあいさつを返したあと、雑貨店のルイス氏にあいさつをした。ルイス氏が浮かない顔をしていることに気づいた。図書館司書のミス・チャンドラーもどこか上の空だ。悩みのある人が多いみたいね。家に帰ると引き出しから便箋を取り出した。
悪意なのか善意なのか決めがたいジョンスン夫妻の行動と比べれば、ミス・ストレンジワースの行動はとてもわかりやすい悪意(のように見えます)。が、ミス・ストレンジワース自身にとっては、本気で信じ込んでいるのかただの言い訳の詭弁なのかは不明ながら、手紙を出すという行為は、「悪の可能性」を仄めかすことでみんなに危機感を与えるという正しい行動であるようです。
「行方不明の少女」(The Missing Girl,1957)★★★★★
――ルームメイトは単調なメロディをハミングしている。自然観察帳を書こうとしていたベッツィはもう少しで癇癪を起こしそうだった。「ねえ、出かけてくるわ」。その月曜の夜以来、彼女を見かけた者はいなかた。木曜日になってベッツィはキャンプ・マザーのオールド・ジェーンに話をした。自宅にも帰っていないことから、警察を呼ばなければいけなくなった。
行方がわからなくなった少女は、どこに、何の目的で出かけたのか? その謎が解かれることはない――という表現すら正確ではありません。この世界を構成する原理が歪んでしまったかのように、何かがずれてしまっています。現実的に解釈するなら、誰もが本気で捜そうとはせず失踪前から興味も持たず、ただ職員や同期生や捜索隊や家族の役をこなしていただけ、なのでしょうけれど、いずれにしても不気味な作品です。
「偉大な声も静まりぬ」(A Great Voice Stilled,1960)★★★☆☆
――「病院も臨終に立ち会うのも大嫌い。あの人が今日亡くなるってどうしてわかるのよ」「来なかったら後悔してた。ぼくたちが一番に着いたんだから、上に行けないかな」「亡くならなかったら?」「エンジェルが飛行機でここに向かっているし、『ドーマント・レビュー』のスタッフも死亡記事の用意をしているんだ。誰かに阻止できなければ、奥さんも向かっている」
偉大な作家の死。集まるのは死を悼む人々ではなく、利権にありつこうとする者たちだけです。死を悼む言葉も、作家の著作からの都合の良い引用でしかありません。
「夏の日の午後」(Summer Afternoon)★★★☆☆
――ジーニーとキャリーは人形を使って二番めに好きな遊びをしていた。それにも飽きると、ティッピーに会いに行くことにした。ティッピーには長いこと会っていない。ティッピーに会ってきたことを話すと、母親は心配そうな顔をした。「小さい女の子? この近所に?」
子どもにだけ見えるもの。最後の台詞だけの応酬は、当然ジーニーとキャリーの会話なのですが、もしかすると別の何かの台詞が混じっているのではないかと妄想してしまい、怖くなりました。
「おつらいときには」(When Things Get Dark,1944)★★★★☆
――「あなたには今、友人が必要だと思うんです」。ガーデン夫人は手紙を読み返し、差出人のホープ夫人に会いに行った。顔には不安が浮かんでいた。ホープ夫人には偶然バスで会い、親切にしてもらったのだ。「ご相談があるんです。結婚したばかりで、まだ子どもを育てるつもりはなかったのに……」
マタニティ・ブルーに沈んでいた新妻が、善意のルーチンワークに気づいて正気に返ります。本書を通して何作かに見られる、制度化された善意のようなものが不気味です。
「アンダースン夫人」(Mrs. Anderson)★★★★☆
――アンダースン氏が朝食の席でタバコを出し、「またライター二階に忘れちゃったよ」と言うと、夫人は「言ってくれてよかった」とため息をついた。夫がいつも口にしている言葉を言わない夢を見た。それで不安な気持ちになっていたという。
これもまさに「なんでもない一日」の話です。いつも通りの倦怠、いつも通りの安心、自覚のないことに対する不安。倦怠期の夫婦の日常を、月並みな夫に対する妻の不満という形を取りながら、最後にちょっと見方をずらしてみせます。ただし、ずらして見せたどんでん返しの結末がむしろわざとらしくて平凡でした。
「城の主」(Lord of the Castle)★★★☆☆
――魔術に手を染めたからといって、父が首を縊られた。わたしは復讐を誓った。村人たちが父を殺したのではない。悪と闇と恐怖の力のせいだ。父の意志を継いで、城のある山にいる悪霊を探し出す。城を訪れた父の庶子だという男の助言に従い、わたしが倒れたとしても意志を継ぐ子を作るため、妻を娶ることにした。
珍しく魔術と悪魔いう超常的な題材が用いられています。魔術の場面といっても呪文で絶世の美女が現れる程度ですが。庶子を自称する男の正体は、「ニコラス」なる名前を見れば明らかでしょう。彼こそがオールド・ニックその人です。
「店からのサービス」(On the House,1943)★★★☆☆
――アーティは酒屋のカウンターの中に腰かけて新聞を読んでいた。盲目の客が一人、あとから女性も入ってきた。「いらっしゃい」「バーボンはあるかい」「新婚さんでしたら、四ドルにしておきますよ」盲目の男が四枚の紙幣を取り出した。
当然男もグル、と考えるべきなのでしょうが、それだと単なる詐欺師カップルの話になってしまいます。ジャクスンにしては普通の話、だと思います。
「貧しいおばあさん」(Little Old Lady in Great Needs,1944)★★★★☆
――キティはひいおばあちゃんと一緒に歩いていた。「おばあちゃん、かわいい犬がいる!」「アメリカへ来るずっと前、犬を飼っていたわ。そのあとひいおじいちゃんとサンフランシスコに来て、人前でタバコを吸った最初のレディになったのよ。帰る途中で店に寄って夕飯の材料を買いましょう」
盲人と老人。社会的弱者という立場を悪用した人物の登場する作品が二篇つづきます。ただしあちらは完全に詐欺師ですが、こちらはそうとも言い切れません。おそらくこのおばあちゃんは自分のやっていることに罪悪感を持ってはいないのでしょう。そして、そういう思考回路をしている老人は、残念ながら現代の日本にも大勢います。誰の心にも潜んでいる闇を描いているという点で、よりシャーリイ・ジャクスンらしく、より作品として優れていると思います。
「メルヴィル夫人の買い物」(Mrs. Melville Makes a Purchase,1951)★★★★☆
――メルヴィル夫人は売り子に待たされるのが嫌いだった。ぴったりのブラウスを見つけたというのに、ようやく対応した売り子は態度が悪い。絶対にクビにしてやる。「苦情係は九階です」という言葉をあとにして、九階を目指したメルヴィル夫人は、六階で昼食を食べてゆくことにした。ブラウスの入った紙袋を置いて、昼食を注文したが、レストランの店員も態度が悪い。
店員の態度が接客業としてなってないほど悪いはずなのに、むしろメルヴィル夫人に嫌悪感を抱いてしまいます。この通りどっちもどっち、なので、さて物語がどう転ぶのかと楽しみに読み進めて行ったところ……メルヴィル夫人、痛恨の負けか!……と思いきや、やっぱり夫人が一枚も二枚も嫌な奴、でした。
「レディとの旅」(Journey with a Lady,1952)★★★★☆
――両親に心配されるなか、ジョゼフは一人で列車に乗っておじいちゃんに会いに行った。漫画も五、六冊あるし、お小遣いももらった。なのに大人の女の人が同じ席に座るなんて、ついてない。「どこまで行くの?」「メリータウン」「車掌さん、メリータウンまでの切符を」「息子さんの分はあるようですな」
著者の短篇「これが人生だ」のプロトタイプ――というより、どうやら初出の題名のようです。少年と女性とのロードムービーのような、犯罪と友情を描いた二人の旅路です。瞬時に分かり合えちゃうところがいいですよね。そういうのをかっこいいと思ってしまう年頃なのだろうとはいえ。
「「はい」と一言」(All She Said was Yes,1962)★★★★☆
――隣人のランスン夫妻が事故で亡くなったことを、留守番していた一人娘のヴィッキーに伝えるのはつらいことでした。それなのにヴィッキーは涙一つも見せません。「わかってます。二か月前に、二人に言ったんです。だけど聞いてくれなかった」
予知能力を第三者目線で描くと、ちょっとエキセントリックな隣人に眉をひそめる常識人の話になるのだということがわかります。超能力が実在するかどうかにかかわらず、良識というものの両面を見る思いです。
「家」(Home,1965)★★★★☆
――エセルは田舎に越してきたばかりだった。「この雨の中、サンダースンの道を車で来られたんですか?」金物屋の店員がたずねた。素敵な村。みんなもう、わたしたちのことを心配してくれるなんて。車を走らせていると、雨の中に立つ老婆と男の子が見えた。「すぐに車に乗って。震えてるじゃない」
怪談としては平凡と言っていいのですが、引っ越し先のご近所づきあいに頭をめぐらす主婦の心理に、リアルなスリルを感じました。そういった現実的ないやらしさにジャクスンという作家の凄みを感じますし、そこに怪談を絡めるところに面白味を感じました。
「喫煙室」(The Smoking Room)★★★★☆
――女子寮の喫煙室でタイプを打ってレポートを作成していると、いきなりドカンと音がして、悪魔が現れた。悪魔は紙を取り出し、「こいつにサインしてもらえるかな?」と言った。わたしは読んだ。「この書類、合法的とは言えないわね。わたしが作ってあげる」
悪魔との契約ですが、女子大生のほうが一枚上手でした。そして悪魔より怖い……。シャーリイ・ジャクスンのユーモアがかいま見られる一篇です。
「インディアンはテントで暮らす」(Indians Live in Tents)★★★☆☆
――「拝啓ミス・グリズウォルド こんな素敵な部屋を又貸しして下さりありがとうございます。あなたの家具をお送りしてもよいでしょうか」「拝啓ミスター・バーリンゲイム わたしが今の部屋を前の住人から又借りしていることは大家には隠しておりますので、家具を運び込むことなどできません」「拝啓ミセス・タトル 遺憾ながら転借期間の満了に伴い立ち退きをお願いいたします」……
ユーモアものが続きます。又貸しの又貸しの又貸しの……という悪ふざけめいた状況が、手紙だけで構成されています。当然ながらどこか一つがつまずけば、ドミノ倒しのように、又貸しの又貸しの又貸しの……と影響が及んでゆきます。
「うちのおばあちゃんと猫たち」(My Grandmother and the World of Cats)★★★☆☆
――おばあちゃんは優しい女性だが、猫が相手だと話が別だ。おばあちゃんは猫が大好きだったが、猫たちはおばあちゃんを見ると身の毛がよだつようなのだ。これまでうちで飼った四、五十匹の猫が逃げ出していた。フロッシーという猫はおばあちゃんにそっと近づいて足首にがぶりと噛みついていた。
これも同じくユーモアものに見えますが、主人公たるおばあちゃんに善意の悪意のような気持ち悪さを感じるところに、前記二篇とは違った読後感がありました。当然といえば当然ですが、おばあちゃんのほうが一枚上手ということですね。
「男の子たちのパーティ」(Party of Boys)★★★☆☆
――長男のローリーは十二歳の誕生日をとことん楽しく納得のいく形で祝おうと考えた。ローリーと七人の友だちは、これから街に行って映画を鑑賞するのだ。「おまえら先週のこと覚えてるよな? 案内係から文句言われただろ」わたしは口を挟んだ。「いい? 行儀よく――」「げっ、母さんいたんだ」とローリー。
ここからエッセイ。つまり母親である語り手の「わたし」がシャーリイ・ジャクスンということになります。腕白坊主どもに対する苦労は、けれど感じられません。それどころかむしろ楽しんでいるのが伝わってきて、子育てとはこんなに楽しいのかと錯覚しそうになりますが、ジャクスンくらいの機知と度量がなければなかなかこうはいかないでしょう。ほぼ空気の父親もいい味出してます。
「不良少年」(Arch-Criminal)★★★★☆
――十二歳の少年の母親はたいてい、息子が犯罪に引きずりこまれているに違いない、という不安を持っているものだ。ローリーはローランド家の不良どもに騙されただけだ。ある日の夕方、ローリーが顔を煤だらけにして帰ってきた。「どうしたの」「自分の上着を使ってくれって言ったんだけど」「使うって何に」「火事を消すのに」
可愛い悪ガキだったローリーも、今では立派な悪童、不良少年です。笑い事ではすまされませんが、それだけに読む分には面白いのです。
「車のせいかも」(Maybe It was the Car)★★★★☆
――あれは車のせいだったのかもしれない。夫の学生が悪気もなしに、「絵は進んでらっしゃいますか」と尋ねた。「奥さんは画家のはずですよね」「たしか作家のはずよ」わたしは新車のコンバーチブルに乗って、町の外を目指した。わたしは作家よ、料理や掃除やファスナーの掃除をする人間じゃないわ。ホテルに入ると偽名を記入した。
主婦や生活にうんざりしたシャーリイ・ジャクスンが決行したプチ家出。といっても生活圏内。新車を運転したかっただけのようです。
「S・B・フェアチャイルドの思い出」(My Recollections of S. B. Fairchild)★★★★☆
――二年半前、結婚十五周年を記念してニューヨークの大型店でテープレコーダーを購入し、子どもたちの声を録音・再生していたが、動かなくなったので地元の店に見せると、最初から不良品だったというので返品することにした。返送料は負担せよ、梱包代は負担せよ、というのでニューヨークに行く友人に返品を頼んだところ、なぜか修理に出されたまま梨の礫。請求書だけが届くようになった。
まるで不条理小説のような、デパートとの二年半にわたる不毛なやりとりが綴られています。結局どうなったのでしょうか、その後が気になります。
「カブスカウトのデンで一人きり」(Alone in a Den of Cubs,1953)★★★☆☆
――ボーイスカウトの組《デン》のデンマザーを頼まれ、六人の隊員たちを招いて家で集会を開くことになった。「まずは会計係を決めます」沈黙があった。ふいにひらめきが訪れ「いいえ、めそめそ係を決めようと思います」。子どもたちを黙らせたいときは「静かに!」と叫んでいた。だが隊員たちには最初の一回しか効き目がなかった。
子どもたちを黙らせるために取った手段(^^! シャーリイ・ジャクスン、楽しんでます。それがちゃんとオチにもなっていて、まるでコントのようでした。
「エピローグ 名声」(Epilogue: Fame)★★★☆☆
――処女作が出版される二日前、引っ越す準備をしていたところ、電話が鳴った。「シャーリイ・ジャクスンです」「ミセス・ハイマンとお話ししたいんですけど?」わたしは一瞬口をつぐんでから「わたしです」としぶしぶ言った。「わたし新聞社の者です」「ひょっとしたら取材が来るんじゃないかと……」「何か話題を持ってそうな町の人にお話しを聞こうと……」
記者が相手の言ったことではなく自分の書きたいことを記事にするというのは、今も昔も変わらない――というよりも、どうやらこの記者は愛すべきボケボケおばあちゃんのような気もしますし、シャーリイ・ジャクスンの自意識過剰のような気もしますし。うれしはずかしデビューのころのエピソードでした。
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